第二話 優しい屋敷と閉じた世界
目が覚めた時、私は一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
白い天井。
見慣れない木枠の窓。
重そうな厚いカーテン。
身体にかかっている布団は柔らかくて、ほんの少しだけ乾いた草のような匂いがした。
自分の部屋ではない。
そう気づいた瞬間、昨日起きたことが一気に頭の中へ戻ってきた。
就活セミナーの帰り道。慣れないヒール。駅前の段差。転んだはずなのに、目を開けたら森の中にいたこと。
そして、馬に乗った知らない男の人――エレンに拾われたこと。
「……夢じゃない」
小さく呟いた声は、思ったよりもかすれていた。
私は寝台の上で身を起こした。窓の隙間から淡い朝の光が差し込んでいる。カーテンを少し開けると、外には昨日と同じ深い森が広がっていた。
ビルも、道路も、電柱もない。
どこまでも木ばかりだった。
胸の奥が、きゅっと縮む。
私は慌てて枕元に置いていたバッグを引き寄せた。スマホを取り出し、画面を点ける。
電池は六十三パーセント。
そして、やっぱり圏外。
私はしばらくその表示を見つめていた。
何かの間違いであってほしかった。少し歩けば電波が入るとか、昨日はたまたま圏外だっただけとか、そういう可能性に縋りたかった。
でも、たぶん違う。
ここは、私の知っている場所ではない。
私はスマホの画面を消して、バッグに戻した。電池がなくなってしまうのが怖かった。充電器は入っているけれど、この屋敷にコンセントがあるとは思えない。
それだけのことが、妙に心細かった。
顔を洗いたくて部屋を出ようとした時、扉の外から控えめな音がした。
ノックだと気づくまでに、少し時間がかかった。
「……はい」
返事をすると、扉が開いた。
エレンが立っていた。
昨日と同じ、深い茶色の髪。灰がかった青い目。朝の光の中で見ると、やっぱり整った顔立ちをしているのに、表情がほとんど動かないせいで近づきづらい。
手には、小さな盆を持っていた。
「起きたか」
「あ、はい。おはようございます」
自分でも場違いだと思うくらい普通の挨拶をしてしまった。
エレンは少しだけ目を瞬かせた。
「……おはよう」
返ってきた言葉は短かったけれど、昨日よりほんの少しだけ柔らかく聞こえた。
盆の上には、水の入ったカップと、薄く切られたパン、それから果物のようなものが乗っていた。
「食べろ」
「あ、ありがとうございます」
私は盆を受け取った。
そこで、自分の足元が冷えていることに気づく。昨日借りた服は柔らかいけれど、足は裸足のままだった。パンプスは泥だらけで、とても履く気にはなれない。
エレンの視線も、私の足元へ落ちた。
何か言われるのかと思ったけれど、彼は何も言わずに扉を閉めた。
私は寝台の端に腰を下ろし、パンを少しちぎって口に入れた。
素朴な味だった。
甘くはない。でも、噛んでいると小麦の香りがして、胃の中が少しだけ落ち着いた。
果物は林檎に似ていたけれど、少し酸味が強い。知らない味なのに、食べられることがありがたかった。
食事を終えた頃、もう一度ノックがした。
「はい」
扉が開き、エレンが入ってくる。
今度は、手に靴を持っていた。
柔らかい革でできた、踵の低い靴だった。昨日のパンプスとは違って、歩きやすそうな形をしている。
「これを履け」
「え……」
「昨日の靴では歩けない」
私は靴を受け取った。
新品ではなさそうだけれど、よく手入れされている。中に触れると、革が柔らかくなっていて、足を痛めにくそうだった。
「あの、これ、誰の……」
言いかけて、私は口を閉じた。
誰のものかなんて、聞かない方がいい気がした。
エレンは私の沈黙を見ていた。
けれど彼も何も言わなかった。
「ありがとうございます」
私は小さく礼を言って、靴を履いた。
少し大きい。でも歩けないほどではなかった。踵の傷にも当たりにくい。
どうして、ちょうど女性用の靴があるのだろう。
そう思ったけれど、やっぱり聞けなかった。
エレンは私が靴を履いたのを確認すると、短く言った。
「降りられるか」
「はい。たぶん」
立ち上がると、足首が少し痛んだ。
顔に出たのだと思う。
エレンはすぐに近づいてきて、私の腕を取った。
「無理をするな」
「大丈夫です。少し痛いだけで」
「昨日、長く歩いたのだろう」
「そうですけど……」
彼の手は強かった。
支えてくれているのだとわかる。乱暴ではない。けれど、私が一人で歩こうとしても離してくれないような強さだった。
階段を下りる時、エレンはずっと私の腕を支えていた。
足を踏み外さないように。
転ばないように。
まるで、私がひどく壊れやすいものにでもなったみたいに。
親切なのだと思う。
思うのに、胸のどこかが少しだけざわついた。
一階の食堂へ通されると、テーブルの上には温かいスープが置かれていた。昨日とは違う具材が入っている。香草の匂いがした。
私は椅子に座り、勧められるまま食べた。
エレンはまた、私の向かいに座っていた。
けれど、やっぱりあまり食べない。
私がスープに口をつけると、その様子を静かに見ている。食べづらい、と思った。けれど昨日よりは少し慣れたのか、怖さは薄れていた。
「あの」
私はスプーンを置いて、エレンを見た。
「昨日も聞いたんですけど、ここはどこなんですか」
エレンの手が止まった。
「私、帰りたいんです。帰れるかどうかもわからないですけど、まずここがどこなのか知りたくて」
エレンは黙っていた。
その沈黙に、私は少しだけ力を込めて続けた。
「ここ、日本じゃないですよね?」
「……ニホン」
エレンはその言葉を繰り返した。
聞き慣れない音を確かめるみたいに。
私は小さく頷いた。
「私の国です。たぶん、あなたは知らないと思います」
「知らない」
短い答えだった。
「じゃあ、ここは何という国ですか」
エレンはしばらく私を見ていた。
答えてくれるのかと思った。
でも、彼は視線を逸らした。
「今は休め」
「またそれですか」
思わず、少しだけ声が強くなった。
エレンがこちらを見る。
私は自分でも驚いた。昨日は怖くて何も言えなかったのに、今日は少しだけ腹が立っていた。
「休んでばかりはいられません。私、本当に何もわからないんです。ここがどこなのかも、あなたが誰なのかも」
「エレンだ」
「名前は聞きました」
「……エレン・グランフェルト」
少しの間を置いて、彼はそう言った。
グランフェルト。
聞き慣れないけれど、名字なのだろう。
「グランフェルトさん」
「エレンでいい」
「でも」
「エレンでいい」
少しだけ強い声だった。
私は口を閉じた。
エレン。
そう呼ぶしかないのだろうか。
呼び捨てにするには近すぎる気がする。でも、彼はそれを望んでいるようだった。
「……エレン」
私がそう呼ぶと、彼の表情がほんの少しだけ緩んだ気がした。
でも、それも一瞬だけだった。
「では、エレン。ここはどこですか」
もう一度聞く。
エレンは答えなかった。
やっぱり、何かを隠している。
私はそう思った。
その日から、私は森の屋敷で暮らすことになった。
暮らすことになった、というより、他に行き場がなかった。
部屋の鍵はかかっていない。階段を下りることもできる。食堂にも、居間にも、浴室にも案内してもらった。
けれど、屋敷の外へ一人で出ることはなかった。
出ようとすると、必ずエレンが現れるからだ。
最初は偶然だと思った。
朝、窓の外を見ていて、森の中に細い道のようなものがあるのに気づいた。少しだけ外の空気を吸いたいと思って玄関へ向かうと、背後から声がした。
「どこへ行く」
驚いて振り返ると、エレンが廊下の奥に立っていた。
「外を少し見たいだけです」
「森は危ない」
「でも、屋敷のすぐ近くなら」
「俺も行く」
そう言うなり、彼は外套を手に取った。
断る理由を探したけれど、確かに森が危ないのは事実かもしれない。私はこの場所のことを何も知らない。道もわからない。変な動物が出るかもしれない。
結局、私はエレンと一緒に外へ出た。
朝の森は綺麗だった。
空気は冷たく澄んでいて、枝葉の間から落ちる光が地面にまだら模様を作っていた。鳥の声も、昨日ほど怖くは聞こえない。
「綺麗……」
思わず呟くと、エレンが私を見た。
「森が好きか」
「好きかどうかはまだわかりません。でも、昨日は怖かったのに、明るいと少し違って見えます」
「一人で入るな」
すぐに返ってきた言葉は、それだった。
「危険な獣もいる。足場も悪い。迷えば戻れない」
「わかりました」
「本当にわかっているか」
「わかってます」
そう答えたのに、エレンはまだ心配そうにしていた。
私は少しだけ苦笑した。
「そんなに信用ないですか」
冗談のつもりだった。
けれど、エレンは笑わなかった。
「失いたくない」
「え?」
低い声で言われた言葉が、うまく聞き取れなかった。
聞き返すと、エレンは視線を逸らした。
「森では、俺のそばにいろ」
それ以上は何も言わなかった。
私たちは屋敷の周りを少しだけ歩いた。
エレンは本当に、私を一人にしなかった。少し先に咲いていた白い花を見ようと道を外れただけで、すぐに腕を掴まれる。
「そこはぬかるんでいる」
「あ、すみません」
木の根をまたごうとしたら、手を差し出される。
「転ぶ」
「大丈夫です」
「手を」
結局、私はその手を取るしかなかった。
指先に触れたエレンの手は、思ったより温かかった。
彼は私の手を強く握ることはしなかった。ただ、離さない程度に添えているだけだった。
それなのに、私は少し落ち着かなかった。
エレンは優しい。
たぶん、とても。
でもその優しさは、どこか息苦しい。
転ばないように。迷わないように。怪我をしないように。危ない目に遭わないように。
その全部が私のために見えるのに、同時に、私をどこにも行かせないためのものにも見えた。
私はそんなことを考えて、すぐに自分を責めた。
助けてもらっているのに。
食べさせてもらって、泊めてもらって、服まで借りているのに。
疑うなんて、ひどい。
でも、疑わずにはいられなかった。
屋敷には、エレン以外の人がいなかった。
最初の二日くらいは、たまたま使用人が休みなのかと思っていた。
でも三日、四日と過ぎても、誰も来ない。
掃除も洗濯も、食事の支度も、全部エレンがしていた。正確には、屋敷の隅々まで完璧に掃除されているわけではない。使っていない部屋は閉ざされているし、廊下の端には少し埃が溜まっている場所もある。
けれど私が使う部屋、浴室、食堂、居間だけはきちんと整えられていた。
私の服も、いつの間にか洗われていた。
スーツは皺を伸ばされ、泥も落とされて、部屋の椅子にかけられていた。パンプスはさすがに傷だらけだったけれど、綺麗に拭かれている。
それを見た時、私は胸が詰まった。
日本に帰れるかもわからないのに、スーツだけが元の世界の証拠みたいにそこにある。
就活セミナーの資料も、バッグの中に残っていた。
企業研究のメモ。自己分析のワークシート。今となっては、どれもひどく遠いものに思えた。
私はベッドの上に座り、スマホの画面をつけた。
電池は四十一パーセント。
圏外。
母からのメッセージも、友達からの連絡も、新しい通知は何もない。
当たり前だ。
電波がないのだから。
それでも、スマホの中には元の世界が残っていた。
写真。連絡先。講義の予定。バイト先のシフト。どうでもいいと思っていたアプリの通知履歴。
私は画面を見ながら、急に泣きそうになった。
その時、扉の外から声がした。
「ミユウ」
私は慌てて目元を拭いた。
「はい」
「入るぞ」
エレンが入ってきた。
手には湯気の立つカップを持っている。
「冷えている」
「え?」
「手が冷たい」
そう言われて、自分の指先を見る。確かに、ずっとスマホを握っていたせいか冷えていた。
エレンはカップを差し出した。
「飲め」
「ありがとうございます」
中身は甘い香りのするお茶だった。少しだけ蜂蜜のような味がする。
一口飲むと、喉の奥がじんわり温まった。
「エレンは、どうして一人で暮らしているんですか」
ふと、聞いてしまった。
エレンの表情が固まる。
私は慌てて言い足した。
「あ、嫌なら答えなくてもいいです。ただ、こんなに大きなお屋敷なのに、誰もいないから……」
「一人がいい」
短い答えだった。
「ご家族は?」
「いる」
「じゃあ、ここはエレンの家なんですか」
「……家のものだ」
家のもの。
それはつまり、エレン自身のものではなく、彼の家族のものということだろうか。
お金持ちなのかな、と思った。いや、こんな屋敷に住んでいて馬まで持っているのだから、たぶん普通ではない。
「家族の人は、来ないんですか」
「来ない」
「まったく?」
「今は来ない」
今は。
その言い方が気になった。
「前は来ていたんですか」
聞いた瞬間、エレンの目が細くなった。
怒ったわけではない。
でも、これ以上踏み込むなと言われた気がした。
私はカップを両手で包み込んだ。
「すみません」
エレンは何も言わなかった。
ただ、私の手元を見ていた。
それから、ふと低く言った。
「泣いていたのか」
「え」
私は顔を上げた。
エレンは、私の目元を見ていた。
気づかれていた。
「泣いてません」
「赤い」
「……少しだけです」
嘘をつき通せる気がしなくて、私は視線を落とした。
「帰りたいので」
言ってから、しまったと思った。
部屋の空気が冷えた気がした。
エレンは黙っていた。
私はカップを握りしめる。
「私の家族も、友達も、私がいなくなったことを心配していると思うんです。帰れるのかどうかもわからないけど、何もしないでいるのは……」
「帰れないかもしれない」
エレンが言った。
私は息を止めた。
「……知ってるんですか」
エレンは答えなかった。
「ここがどこなのか。私がどうして来たのか。帰れるかどうか。エレンは、何か知ってるんですか」
問い詰めるような声になった。
けれど、エレンは黙ったままだった。
まただ。
また、何も教えてくれない。
私は唇を噛んだ。
「どうして黙るんですか」
「今は話せない」
「どうして?」
「お前が混乱する」
「もう十分混乱してます」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
エレンが私を見る。
「何も知らない方が、余計に怖いです」
そう言うと、エレンの目が揺れた。
その表情を見た瞬間、私は少しだけ後悔した。
傷ついたように見えたから。
でも、傷ついているのは私も同じだった。
エレンは助けてくれる。
優しくしてくれる。
なのに、一番知りたいことは何も教えてくれない。
私はそれが、だんだん苦しくなっていた。
「……休め」
やがて、エレンはまた同じことを言った。
その言葉を聞いた瞬間、胸の中に小さな苛立ちが生まれた。
休め。
食べろ。
飲め。
着替えろ。
俺のそばにいろ。
彼の言葉はいつも短くて、私のためのようで、私の意思をどこかへ置き去りにしている。
私はカップを机に置いた。
「休んでばかりはいられません」
エレンは何も言わない。
「私は、この世界のことを知らなきゃいけないんです」
この世界。
そう口にした瞬間、自分で認めてしまったような気がした。
ここは、私の世界ではない。
少なくとも、私が昨日までいた場所ではない。
その現実が怖かった。
でも、怖いからこそ知らなければいけない。
私はエレンを見上げた。
「教えてください。ここがどこなのか。私はどうすればいいのか。町はあるのか。人はいるのか。私みたいな人が他にもいるのか」
エレンは目を伏せた。
その沈黙が、答えだった。
彼は知っている。
私よりずっと、たくさんのことを。
それなのに教えない。
胸の奥が、冷たくなる。
「エレン」
私はゆっくりと言った。
「教えてくれないなら、自分で調べに行きます」
その瞬間、エレンが顔を上げた。
今までほとんど動かなかった彼の表情が、はっきりと変わった。
驚き。
恐怖。
そして、それを押し潰すような強い何か。
「どこへ」
低い声だった。
「町です。人がいる場所に行きます。道がわからないなら、森を抜ける道を探します」
「駄目だ」
即答だった。
私は息を呑む。
「どうしてですか」
「危険だ」
「危険でも、何も知らないままここにいるよりは」
「駄目だ」
エレンが一歩、近づいた。
私は思わず身体を強張らせる。
彼はそれに気づいたのか、足を止めた。
でも目だけは、私から逸らさなかった。
「一人で外へ出るな」
「一人じゃないならいいんですか」
「……」
「エレンが連れて行ってくれるなら、私は一人じゃありません」
そう言うと、エレンは苦しそうに顔を歪めた。
ほんの一瞬だった。
けれど、確かに見えた。
「町には行かない」
「どうして」
「行く必要がない」
「あります。私にはあります」
「ここにいればいい」
その言葉に、私は黙り込んだ。
ここにいればいい。
それは、優しい言葉のように聞こえるのに。
どうしてだろう。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
「……いつまでですか」
私は聞いた。
エレンは答えない。
「いつまで、ここにいればいいんですか」
沈黙。
私はその沈黙が怖かった。
昨日の夜、扉に鍵はかかっていなかった。
今日も、部屋を出ることはできる。
屋敷の中なら歩ける。食事ももらえる。お風呂にも入れる。怪我をすれば手当てしてくれる。
でも、外のことは何も知らされない。
町へ行きたいと言えば止められる。
ここにいればいいと言われる。
それは本当に、助けてもらっていると言えるのだろうか。
私はエレンを見つめた。
彼は何かを堪えるように、拳を握っていた。
「ミユウ」
名前を呼ばれた。
その声は、ひどく低くて、かすかに震えていた。
私は初めて、エレンが怖いと思った。
森の中で抱え上げられた時よりも。
知らない屋敷へ連れてこられた時よりも。
この人が何も教えず、ただ私をここに留めようとしていることが、怖かった。
「行くな」
エレンが言った。
命令のようで、懇願のような声だった。
「俺の見えないところへ、行くな」
私は何も言えなかった。
窓の外で、森の木々が風に揺れている。
この屋敷は暖かい。
食事もある。寝る場所もある。エレンは、私を傷つけようとはしていない。
でも、その時ようやく、私は気づいてしまった。
この屋敷は、私を守っている。
そして同じくらい、私を外から隠している。
扉に鍵はかかっていない。
それでも、私の周りの世界は、少しずつ狭くなっていた。




