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第四十五話:聖域の盾

王城『白亜の宮殿』。第一王子専用の離宮、その地下に位置する薄暗い部屋。


冷たく硬い石の床の上で、フェリシア・ロズウェルは泥と血に塗れ、気を失ったセラの身体を抱きしめていた。


治癒魔法を持たないフェリシアには、己のドレスの裾を破り、セラの顔の血を拭ってやることしかできない。


ピクリとも動かないメイドの身体。その絶望的な静寂の中で、不意にセラの指先が微かに震えた。


「……セラ……!?」


「フェリシア……様……」


血気のない唇から細い声が漏れる。セラは硬く握りしめていた右手の掌を、震えながらゆっくりと開いた。


そこには、泥に塗れながらも、一滴たりともこぼれることなく守り抜かれた『小さなガラスの小瓶』が握られていた。


ディミトリの圧倒的な暴力で吹き飛ばされた時も、彼女は決してこの瓶を離さなかったのだ。


「アル様、からの……極上の、食前酒……です……。どうか、これを……」


「……セラ……っ」


血を吐きながら微笑むセラの姿に、フェリシアの目から大粒の涙が零れ落ちる。


フェリシアは躊躇わなかった。あのアルフレッドが用意した食前酒だ。悪いものであるはずがない。その小瓶を受け取ると、蓋を開け、とてつもない芳香に驚愕しながら、中に揺蕩う黄金の雫を一気に呷った。


――瞬間。


フェリシアの視界が白く染まった。


喉の奥から胃の腑へ、そして全身の細胞を駆け巡る圧倒的な奔流。己の『魂の器』の縁が、音を立てて砕け、そして無限の彼方へと果てしなく拡張されていく感覚。


(……ああ。なんて温かくて、力強い……)


アルフレッドがセラに託し、セラが命懸けで繋いだ『神のネクタル』。


それは、これからフェリシアの魂に訪れる規格外の爆発を、一切の自壊なく受け止めるための『完璧な器の準備グラス・セッティング』だった。


ガチャンッ!!


重い金属の扉が乱暴に開かれたのは、まさにその直後だった。


「――ヒャハハハ! どうだ、高慢ちきな男爵令嬢! 自分の可愛い飼い犬がボロ雑巾になった気分は!」


醜悪な笑い声を上げながら姿を現したのは、第一王子だった。その背後には、完全武装した屈強な衛兵が入り口を守るように二名控えている。


王子は、フェリシアが絶望して泣き喚き、自分の足元に這いつくばる姿を期待してこの部屋を訪れたのだ。


「……殿下。アルフレッド様は、どこですか」


フェリシアは床に座り込んだまま、静かに問うた。


「あの料理人か? ああ、今頃は地下の奥深くで、手足を切り落とされている頃だろうよ!」


王子は腹を抱えて笑った。


「あいつはいくら魔法で消し炭にしても、勝手に肉が蠢いて再生しやがる! 死なない肉塊! まったく、魔物以下の気味の悪い化け物だ! だが、だからこそ俺の国庫を潤す『生きた霊薬製造機』として、永遠に刻み続けてやる価値がある!!」


「……化け物」


「そうだ! あんな底辺の男のどこが良い! さあ、俺の足元に這いつくばれ! 俺の靴を舐めて許しを乞えば、あの化け物の肉片くらいは面会させてやるぞ!!」


王子の下劣な嘲笑が、冷たい石室に響き渡る。


フェリシアは、ゆっくりと目を閉じた。


脳裏に浮かぶのは、自分が骸のように痩せ細り、死を待つだけだった日々に差し出された、温かく優しい料理の数々。


どんな時でも客を第一に考え、不器用なまでに誠実な笑顔を見せてくれた、あの愛おしいバーテンダーの顔。




『化け物』




私に『人間』としての命と尊厳をくれたあの人を、この下劣な男は、『化け物』と呼んだのか。


『――警告。対象の魂の波長が、極大値(閾値)を突破』


フェリシアの胸の奥底で。


特大の母性と、慈愛と、そして愛する者たちを理不尽に踏みにじられたことへの『底なしの怒り』が、完全に臨界点を突破した。


『「特異個体」への進化を開始します。……ユニークスキル【聖域の給仕長(マネージ・オブ・サンクチュアリ)】発現』


「……ふふっ」


静寂の中、フェリシアの口から、鈴を転がすような艶やかな笑い声が漏れた。


彼女はセラをそっと床に寝かせると、ゆっくりと立ち上がる。


裂かれたドレス。軟禁により煤けた肌。それなのに、今のフェリシアから立ち昇る気高さと、空間そのものを制圧するような『絶対的な威圧感』は、異常の一言だった。


「なんだお前?……その目は……ッ! おい、その生意気な令嬢を押さえつけろ!!」


本能的に異常を感じた王子が、入口の衛兵二人に命じる。


「はっ!」


二人の衛兵が剣の柄に手をかけ、フェリシアへと乱暴に掴みかかろうと踏み込んだ。


フェリシアの顔には、アルフレッドから学んだ『完璧な営業スマイル』が張り付いている。ただし、その瞳の奥は絶対零度だ。


彼女は全く身構えることなく、ただ静かに、凛とした声で告げた。


「――お客様。誠に申し訳ございませんが」


フェリシアのユニークスキルが、その機能と理屈を彼女の脳内に瞬時に理解させる。このスキルは攻撃的なスキルではない。だが、彼女は『この空間の給仕長』として、あらゆる干渉を管理マネージする。


「当方への『攻撃』というご用件は……【ご予約アポイント】をいただいておりませんわ」


カァァァァァァッ……!!


フェリシアの周囲に、透き通るような半透明の大盾が、音もなく顕現した。


幅一・五メートル、高さ二・五メートル。表面には古代の樹木や根を思わせる、緻密で荘厳な意匠が刻み込まれた、絶対的な魔力の盾。


「なっ!?」


「なんだこの壁はッ!?」


衛兵たちの手が、フェリシアに触れる一メートル手前で、見えない壁に激突したようにピタリと止められる。


慌てて抜き放った剣で渾身の斬撃を見舞うが、カンッ! と甲高い音を立てて弾き返されるだけだ。


「ええい、退け! 俺が魔法で消し飛ばしてやる!」


衛兵の一人が怒り狂い、至近距離から初級の攻撃魔法を放とうと殺気を膨れ上がらせた。


「それも、お断りいたします」


フェリシアが冷ややかに微笑む。


「当店は、品位を欠いた殺気や害意をお持ちのお客様は……【ドレスコード(規律)違反】として、お引き取りいただいておりますの」


ドンッ!!


魔法が放たれるより早く、フェリシアの盾から『拒絶の概念』が波紋のように広がった。


「ぐあッ!?」


衛兵たちは目に見えない巨大な手に胸を突かれたように、数メートル後方へと無様に弾き飛ばされ、床を転がった。


物理的な盾による防御と、概念的な『門前払い』。


フェリシアの周囲は、いかなる理不尽な攻撃も口撃も届かない、完全なる不可侵領域サンクチュアリと化していた。


「ひぃッ……!? な、なんだこれは! お、お前、魔法は使えないはずでは……ッ!」


第一王子が、信じられないものを見る目で後ずさる。


フェリシアが一歩、コツンとヒールの音を鳴らして前へ進んだ。ただそれだけで、王子は凄まじいプレッシャーに当てられ、腰を抜かして床にへたり込んだ。


「ひ、ひぃぃぃぃっ! 来るな! 来るなァッ!!」


無様な悲鳴を上げながら、王子は這いずるようにして部屋の外へと逃げ出していく。


「ヨ、ヨハネスッ! ディミトリッ!! どこにいる!! 化け物だ、あの女も化け物だァァァッ!!」


開け放たれた扉の向こうへ、情けない絶叫が遠ざかっていく。


フェリシアは逃げる王子を追うことはせず、再度武器を取り、こちらに相対している衛兵たちを一瞥した。


そして、背後で倒れているセラへと優しく手をかざす。


「【戸締りの管理(バックヤード指定)】。……セラ、ここで少し休んでいてちょうだいね。誰一人、あなたには指一本触れさせないわ」


セラの周囲に、フェリシアと同じ荘厳な意匠の小盾が三枚地面に刺さるように展開され、三角錐の結界が構築される。


それを確認すると、フェリシアは再び前を向いた。


「さて……。先ほどから当店の入り口を騒がせているお客様方」


フェリシアの前に展開された大盾が、淡く明滅している。


そこには、先ほど衛兵たちが叩きつけた剣の斬撃と、突進の運動エネルギーが『クレーム事由』として完璧に蓄積(記憶)されていた。


フェリシア自身は、ただの一度も攻撃魔法を放っていない。彼女はただ、理不尽な振る舞いを記録し、それに対する『当然の請求』を行うだけだ。


「お客様に当店の規律をご理解・ご納得いただくため……」


フェリシアは優雅に右手を上げ、パチン、と指を鳴らした。


「【お会計】を、申し上げますわ」


直後。


フェリシアの盾に蓄積されていた全ての運動エネルギーが、一・二倍の威力に増幅され、不可視の衝撃波となって衛兵たちへと反射リフレクトされた。


「「が、はァッ!?」」


衛兵二人の身体が、自らが叩きつけた渾身の攻撃をさらに上回る威力で殴り飛ばされ、石室の壁に激突して完全に気を失った。


フェリシアは乱れた髪を優雅に払い、アルフレッドが捕らえられているであろう、さらに深い地下へと視線を向ける。


「待っていてくださいませ、アルフレッド様。……あなたを傷つけた者たちへのお会計ツケは、最高級のデザートとして、私が全て取り立てて差し上げますわ」


誇り高き令嬢――いや、最強にして絶対のホールマネージャーによる、王城蹂躙が今、静かに幕を開けた


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