あたしは、全部失った
あたしが違和感に気が付いたのは、生まれてすぐだった。
まず、何も見えない。
いや、正確には見えてるはずなんだけど、ぼやけてて、形も色もはっきりしない。
さっきまでちゃんと見えてたはずなのに、って思った瞬間、自分でも意味がわからなくなった。
……さっきまで?
そんなはず、ないのに。
寒い。それに、体も思うように動かない。
何これ、って混乱しているうちに——
気づいた。
あたしの中に、あたしじゃない「記憶」がある。
普通の家で生まれて、普通に学校に通って、普通に友達と笑って。ちょっと地味だけど、それなりに楽しい毎日を過ごしていた、日本人の女の子。
一人旅が好きで、次はどこに行こうかなって考えて……
そこで、ぷつんと途切れている。
……ああ、そっか。
これ、前のあたしだ。
理由はわからないけど、多分あの後死んだんだと思う。
不思議と、悲しいとか怖いとかはなかった。だってそれは前の「あたし」であって、今のあたしじゃないから。
ただ、生まれたばかりの体には、その記憶はちょっと重すぎたみたいで。
気づけばあたしは、同じくらいの子たちより、少しだけ冷めた目で周りを見るようになっていた。
「シェルにゃん、次もこのくらいの量を狩っておくれよ」
「やだにゃあ、ジャネットおばさん。そんなポンポン狩れるわけがにゃいでしょ〜?」
「シェル、暇ならこっちを手伝って!」
「りょーかいにゃ、ハロルドおじさん」
今のあたしは、森の奥で暮らす猫の獣人だ。年は十五。同じ種族の仲間たちと、小さな集落で暮らしている。
ここでは、みんなで助け合うのが当たり前で。誰かが獲物を取ってくれば、みんなで分けるし、誰かが怪我をすれば、みんなで支える。
あったかい場所だなって思う。世界中に自慢したいくらいのあたたかさだ。
ただ、ちょっと微妙なのが、みんなの口調だ。猫獣人だからか、みんな言葉の端々に「にゃ」がついている。かくいうあたしも、つい「にゃ」ってつけてしまう。前の「あたし」の記憶を持つあたしからすると、ちょっと……いや、かなり恥ずかしい。
「シェル、明日の作戦会議が始まるにゃ」
「あ、すぐに行く!」
話を戻して、その中であたしは、狩りを担当していた。力が強いからって理由で任されたけど、獲物を持って帰ると、みんなが嬉しそうに笑うから、それが、ちょっと好きだった。
だからあたしは、誰もいない夜に、一人で特訓をしていた。危ないってことくらいわかってる。森の外れには、強い魔物も出るって聞いてるし。
それでも、もっと役に立ちたいって思ったから。
その日も、いつもと同じだった。
月明かりだけを頼りに、森の中を走る。足音を殺して、気配を探る。
獲物の匂いは、すぐに見つかった。
小型のウサギ。一匹なら、問題ない。そう判断して、あたしは静かに地面を蹴る。
一気に距離を詰めて、爪を振る——その直前。
ぞわり、と。背中の毛が逆立った。
「……っ、なに、これ」
空気が、重い。
さっきまでとは明らかに違う、嫌な気配。
獲物も逃げるどころか、その場で震えて動けなくなっている。……おかしい。こんなの、今までなかった。
ゆっくりと、顔を上げる。
森の奥。暗闇のさらに奥から、何かが〝こっちを見ている〟。
姿は見えないのに、わかる。視線だけが、はっきりとある。
「……やばいにゃ」
本能が叫んでる。逃げろ、って。でも……
そのとき、遠くの方で、何かが爆ぜるような音がした。
次の瞬間、赤い光が夜空を染める。
「……え?」
それは、あたしたちの集落がある方向だった。
一瞬、何が起きているのかわからなかった。ただ、嫌な予感だけが、はっきりと胸の奥に落ちてくる。
……帰らなきゃ。
考えるより先に、体が動いていた。
枝を踏み、地面を蹴り、全力で森を駆ける。さっき感じた〝何か〟の気配も、もう気にしていられなかった。
ただひたすら、見慣れた道を辿る。
「……っ、なんで……」
近づくほどに、空気が変わっていく。
焦げた匂い。煙。そして……静かすぎる森。
「誰かいにゃいのー!?」
大声で叫ぶけれど、物音一つも聞こえない。
いつもなら、この声の量で皆家から飛び出してくるのに。
今日は、何もない。
嫌な静けさだった。視界が開ける。
見慣れたはずの場所に出た、その瞬間。
あたしは、足を止めた。
「……うそ、でしょ?」
そこにあったはずのものが、なかった。
家も、灯りも、みんなの気配も。ただ、焼けた跡と、崩れた残骸だけが残っている。
さっき見えた赤い光の正体なんて、考えるまでもなかった。
「……みんな?」
声を出す。
返事はない。
もう一度呼ぶ。
やっぱり、何も返ってこない。耳を澄ませても、聞こえてくるのは風の音だけ。
「……やだ、にゃ」
喉の奥が、変にひっかかる。足が、うまく動かない。
それでも、前に進む。
見ないといけない気がして。
見たくないとも思いながら。
「誰か……いるでしょ……?」
壊れた建物の間を、ふらつきながら歩く。
見慣れた場所のはずなのに、どこか知らない場所みたいだった。
「……なんで」
言葉が、うまく繋がらない。頭が追いつかない。
ついさっきまで、普通だったのに。みんな、笑ってたのに。
「……なんで、にゃ……」
その場に、崩れるように座り込む。
理解できない。したくない。
でも、わかってしまう。ここには、もう。
あたし以外、誰もいない。
どれくらい、そうしていたのかはわからない。泣いていたのかどうかも、よく覚えていない。
ただ、何も考えられないまま、時間だけが過ぎていって。
やがて、空が少しずつ白んできた頃。
「……行かなきゃ」
ぽつりと、声が出た。ここにいても、何も変わらない。それだけは、妙に冷静に理解できた。
理由なんて、わからないまま。あたしは立ち上がる。
振り返らなかった。振り返ったら、多分動けなくなる気がしたから。
「さよならにゃ」
小さく呟いて。あたしは、森を出た。
森を出てからのことは、あんまりよく覚えていない。
ただ、歩いていた。どこへ向かうわけでもなく、ただ足を動かしていた。
最初のうちは、ちゃんと狩りもしていたと思う。小さな獣を見つけて、仕留めて、食べる。いつもやっていたことと同じはずなのに、どうしてか、何も感じなかった。
美味しいとも、嬉しいとも思わない。ただ、お腹が満たされるだけ。
それだけだった。
何日か経った頃、人の気配を見つけた。
森の外れ、小さな村。
遠くから様子を見て、少しだけ迷ってから近づいた。
「……あの」
声をかける。何人かがこっちを見る。
その視線が、一斉に警戒に変わった。
「獣人か……?」
「一人で?」
「近づくな」
短い言葉と一緒に、距離を取られる。それ以上、何も言えなかった。
言えばよかったのかもしれない。助けてほしいって。
でも……
なんか、無理だった。
「ごめんにゃ」
小さく呟いて、背を向ける。誰も追ってこなかった。それからは、あまり人に近づかなくなった。
森の中を選んで歩いて、見つけたものを食べて。たまにうまくいかなくて、そのまま何も食べられない日もあった。
雨の日は最悪だった。体が冷えて、動く気力もなくなって。それでも、どこかに行こうとは思わなかった。行きたい場所が、なかったから。
どれくらい経ったのかは、わからない。
季節が少し変わった気もするし、変わってない気もする。
ただひとつわかるのは、あたしの体が、前よりずっと軽くなっていたこと。軽いというより、削れている感じに近い。
「……お腹、すいたにゃ」
ふと、声に出す。前は、もっとちゃんとした声が出ていた気がする。今はかすれて、ほとんど空気みたいだった。
その日、狩りは失敗した。獲物を追いきれなかった。
足がもつれて、転んで、そのまましばらく起き上がれなかった。
「……はは」
変な笑いが出る。おかしい、あたし。こんなに弱かったっけ。
そっか、弱くなったんだ。
それから、どれくらい歩いたのかも覚えていない。
気づいたら、見たことのない道に出ていた。
土の道。人が通った跡。近くに、誰かいる。
そう思ったのに、嬉しいとは思えなかった。ただ、
「……もう、いいか」
って。なんとなく、そう思った。
その場に座り込む。立ち上がる気力も、もうなかった。
視界が、少しずつ白くなっていく。
音も、遠くなる。
「……ま、いっかにゃ」
どうでもいい。ほんとに、どうでもいい。
そんなことを思いながら——
あたしは、そのまま倒れた。
……そして、あたしは理由もわからないまま、人にご飯を配り続けるやつに拾われた。




