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第四十九話:安酒と樹皮

王城、玉座の間。


国の最重要機関であり、最も厳粛であるべきその場所は今、異様な熱気に包まれていた。


国王の命により、玉座の目の前には無骨で巨大な調理台と、強力な火力を誇る魔道コンロが急遽運び込まれている。


遠巻きに見つめるのは、プライドを粉々に砕かれた数十名の宮廷料理人たちだ。彼らは王城の厨房から供出させられた最高級の牛肉や瑞々しい野菜類が並ぶ調理台を、憎々しげに睨みつけている。


その時、一人の門兵が慌ただしく玉座の間へ駆け込んできた。


「へ、陛下! 城門にて、この料理人たちの仲間を自称する商人が騒いでおりまして……!」


「通してやってくれ。俺の連れだ」


血と泥に塗れたアルフレッドが静かに告げると、国王ルウは鷹揚に頷き、許可を出した。


バンッ!! と扉が開き、息を切らした商人・ラモンが転がり込んでくる。


「ハァ、ハァ……! やっと追いついたぜ、アルの旦那! 王都まで一瞬でぶっ飛ばして行くからよ、追いつくのに死ぬ思いだったぜ!」


ラモンは、先行したアルフレッドたちに置いていかれないよう、自身の商売道具を抱えて必死に馬車を飛ばして後を追ってきていたのだ。


「悪いな、ラモン。だが助かった。……ちょうどいい、商材を見せてくれ」


「おうよ! 旦那の役に立つなら何でも使いな!」


ラモンが腰の魔法袋マジックバッグを傾けると、調理台の上に見たこともない樹皮や種子スパイス、そして着替えの服などがドサリと出された。


アルフレッドは血に塗れたベストとシャツを脱ぎ捨て、ラモンから受け取った清潔な白いシャツとサロン(前掛け)を身に着け、手早くバーテンダーとしての身嗜みを整える。


さらにラモンが取り出したのは、無色透明の液体が入った無骨な酒瓶だった。


それを見た国王ルウ・ファリーヌ・ドゥ・ブールが、怪訝そうに顔をしかめた。


「おい、それは『ジン』ではないか? 労働者や下民が呷るような安酒と、草の種や木の皮の屑……。奇跡の料理人とやら、余にそのようなものを口にさせるつもりか?」


ジン。この時代(1600年代相当)において、特有の臭みを持つ安価な酒として大衆に広まっている代物だ。


しかし、アルフレッドは銀のマドラーを指先でクルリと回し、不敵に笑った。


「大衆の安酒を、極上の一杯へと昇華させる。……それこそが、バーテンダーの腕の見せ所ですから」


「――対象食材の解析を完了。香辛料の鮮度、純度、共に極上。不純物の混入なし」


突如、玉座の間の何もない空間に、無機質な少女の声が響いた。


直後、幾何学的な光のラインが空中で収束し、一人の幼い少女が姿を現す。


半透明の光の粒子を纏うシステムこと、アイリスの物理的な実体化である。


「なっ!? 何もない空間から子供が……精霊か、幻術か!?」


驚愕し腰を浮かせる国王や近衛兵をよそに、アイリスは無表情のまま淡々と告げた。


「成分の揮発ロスは規定値の〇・一%以下。……対象名:ラモンの商品管理能力および運搬手腕を、システムとして高く評価する……ん。」


「へへっ、ありがてえお褒めの言葉だ」とラモンが鼻の下を擦る。


「……お待たせいたしました、国王陛下」


着替えを終え、完璧な戦闘態勢を整えたアルフレッドが、氷のような、しかし情熱の炎を孕んだ目で国王を見据えた。


「まずは乾いた喉を潤していただきましょう。当店の『食前酒アペリティフ』をどうぞ」


奇跡のバーテンダーによる、魔法至上主義の王都の常識を覆す怒涛のライブクッキングが、今ここに幕を開けた。


アルフレッドは調理台に用意されていた大きな氷の塊を手元に引き寄せた。

王城の氷室から運ばれたであろうそれは、魔術具によって冷やされただけの無骨な四角い塊だった。


アルフレッドは一切の躊躇いなくペティナイフを握り、氷の角に刃を滑らせる。


シャッ、シャシャッ……!!


玉座の間に、小気味よい氷の削れる音が響き渡る。


アルフレッドの指先でクルクルと回る氷の塊は、不純物のない透明な部分だけが正確に切り出され、瞬く間にグラスの底へぴたりと収まる美しい『丸氷スフィア』へと姿を変えた。


「……やはり、アル様の氷の削り出しは、芸術です」


後ろに控えていたセラが、無表情のまま、しかしそこだけは熱を帯びた尊敬の瞳で小さく呟いた。


「ただの安酒も、温度と加水率、そして『香り』の乗せ方一つで化けるんです」


アルフレッドは薄張りのグラスに丸氷を入れ、バースプーンで素早くステアしてグラス自体をキンキンに冷やす。そこに、ラモンが持ち込んだ大衆酒であるジンを注ぎ入れた。


続いて取り出したのは、別のガラス瓶。キナの樹皮から抽出したエキスと、柑橘の皮、そして魔法具で強圧の炭酸を封じ込めた手作りの『トニックウォーター』だ。


シュワァァァァァッ……。


バースプーンの螺旋を伝わせ、炭酸の泡を絶対に潰さないよう、極めて滑らかにトニックウォーターが注がれる。それだけで、ジンの主成分であるジュニパーベリー(杜松の実)の針葉樹のような香りが、炭酸の弾ける飛沫に乗ってふわりと広間に漂った。


「ライムを絞り、皮の油分ピールでグラスの縁に香りの蓋をします。……そして、仕上げに」


アルフレッドが懐から取り出したのは、真鍮製の小さなペッパーミルだった。


彼はグラスの真上でミルを構え、力強く、たった一度だけ手首を捻る。


ガリッ。


粗挽きに砕かれた『ブラックペッパー』が、一粒分だけ、シュワシュワと弾ける水面へと舞い落ちた。


「『ジントニック・ブラックペッパー風味』。……食前の喉の渇きを癒す、当店からのご挨拶です」


フェリシアが静かにグラスをサーブした。


近衛兵や毒見役が青ざめて止めようとするが、国王ルウはそれを手で制し、玉座から身を乗り出してグラスを受け取った。


「下民の安酒に、黒胡椒だと……?」


王は訝しげにグラスを見つめる。

黒胡椒は王族の口にも入る高級スパイスだが、それはあくまで肉の臭み消しや料理に使うものだ。酒に、それも労働者が泥酔するために煽るような臭いジンに入れるなど、王都の常識では考えられない暴挙である。


だが、グラスから立ち昇る柑橘の爽やかさと、ジュニパーベリーの青々しい香り。そこに混じる黒胡椒のピリッとした野性的な刺激香が、王の脳をガンガンと揺さぶり、本能が「飲め」と命令を下していた。


王は、ごくりと喉を鳴らし、グラスに口をつけた。


「――――ッ!!?」


瞬間、国王ルウの両目が見開かれた。

最初に押し寄せたのは、極限まで冷やされた強炭酸の心地よい刺激。そして、ライムとトニックウォーターのほろ苦い甘味が、ジンの荒々しいアルコール臭さを完全にマスキングし、極上のボタニカルの芳香だけを口内いっぱいに花開かせる。


これだけでも驚異的な美味さだが、真の衝撃はその後だった。


(……なんだ、これは! 喉の奥で、鮮烈な熱が弾けたぞ!?)


最後に水面に浮かべられた粗挽きのブラックペッパー。

それが舌の上に乗り、ピリッとした辛味と鮮烈な刺激を炸裂させたのだ。甘さと爽やかさで満たされた口内が、そのたった一粒の黒胡椒によって一気に引き締められ、劇的なまでの『立体感』を生み出している。


そして何より――。


ギュルルルルルルルルゥゥゥゥッ……!!!!


突如、玉座の間に、国王の腹の虫が盛大に鳴り響いた。


「な、ななな……っ! 余の腹が、勝手に……!?」


国王ルウは顔を真っ赤にして腹を押さえた。つい数時間前に豪勢な宮廷料理を平らげたばかりだというのに、胃袋が空っぽになったかのような、抗いようのない『猛烈な飢餓感』が全身を支配していた。


「……ん。解説」

実体化したシステム幼女・アイリスが、無機質ながらも誇らしげな声で空間にホログラムの数式を展開する。


「黒胡椒に含まれる辛味成分『ピペリン』が交感神経を刺激し、唾液と胃液の分泌を強制的に促進。さらに、炭酸ガスの圧力が胃壁を物理的に拡張させることで、脳の視床下部へ『空腹(飢え)』の信号を強制伝達します。……一切の魔術を使わない、人体の生化学反応を利用した完璧な『食前酒アペリティフ』……お腹がすく……ん。」


「く、食欲を、強制的に引き出す酒だと……!? そんな馬鹿なことが、あってたまるか……!」


王は震える手でグラスを見つめた。


ただの安酒。ただの黒胡椒。それが一人のバーテンダーの手にかかるだけで、人体の構造すら支配する「魔法以上の奇跡」へと昇華されたのだ。


フェリシアが、優雅に扇で口元を隠し、王に向かって誇らしげに微笑んだ。


「我が領のバーテンダーの腕、少しはお分かりいただけましたか? 陛下」


「あ、ああ……! 凄まじい、凄まじいぞこれは……っ!」


王はもはや威厳も忘れ、残りのジントニックを一気に呷り、渇望する目でアルフレッドの調理台を見つめていた。


「料理を! 早く、その『本物の料理』とやらを食わせてくれ!!」


「ご満足いただけたようで何よりです。……さあ、ここからはお待ちかねの『料理』の時間だ」


アルフレッドは不敵なバーテンダースマイルを深めると、調理台に用意された野菜の山へと、静かに包丁を向けた。


アルフレッドは既に次なる工程へと意識を切り替えていた。


「セラ。人参の準備を。繊維を殺さず、理想的な表面積を確保しろ」


「……はい、アル様。お任せを」


血と泥を落とし、いつもの清潔なメイド服を纏い直したセラが、静かに一歩前へ出た。

彼女は調理台に置かれた王城最高級の人参を数本、左手で軽く押さえる。右手には、アルフレッドが研ぎ澄ませた一本の包丁。


「……『解剖学のアナトミー・アイ』人参の細胞壁、一本も無駄にしません。」


トトトトトトトトトトトトトトトトトトッ!!


もはや音速に近い包丁の連撃。


セラは『有機物の絶対切断』の権能を刃に乗せ、人参の繊維一本一本を見極めながら、寸分違わぬ精度で切り裂いていく。厚さ一・五ミリ、長さ五センチ。


山積みになった人参が、瞬く間に美しいオレンジ色の『宝石の糸』へと姿を変えていく。そのあまりに精密な包丁捌きに、遠巻きに見ていた宮廷料理人たちが「ひっ……!」と短い悲鳴を上げて後ずさった。


「完璧だ、セラ。……よし、仕上げるぞ」


アルフレッドは小さなフライパンに少量の油を引き、魔道コンロの火にかけた。


ラモンのスパイス群の中から、三日月型の小さな種――『クミンシード』を一つまみ、パラリと油に落とす。


チリチリ……パチパチパチッ!


「……ん。はじまる。いい匂いの爆弾、起爆……ん」


アイリスが鼻を小さくひくつかせる。


次の瞬間、玉座の間は、かつて王都の人間が誰も経験したことのない『香りのテロ』に襲われた。


熱されたクミンから放たれる、エキゾチックで野性的な芳香。それは、単なる「いい匂い」ではない。人間の脳の奥底、原始的な食欲をダイレクトに揺さぶる、暴力的なまでの『香り』の奔流。


「脂溶性の芳香成分を、熱した油で抽出する『テンパリング』ですわ。アルフレッド様が、魔法よりも確実な知恵で導き出す、香りの極致……」


フェリシアが誇らしげに微笑み、その香りに当てられてふらつく国王を優雅に見つめる。

アルフレッドは、クミンの香りが限界まで引き出された熱い油を、セラが切り揃えた人参の山へと――ジュワッ! と一気に回し掛けた。


「……ん。油で表面をコーティング。香りを閉じ込める……ん。人参の甘みが、クミンで浮き上がる……ん」


アイリスの解説と共に、アルフレッドが少量の酢、塩、そして隠し味の蜂蜜を加え、全体を大きなボウルで手早く和える。人参のオレンジが、スパイスの油を纏って宝石のように輝き出した。


「陛下。お待たせいたしました」


純白の皿に、ふわりと高く盛り付けられたそれを手にしたのは、フェリシアだった。


彼女は、かつて絶望の底からアルフレッドに救われた時のような、凛とした、しかしどこまでも慈愛に満ちた笑顔を浮かべ、玉座の国王の前へ静かに皿を置いた。


「まずは前菜、『キャロットラペ・クミン風味』でございますわ」


「こ、これが人参だと……? 煮込み料理の付け合わせの、あの泥臭い野菜が……?」


王は立ち昇る香りに眩暈めまいを起こしながら、震える手でフォークを取り、オレンジ色の山を口に運んだ。


シャキッ、プチッ。


「――――ッ!!」


咀嚼した瞬間、王の脳髄を雷が打ち抜いた。

人参本来の驚異的な甘みが、クミンの刺激的な香りと、酢の爽やかな酸味によって極限まで引き立てられている。噛むたびに種が弾け、芳醇な香りが口の中から鼻腔へと突き抜けていく。


「美味い……! なんだこれは、美味すぎる!!」


王が夢中で皿を空にしようとしたその時。

フェリシアが王の傍らで静かに、しかし抗いようのない力強さで声をかけた。


「――陛下。そのまま、先ほどのジントニックをもう一口、含んでみてください」


「なに……? 酒を、か?」


王は言われるがまま、傍らにあったグラスを手に取った。


口の中には、まだクミンのエキゾチックな香りと、蜂蜜の柔らかな甘み、そして人参の瑞々しい余韻が色濃く残っている。


そこに、冷え切ったジントニックが流れ込む。


「――――――――ッッッ!!!!????」


瞬間。王の脳内で、世界が爆発した。


ジンの主成分であるジュニパーベリー(杜松の実)の針葉樹のような青い香りと、キャロットラペのクミンの土臭い芳香。


相反するはずの二つの『香り』が、口の中で完璧に抱き合い、一つの巨大な奔流アンサンブルとなって魂を揺さぶったのだ。


黒胡椒のピリッとした刺激が人参の甘味を輪郭づけ、トニックウォーターの強炭酸が、それら全ての風味を脳髄へと一気に押し上げる。


酒が料理を求め、料理が酒を祝福する。


「あ……あぁ……っ!!」


王の目から、一筋の涙が零れた。


一対一ではない。一足す一が、百にも千にも膨れ上がる、究極の『マリアージュ(ペアリング)』。


ギュルルルルルルルルルルゥゥゥゥッ!!!!!


玉座の間に、国王のこれまでで最大の腹の虫が響き渡った。


「……ん。成功。ジュニパーベリーとクミン、相性は最高……ん。炭酸ガスが香りを揮発させて、嗅覚受容体を蹂躙した……ん」


アイリスが、王の目の前でひらひらと手を振りながら、猫のように目を細めて呟く。


「……ん。黒胡椒のピペリンとクミンの健胃作用、胃液の分泌は限界……ん。陛下はもう、空腹という名の奴隷……ん」


「料理だ……! もっとだ、もっとこの先の『本物の料理』を食わせてくれ!! 胃袋が、焼け付くように次の旨味を求めているのだ!!」


王はもはや威厳を投げ出し、空になった皿とグラスを交互に見つめながら、アルフレッドを渇望する目で睨みつけた。


「……喜んで、陛下」


アルフレッドはセラから手渡された最高級の牛肉の塊をまな板に置いた。


「さあ、ここからはメインディッシュだ。……陛下の食文化を根底から蹂躙する、構築を始めましょうか」


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