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第五十話:ルウ・ファリーヌ・ドゥ・ブール

アルフレッドの視線の先にあるのは、王城の食料庫から供出された最高級の牛肉――その中でも、大きくサシの入った『肩ロース』のブロック肉だった。


「……おい、貴様! 正気か!」

たまらず声を荒げたのは、遠巻きに見守るよう命じられていた宮廷料理長だった。


「国王陛下にお出しするメインディッシュに、なぜそのような硬い部位(肩ロース)を選ぶ! 至高の柔らかさを持つヒレ肉を使わず、煮込み用の部位を焼くなど、陛下への侮辱にも程があるぞ! だいたい、切りたての新鮮な肉こそが最高の贅沢というものを――」


「だから、あんたらの料理は退屈なんだよ」


アルフレッドの氷のような一瞥が、料理長を黙らせる。


「……ん。筋肉組織の死後硬直、解除されてない。ただ新鮮なだけの肉は、アミノ酸(旨味)が足りない……ん。王都の魔法は、鮮度を保つ(時間を止める)ことしかできない。愚か……ん」


実体化したアイリスが、呆れたようにため息をつきながらホログラムの数式を展開する。


「本当の肉の旨さってやつを、まずは一口だけ教えてやりますよ」


アルフレッドは肩ロースのブロックに手をかざした。


「アイリス。対象のタンパク質を自己消化させ、アミノ酸を爆発的に増加させろ。時間は……そうだな、極限の『三週間後』だ」


「……ん。承認。『暴飲暴食の聖域メディカル・カクテル』、エイジング処理を実行……ん」


魔力の光が肉を包み込んだ瞬間、ブロック肉から余分な水分が抜け落ち、表面が僅かに変色して極限まで旨味が凝縮された『熟成肉エイジング・ビーフ』へと変貌を遂げた。長時間煮込まずとも、酵素の働きで肉質はすでに絹のように柔らかくなっている。


「セラ。ステーキ用に一枚、厚さ三センチ、スジ切りも含めてトリミングも頼む」

「はい、アル様『最適解体手順(スローター・メソッド)』をダウンロード、『解剖学の(アナトミー・アイ)』…完璧に仕上げます」


セラの神速の包丁が閃き、鮮やかなルビー色の断面を見せる見事な一枚肉が切り出され、完璧なスジ切りとトリミングが施された。


「アイリス、手伝ってくれ。まずは低温調理を施す、『暴飲暴食の聖域(メディカル・カクテル)』で百十度で温度を固定二十分の加熱を加速し、裏返して更に十五分の加熱を今終わらせる。中心温度は五十二度を狙え。」


「……ん。承認、中心温度五十二度までの加熱を加速します。」


切り出されたステーキ肉は、ものの三秒足らずで、ふっくらとしたまだピンク色の残る見た目に変わった。


そしてアルフレッドは極限まで熱した鉄のフライパンにトリミングで出た牛脂を引き、その一枚肉を叩きつける。


ジュワァァァァァァァァッ!!!!


激しい爆音と共に、暴力的なまでの肉の焼ける匂いが玉座の間に充満した。


「ふん!ただ当たり前のように焼いているだけではないか!その部位は焼くと固くなるというのにまるで阿呆の仕事だな!」


「……お客様。調理中の厨房へのお声がけは、ご遠慮いただけますか?まずはきちんとご覧になられてはいかがです?」


大声を上げ不満を垂れる料理長たちの前に、完璧な笑顔を張り付けたフェリシアがスッと立ち塞がる。


その手には、ピカピカに磨き上げられた純銀のナイフとフォークが乗ったトレイ。彼女は一切の調理作業には加わらず、ただひたすらに給仕長サービスマンとしての完璧な空間管理に徹していた。


「わかってないのはあんたらだ、あんたらはウェルダンでよく焼くことしか知らない。だがな、これは『メイラード反応』だ」


アルフレッドが肉を裏返すと、そこには焦げではなく、食欲をそそる完璧なきつね色の焼き目がついていた。


「タンパク質と糖が熱で結びつき、香ばしさという名の極上の旨味に化ける。中まで完全に火を通し、灰色になった肉を有難がっているお前らには一生辿り着けない味だ」


アルフレッドは表面をカリッと焼き上げただけで火から下ろし、肉を休ませる。


そして、切り分けた二切れの肉を皿に乗せ、フェリシアがそれを国王と、そして文句を言っていた宮廷料理長の口元へとそれぞれサーブした。


「……真ん中が、まだ赤いではないか! 生肉など――」


「はぁ……焼けば固いだの、焼かねば赤いだの御託はいい。食ってみろ」


衛生観念のまだ仕上がっていないこの世界の事だ、生肉が怖い気持ちは想像に容易い。しかし国王を『安酒』とただの『にんじん』で唸らせた料理人の言うことだ、好奇心には勝てない。料理長が恐る恐る口に含む。国王もまた、飢えに耐えかねて赤い肉片を放り込んだ。


「――――――――ッッ!?」


二人の目が、限界まで見開かれた。


カリッと香ばしい表面を噛み破った瞬間、レアに仕上げられた中心部から、信じられないほどの肉汁ジュースが溢れ出したのだ。

それはただの血ではない。極限まで熟成され、アミノ酸の塊となった『旨味の爆弾』。噛めば噛むほどに赤身の野性味と脂の甘味が溶け合い、脳を直接殴りつけるような快感が押し寄せる。


「う、美味い……! 肉とは、これほどまでに濃厚な味がするものだったのか……!」


国王が歓喜に震え、宮廷料理長はその場に膝から崩れ落ちた。


「私たちが今まで至高だと思っていたものは、ただの出涸らし……? 肉の焼き方は、絶対ではなかったのか……!」


宮廷の常識が、たった一切れのステーキによって完全に粉砕された瞬間だった。


「さて、肉の美味さは分かってもらえたな? ならば、ここからはこいつの出番だ」


アルフレッドが取り出したのは、純白の粒――『米』だった。


「そ、それは東方から薬として輸入されている穀物ではないか! スープのトロミ付けか、甘いプディングにしか使えぬ代物を……!」


「だから退屈なんだって言ってるんだ。これの一番美味い食い方を、俺の『メインディッシュ』で教えてやる。セラ、まずは玉ねぎを微塵切りだ。そしてその玉ねぎをキャラメリゼする」


「……かしこまりました、アル様」


アルフレッドの指示で、セラが神速で玉ねぎを微塵切りにしていく。


『キャラメリゼ』いわゆる飴色玉ねぎである。しかし、焦がさずに水分を飛ばすには、本来付きっ切りで数時間を要する。


「……ん。マスターは肉の処理と『アレ』の構築がある。ここは、フェリシアの力を借りるべき……ん」


アイリスの進言に、フェリシアが優雅に扇を閉じた。


「あら。わたくしは給仕長ですのよ? 調理の真似事はいたしませんわ」


「……ん。調理じゃない。『お客様(玉ねぎ)』に、極上の個室サウナをご提供するだけ……ん」


「ふふっ。そういうことでしたら、喜んで」


フェリシアは王の傍らに控えたまま、優雅に指を鳴らした。


「【戸締まりの管理(VIPルーム)】」


瞬間、セラが玉ねぎを炒めているフライパンの周囲にだけ、極小サイズの絶対結界が展開された。


それは完璧なドーム状の保温・加圧結界。フライパン内部の熱効率を限界突破させ、焦げ付く直前の温度と湿度をオートで管理する、究極の調理環境の構築。


「見事なサービスだ、フェリシア様。……仕上げるぞ!」


盾職と料理人の連携により、数時間かかるはずの玉ねぎが、たった数分で極上の甘みを持つ琥珀色のペーストへと昇華した。


アルフレッドは別の鍋で小麦粉とバターを焦がさないように炒め、この料理の核である『ブラウンルウ(アレ)』を構築していく。


そこに、ラモンが運んできたスパイス群が投入される。


カルダモン、シナモン、クローブがテンパリングされ、コリアンダー、ターメリックなどのパウダースパイスが続く。


「おいおい、そんなに木の実や木の皮のようなものばかり……」


料理長の不満がこぼれかけたその時。


ボワァァァァァァッ!!!!


クミンのラペなど比ではない。


数十種類のスパイスが複雑に絡み合い、火と油によって錬成された『特有の抗いようのない芳香』が、ついに玉座の間で爆発した。


「あ……あぁぁぁ……ッ!!」


近衛兵たちは槍を取り落とし、宮廷料理人たちはよだれを垂らして床に這いつくばる。


国王ルウに至っては、玉座の肘掛けを握りしめ、目を血走らせて「早く、早くそれをよこせ!!」と狂ったように叫んでいた。


アルフレッドは大きめにカットして表面を焼き付けた肩ロース肉、飴色玉ねぎ、黄金のルウ、ブイヨンを大鍋に合わせる。


「アイリス。高圧極小スチームを展開。三日三晩の煮込みを、たった今終わらせろ!」


「……ん。了解。『超臨界スチーム』、出力最大……ん」


メディカル・カクテルの権能が鍋を包み込み、細胞レベルでの浸透圧操作が行われる。肩ロースの繊維がホロホロに解け、スパイスと肉の旨味が完璧に一体化していく。


「お待たせいたしました、国王陛下」


フェリシアの手によって、ついにその皿が王の前にサーブされた。


完璧に炊き上げられた純白のライス。その半分を覆い隠すように掛けられた、濃褐色のとろみのあるソース。ゴロゴロと入った大ぶりの牛肉が、湯気と共に暴力的な香りを放っている。


「これが、陛下にこそふさわしい本物の料理……『ビーフカレーライス』です」


王は震える手でそれを掬い、口へと運んだ。


「――――――――――ッッッッ!!!!!!!!」


フードガズム。


王の脳髄で、幾千ものファンファーレが鳴り響いた。


最初に訪れたのは、極限まで炒め抜かれた玉ねぎの強烈な『甘味』。


次に、レアステーキの時とは違う、ホロホロに崩れた肩ロースから染み出す暴力的なまでの『旨味』。


そして、米だ。白米が、ソースの旨味を全て受け止め、口の中で完璧な土台として機能している。米がこんなに旨いものだとは知る由もない。


それを飲み込もうとした瞬間、数十種類のスパイスが織りなす『爽快感と辛味』が、雷となって全身を貫いた。


「う……うおォォォォォォォォォォォッ!!!!」


王は涙を流した。

美味い。美味すぎる。これまで自分が食べてきた宮廷料理は、一体何だったのか。


スプーンが止まらない。咀嚼する時間すら惜しいとばかりに、王としての威厳も、周囲の目も全て忘れ、皿を舐め回すように無我夢中でカレーを胃袋へと流し込んでいく。


「……こ、この魔法のような料理は、一体何なのだ……!」


完食し、荒い息を吐きながら涙声で問う王に、アルフレッドは穏やかなバーテンダースマイルで応えた。


「魔法なんかじゃありません。そこの料理人でも正しく時間をかけて調理すれば、同じものが作れます。俺は先程の調理で、調理時間の短縮しか魔法は使っておりません。これはつまり人の工夫と知恵の結晶です。……ちなみに、この料理のベースに使ったのは、『小麦粉ファリーヌ』と『バター(ブール)』を炒めて作る『ルウ』です」


「なっ……!」


「そう、偉大なる王の御名と同じ、料理の基礎ですよ。……そこに、俺たちなりの『スパイス』を少し足しただけです」


ルウ・ファリーヌ・ドゥ・ブール。


王の名前を冠した基礎技術に、アルフレッドの革新を掛け合わせたという、極上の皮肉と敬意。


「余の……負けだ」


王の食への概念が。宮廷料理人が。辺境のバーテンダーに完全に敗北した瞬間だった。


王は玉座から崩れ落ちるように頭を下げた。


「頼む……! 余の宮廷料理長になってくれ! 全ての富と名誉を与えよう、だからこの料理を毎日余に――」


「お断りします。俺は、しがない酒場のバーテンダーですから」


アルフレッドはカトラリーを片付けるフェリシアを一瞥し、不敵に笑う。


「この料理が食べたければ、男爵領……いえ子爵領の『バッカス亭』までご足労ください。……これで、俺たちの店への『不可侵の約束』は、守っていただけますね?」


絶対の権利。

これでもう、王都の誰も、彼らの居場所に手を出すことはできない。


「あぁ、必ずや守らせてもらおう。そして余も足を運ばせて貰うとしよう。」


◇◇◇


全てを終わらせ、王都の正門を抜けていく一台の馬車。


御者台ではラモンが上機嫌で手綱を握り、馬車の中では、戦いを終えたセラが安心しきった顔で静かな寝息を立てている。男爵、いや子爵もまた、憑き物が落ちたような穏やかな顔で目を閉じていた。


「……最高のお会計でしたわ、アルフレッド様」


フェリシアが、アルフレッドの肩にそっと頭を乗せる。


王都での理不尽な戦いを乗り越え、彼女の顔には、ただの一人の少女としての柔らかな微笑みが浮かんでいた。


「お疲れ様です、フェリシア様。……さあ、帰りましょう」


夕日に向かって進む馬車。


奇跡の料理人と最強の盾、そして究極の屠殺人は、皆が腹を空かせて待つ、愛する自分たちの居場所――『バッカス亭』へと帰路についたのだった。


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