第一話 異世界の森で拾われる
慣れないパンプスの踵が、駅前の小さな段差に引っかかった。
「あっ」
声を上げた時には、もう遅かった。
就活セミナーの帰り道。慣れないスーツに、慣れないヒール。配られた資料の入ったバッグは肩に食い込み、足の裏は朝からずっとじんじんと痛んでいた。
早く帰りたい。
今日はもう何も考えずに、コンビニで甘いものでも買って、部屋に戻ったらスーツを脱いで、ベッドに倒れ込もう。
そんなことを考えながら歩いていたから、足元への注意が少しだけ疎かになっていたのかもしれない。
視界がぐらりと傾く。
転ぶ。
そう思って、私はとっさに目を閉じた。
膝を打つ痛みを覚悟した。手のひらを擦りむく感覚を想像した。周りの人に見られて恥ずかしいだろうな、と一瞬だけ思った。
けれど、予想していた衝撃は来なかった。
代わりに頬を撫でたのは、冷たい風だった。
「……え?」
私はゆっくりと目を開けた。
最初に見えたのは、アスファルトではなかった。
駅前の歩道でも、ビルのガラスでも、行き交う人の靴でもない。
濃い緑。
頭上を覆うように広がった枝葉と、その隙間から細く差し込む光。湿った土の匂い。遠くで鳴く鳥の声。足元には柔らかい落ち葉が積もっていて、私の片手はそこに沈み込んでいた。
しばらく、何が起きたのかわからなかった。
私は転んだ。
駅前で、転んだはずだった。
なのに、ここはどこだろう。
私は慌てて身を起こした。膝が震えて、うまく立ち上がれない。けれど、それどころではなかった。
周りを見回す。
右を見ても森。左を見ても森。前も後ろも、似たような木々ばかりが続いている。
人の声はしない。車の音もない。駅のアナウンスも、信号機の電子音も、スーツ姿の人たちの足音も、どこにもなかった。
「……嘘」
私はバッグを探した。
肩にかけていたはずの黒いバッグは、少し離れた落ち葉の上に落ちていた。急いで拾い上げ、中を確認する。
財布。ハンカチ。セミナーの資料。手帳。リップ。スマートフォン。
スマホを取り出した瞬間、私はすがるように画面を点けた。
圏外。
表示されたその二文字に、喉の奥がひゅっと狭くなる。
「なんで……」
もう一度、画面を見た。
圏外。
何度見ても変わらない。
私はその場で立ち尽くした。
夢だと思いたかった。けれど、足の裏の痛みは本物だった。湿った土の匂いも、冷たい風も、指先に触れる落ち葉の感触も、あまりにもはっきりしている。
「どこ、ここ……」
声が震えた。
誰かに聞いてほしかった。誰かに答えてほしかった。けれど、返事をするものは何もなかった。
私はスマホを握り締めたまま、深く息を吸った。
落ち着かなければ。
そう思った。思ったけれど、心臓はどんどん速くなるばかりだった。
とにかく、人がいる場所を探そう。
森なら、道があるかもしれない。どこかに登山道のようなものがあるかもしれない。少なくとも、ずっとここに座っているよりはましなはずだ。
私はバッグを肩にかけ直し、痛む足を引きずるようにして歩き始めた。
パンプスは、森にまるで向いていなかった。
細い踵は柔らかい土に沈み、木の根に何度も引っかかった。セミナー用のスーツは動きづらく、枝に袖を擦られるたびに心細さが増していく。
歩いても、歩いても、景色は変わらない。
同じような幹。同じような葉。同じような土の匂い。
時々、どこかで小さな物音がした。動物かもしれない。風で枝が鳴っただけかもしれない。けれど私には、そのどれもが恐ろしく思えた。
「誰か……いませんか」
声を出してみた。
自分の声は、思ったより小さかった。
「誰か!」
もう少し大きく呼んだ。
けれど、返事はなかった。
やがて私は、足を止めた。
足首が痛い。靴擦れした踵がじんじんする。喉が渇いて、頭がぼんやりする。どれくらい歩いたのかもわからない。
もう無理だ。
そう思った瞬間、膝から力が抜けた。
私は大きな木の根元に座り込んだ。バッグを抱えるようにして膝を寄せる。
泣きたくなった。
いや、泣いていたのかもしれない。頬に冷たいものが伝って、顎の先からぽたりと落ちた。
「帰りたい……」
声にした途端、その言葉が胸の奥に突き刺さった。
帰りたい。
自分の部屋に帰りたい。駅前の明るい道に戻りたい。面倒だと思っていた就活のことも、課題のことも、明日の予定も、全部戻ってきていいから。
ここではない場所へ帰りたかった。
その時だった。
遠くから、何かが地面を打つ音が聞こえた。
最初は、気のせいかと思った。
けれど音は少しずつ近づいてくる。規則正しく、重く、土を蹴るような音。
馬?
私は顔を上げた。
木々の間から、黒い影が見えた。
大きな馬だった。
艶のある黒い馬が、木漏れ日の中をゆっくりと進んでくる。その背には、一人の男性が乗っていた。
私は息を呑んだ。
見知らぬ男の人だった。
年は二十代半ばくらいだろうか。深い茶色の髪に、整った顔立ち。けれど表情はほとんど動かない。灰がかった青い目が、まっすぐに私を見ていた。
服装も、明らかに現代日本のものではなかった。
長い外套。革の手袋。腰には短剣のようなものが見える。まるで映画か、ゲームの中から出てきたような格好だった。
私は言葉を失った。
相手もまた、言葉を失っているようだった。
男の人は馬上で手綱を引いたまま、微動だにしなかった。
その視線が、私の顔に縫い止められている。
驚き。
信じられないものを見たような、痛みに近い驚き。
そんなふうに見えた。
私は怖くなって、バッグを抱きしめた。
「あ、あの……」
声をかけると、男の人の肩がわずかに揺れた。
「ここ、どこですか。私、道に迷ってしまって……」
男の人は答えなかった。
私はさらに不安になった。
言葉が通じていないのだろうか。いや、そもそもこの人は何者なのだろう。助けを求めてもいいのか。それとも逃げた方がいいのか。
けれど逃げるにも、足が痛くて立ち上がれそうになかった。
「あの、すみません。人がいるところを教えてもらえませんか。駅……は、ないと思うんですけど、町とか、村とか」
言いながら、自分の言葉がどれほど場違いかを感じていた。
男の人はまだ何も言わない。
ただ、私を見ている。
見つめられるほど、胸の奥がざわざわした。
「あの……?」
次の瞬間、男の人が馬から降りた。
驚くほど無駄のない動きだった。高い位置から地面へ降り立ち、手綱を軽く握ったまま私へ近づいてくる。
私は反射的に身を引いた。
「ま、待ってください」
男の人は止まらなかった。
そして、私の前に膝をつく。
近くで見ると、その目はひどく綺麗だった。けれど同時に、とても疲れているようにも見えた。長い間眠れていない人のような、何かを失ったまま戻ってこられない人の目だった。
男の人の視線が、私の髪から顔、そして足元へ落ちる。
泥のついたパンプス。赤くなった踵。震える指先。
男の人はゆっくりと手を伸ばした。
私はびくりと肩を跳ねさせた。
「や、やめ……」
言い終わる前に、男の人の腕が私の背中と膝裏に回った。
身体がふわりと浮く。
「えっ」
抱え上げられた。
あまりにも簡単に。
私は驚いて、男の人の肩を押した。
「ちょっと、待ってください! 降ろしてください!」
男の人は何も言わない。
「どこに連れていくんですか!」
問いかけても、返事はなかった。
男の人は私を抱えたまま馬のそばへ戻り、器用に私を鞍の前へ乗せた。逃げようとしたけれど、足元は不安定で、馬の高さに身体がすくむ。
男の人が背後から乗ってくる。
その腕が、私を落とさないように囲った。
近い。
知らない男の人の体温が背中にある。革と木と、少しだけ冷たい風の匂いがした。
「降ろしてください。私、まだ何も……」
男の人の腕に少しだけ力がこもった。
乱暴ではなかった。
けれど、拒むことを許さない力だった。
私は言葉を失った。
馬が歩き出す。
森の景色がゆっくりと流れていく。
私は前を向いたまま、身を固くしていた。怖かった。どこへ連れて行かれるのかわからない。相手が何を考えているのかもわからない。
けれど同時に、どうしようもなく安堵している自分もいた。
もう、森の中に一人ではない。
その事実だけが、恐怖の中で小さな灯りのように胸に残った。
馬はしばらく森の中を進んだ。
やがて木々の密度が少し薄くなり、開けた場所に出た。そこに、屋敷があった。
屋敷、と呼んでいいのだと思う。
石造りの古い建物だった。大きすぎるわけではないが、森の中にぽつんとあるには立派すぎる。蔦の絡んだ壁。重そうな扉。煙突からは細く煙が上がっている。
人の気配はなかった。
静かだった。
私は馬から降ろされ、足が地面についた途端、少しよろけた。男の人の手がすぐに腕を支える。
「あ、ありがとう……ございます」
反射的に礼を言ってから、私は自分がまだ怯えていることを思い出した。
男の人は扉を開け、私を中へ促した。
入っていいのだろうか。
入ったら、もう出られないのではないか。
そんな不安が胸をよぎる。
けれど背後には森がある。戻ったところで、行く場所などなかった。
私は小さく息を吸い、屋敷の中へ足を踏み入れた。
中は、外観よりもずっと暖かかった。
玄関ホールには古い絨毯が敷かれ、壁には燭台が並んでいる。奥の部屋では暖炉に火が入っていた。どこか寂しい屋敷だったが、手入れはされている。
男の人は私を椅子に座らせた。
そして無言のまま、どこかへ消えた。
「あの……」
呼びかけても返事はない。
私は椅子の上で固まっていた。
逃げるなら今だろうか。
そう思って扉の方を見る。けれど足は動かなかった。外は森だ。日も傾き始めている。あの中に一人で戻る勇気はなかった。
しばらくして、男の人が戻ってきた。
手には水差しとカップ、それから白い布を持っている。
男の人は私の前にカップを置いた。
「……飲め」
初めて聞いた声だった。
低く、静かな声。
私は一瞬、言葉が通じたことに驚いた。
「あ、ありがとうございます」
喉は乾ききっていた。警戒はあったが、目の前の水を拒めるほど余裕もない。私はカップを手に取り、少しだけ口をつけた。
冷たい水が喉を通る。
それだけで、涙が出そうになった。
男の人は床に膝をつき、私の足元を見た。
「足を」
「え?」
「怪我をしている」
言われて、自分の踵を見た。パンプスの縁が擦れて、皮膚が赤くなっている。歩いている間は必死で気づかなかったが、見た途端に痛みが戻ってきた。
「大丈夫です。これくらい」
そう言ったのに、男の人は私の言葉を聞いていないようだった。
彼は私の靴に手をかけた。
「じ、自分で脱げます」
慌てて言うと、男の人の手が止まった。
ほんの少しだけ、彼の目が揺れた。
私は急いでパンプスを脱いだ。踵が布に擦れて、小さく息をのむ。
男の人は私の足に触れることはせず、濡らした布を差し出してくれた。
「拭け」
「あ、はい」
受け取って、泥のついた足を拭く。
その間、彼は黙っていた。
沈黙が重い。
けれど、不思議と乱暴な感じはしなかった。言葉は足りない。表情も硬い。けれど水をくれた。怪我に気づいてくれた。森に放っておかず、ここまで連れてきてくれた。
怖い。
でも、悪い人ではないのかもしれない。
私は恐る恐る顔を上げた。
「あの、お名前を聞いてもいいですか」
男の人は少し間を置いた。
「……エレン」
「エレンさん」
「エレンでいい」
短い返事だった。
私は戸惑いながら、自分の胸元に手を当てた。
「私は、川崎美優です。美優が名前で、川崎が名字…、家名です」
「ミユウ」
エレンがその名を繰り返した。
たった三音を確かめるように。
私はうなずいた。
「はい。ミユウです」
エレンはしばらく黙って私を見ていた。
その視線に、また胸がざわつく。
どこか、変だった。
ただの迷子を見つけた人の目ではない。知らない人間を警戒する目でもない。
もっと深く、もっと痛いものを見ているような目だった。
「あの、エレンさん」
「エレンでいい」
「……エレン。ここは、どこですか」
エレンは答えなかった。
私は続けた。
「私、駅前にいたんです。転んだと思ったら、急に森の中にいて。スマホも圏外で、帰り道もわからなくて。それで……」
言葉にしているうちに、また不安がこみ上げてきた。
「ここ、日本じゃないんですよね」
エレンは黙ったままだった。
「あなたの服も、馬も、この屋敷も、全部……私の知ってるものと違う。ここはどこなんですか。私は、どうしてここにいるんですか」
エレンの表情は変わらない。
けれど、沈黙が答えのように思えた。
私は唇を噛んだ。
「教えて、もらえませんか」
エレンはゆっくりと立ち上がった。
「休め」
「え?」
「疲れている」
「それは、そうですけど。でも、私は」
「食事を用意する」
会話が噛み合わなかった。
エレンはそれ以上何も言わず、部屋を出ていってしまった。
私は一人、椅子に座ったまま呆然とした。
助けてくれた。
でも、何も教えてくれない。
優しいのか、怖いのか、わからない。
その後、エレンは本当に食事を用意した。
温かいスープと、柔らかいパン。何かの肉を煮込んだもの。見たことのない野菜もあったが、匂いは悪くなかった。
私は最初、手をつけるのをためらった。
けれど空腹には勝てなかった。ひと口スープを飲むと、身体の奥からじわりと温まって、また泣きそうになった。
エレンは向かいに座っていたが、ほとんど食べていなかった。
私が食べる様子だけを、静かに見ている。
見張られているようで落ち着かない。けれど、その目に嫌なものはなかった。ただ、見失わないようにしているみたいな、妙な切実さがあった。
食事の後、エレンは私を浴室へ案内した。
湯が張られていることに、私は驚いた。
「お風呂……」
ここにも風呂があるのか、と場違いなことを思った。
エレンは棚から布と、柔らかそうなワンピースのような服を取り出した。
「使え」
「あの、これ……」
「着替えだ」
「でも」
「濡れた服では冷える」
確かに、スーツの裾は泥で汚れていた。森を歩いたせいで、ところどころ葉や土もついている。
けれど、見知らぬ屋敷で風呂に入るという行為には抵抗があった。
私が迷っていると、エレンは少しだけ眉を寄せた。
「覗かない」
「え」
「扉の外にいる。何かあれば呼べ」
それだけ言うと、彼は背を向けて出ていった。
私はしばらく扉を見つめていた。
変な人だ。
怖いくらい無口なのに、変なところで気を遣う。
湯に浸かると、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
足の痛みも、身体の冷えも、ゆっくり溶けていく。現実感がなくて、けれど湯の温かさだけは確かだった。
私は膝を抱えて、湯の中で小さく息を吐いた。
帰れるのだろうか。
ここは本当にどこなのだろう。
エレンは何を知っているのだろう。
なぜ、何も教えてくれないのだろう。
考えても答えは出ない。
ただ、今夜だけは、この屋敷にいるしかないのだと思った。
風呂から上がると、用意された服に袖を通した。少し大きかったが、柔らかくて着心地は悪くなかった。
浴室を出ると、エレンは本当に扉の外に立っていた。
私が出てきた瞬間、彼の目が大きく揺れた。
ほんの一瞬だった。
けれど私は、なぜかその表情を見逃せなかった。
驚きではない。
懐かしさに似た、痛み。
私を見ているのに、私ではない誰かを見ているような目だった。
胸の奥が、少し冷たくなる。
「あの……?」
声をかけると、エレンははっとしたように目を伏せた。
「部屋へ案内する」
「あ、はい」
通されたのは、二階の奥の部屋だった。
広すぎないが、綺麗な部屋だった。寝台には白い布がかかり、窓には厚いカーテンが引かれている。小さな机と椅子、衣装棚。暖炉には火が入っていた。
ここまで用意されていることに、私はまた不安になった。
まるで、最初から誰かを泊める準備があったみたいだ。
「今夜はここで寝ろ」
エレンが言った。
「あの、鍵は……」
思わず聞いてしまった。
エレンは私を見た。
「かけない」
短い答え。
私は少しだけ息を吐いた。
「ありがとうございます」
礼を言うと、エレンは何か言いたげに唇を動かした。
その口の形が、ほんの一瞬、私の知らない名前を呼ぼうとしたように聞こえた。
けれど結局、彼は何も言わなかった。
そのまま部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
私はしばらく立ち尽くしていた。
本当に鍵はかかっていないのだろうか。
確かめたくなって、そっと扉に触れる。取っ手を回すと、扉は簡単に開いた。
廊下が見えた。
薄暗い廊下。階下から聞こえる暖炉の薪が爆ぜる音。誰かの気配はない。
逃げようと思えば、逃げられるのかもしれない。
でも、どこへ?
夜の森へ?
私は静かに扉を閉めた。
寝台に腰を下ろすと、急に疲れが押し寄せてきた。
怖い。帰りたい。何もわからない。
それでも、温かい食事を食べた。風呂にも入った。柔らかい服を借りて、清潔な寝台がある。
森の中で一人震えていた時より、ずっとましだった。
そう思う自分が、少し怖かった。
私は布団に潜り込んだ。
眠れるはずがないと思った。
けれど身体は限界だったのだろう。目を閉じると、意識はあっという間に沈んでいった。
眠りに落ちる直前、私はぼんやりと思った。
エレンは、私を助けてくれた。
水をくれた。食事をくれた。怪我に気づいてくれた。何も聞かず、休む場所をくれた。
けれど、あの人は何も教えてくれない。
私がどこにいるのかも。
なぜここにいるのかも。
自分が何者なのかも。
そして何より。
どうして私を見た時、あんな顔をしたのかも。
その答えを知らないまま、私は眠りに沈んでいった。
扉に鍵はかかっていない。
それなのに私は、なぜか、もう森の外へ戻れないような気がしていた。




