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第四十三話:一滴

王都からの凶報を受け、バッカス亭の厨房は絶対零度の怒りに包まれていた。


アルフレッドは静かにエプロンを外し、愛用の銀のマドラーをベストの胸ポケットに収める。セラもまた、一切の感情が抜け落ちた瞳のまま、厨房の裏口へと向かおうとした。


「――待てや、坊主ども」


その時。

厨房の入り口を塞ぐように、巨漢の店主――バッカスが立ち塞がった。


「どいてください、バッカスさん。フェリシア様が――」


「そのまま行けば、王都に着く前にてめえらの『たましい』が割れて死ぬぞ」


アルフレッドの言葉を遮ったバッカスの声は、普段の豪快で気のいい親父のそれとは、根本的に異なっていた。


「……っ」


アルフレッドとセラの足が、本能的な警鐘を鳴らしてピタリと止まる。


バッカスの巨体から放たれているのは、赫竜のような暴力的な魔力ではない。

もっと根源的で、圧倒的で、逆らうことすら烏滸がましいと感じさせる『次元の違う威圧感』。それはまるで、遥か高みから世界そのものを見下ろすような、深淵のプレッシャーだった。


「バッカス……さん?」


「……驚かせて悪かったな、アル坊。だが、時間がねえ。手短に話すぜ」


バッカスは普段のタオルを頭から外し、静かにアルフレッドを見据えた。


「魔法にばかり依存して、食文化も技術も停滞しきったこの退屈な世界。それをかき回す劇薬として、ルールを破って別の世界からてめえの魂を引っ張ってきたのは……この俺だ」


「……俺を、転生させた張本人……。そうか、それでアイリスが懐いたのか……」


「あぁ、酒神で主神ってやつだ。なかなかイカしてるだろ?けど『神様』なんて堅苦しい呼び方はよしてくれ。俺は美味い酒とツマミを愛する、しがない酒場の親父でいたいんでな」


ニヤリと笑うバッカス――いや、この世界を管理する『酒神』の言葉に、アルフレッドの脳内で今まで感じていた微かな違和感がすべて繋がった。


バッカス亭という名前。酒をこよなく愛する姿。そして、どれだけアルフレッドが規格外の料理や魔法を披露しても、驚くことはあれど騒ぎ立てる事はなかった。

初めからバッカスはアルフレッドを知っていたのだ。


「セラちゃん。お前さんが赫竜を解体したあの『力』は、人間の規格を完全に逸脱している。今は落ち着いてるが、お前さんの魂の器には、すでに無数のヒビが入っちまってるんだ。次にあの力を全開にすれば、間違いなく魂が砕け散る」


「……」


セラは無表情のまま、己の手のひらを見つめた。主を救うためなら魂が砕けても構わない。そう言わんばかりの狂信が、その瞳には宿っている。


「そしてアル坊。てめえの『魔力回路』そして『アイリス』。その莫大な出力を制御できてるのは奇跡だが、てめえの肉体と魂の連結がいつ焼き切れてもおかしくねえし、あの子は自我を持ち始めている。どう考えても人間がその身で耐えられる負荷じゃない。……それに、王都で理不尽に耐えているフェリシア嬢ちゃんも、愛する連中を守りたいという特大の想いが限界(閾値)を突破して、間もなく魂の器がぶっ壊れる寸前だ」


バッカスはそう言うと、何もない空中に右手を差し入れた。


空間がパチンと弾け、彼の分厚い手の中に、親指ほどの小さなガラスの小瓶が現れる。

中には、星の瞬きをそのまま液状化したような、神々しく黄金に輝く液体が揺蕩っていた。


「俺は本来、下界の寿命や理に干渉しちゃならねえ。……だが、常連客や可愛い従業員に、とびきりの酒を奢ってやるのは店主おれの特権だからな」


バッカスは小瓶の蓋を開けると、二つの小さなグラスに、その黄金の雫を『一滴』ずつ垂らした。


それだけで、厨房全体がむせ返るような芳醇な香りと、圧倒的な生命力に満たされる。


「っ!……なんて薫りなんだ。たった一滴なのに今まで嗅いだこと無い極上の薫りだ……」


「神の酒、『ネクタル』だ。てめえらのひび割れた魂の器を、神の領域にまで作り変え、限界を無限に拡張する霊薬。……飲め」


差し出されたグラス。

アルフレッドは珍しく震える手でそれを受け取り、セラもまたそれに倣った。


「……いただきます」


アルフレッドが深く眼を瞑り、二人が同時に、その一滴を呷り唸った。


「っ!!!……旨すぎるっ!!」


リンゴのような爽やかな風味、オレンジのような優しい酸味、それをまとめる蜂蜜のような甘味。他にも表現し得ないありとあらゆる旨味が脳髄を叩きつけてくる。


――瞬間。


アルフレッドは白く、温かい光に包まれた。


喉を通り抜けた一滴の雫が、胃の腑に落ちた途端に『無限の海』となって全身の細胞、いや、魂の奥底までを満たしていく感覚。


赫竜の聖域肉を食べた時の「魔力の暴走」とは違う。自分という存在の『枠組み』そのものが、果てしなく広がり、いかなる莫大な力も、いかなる理不尽な事象も、すべてを受け止められる絶対的な安定感を得たのだ。


「……はぁっ」


隣でセラが、ふわりと息を吐き出した。

彼女の身体から時折漏れ出ていた、刃物のように危うい狂気の波長が、深く静かな湖のように完全に安定している。魂のヒビが完全に修復され、強靭な器へと進化した証拠だった。


【……ん。報告。神酒の摂取を確認しました。魂の器が修復され、肉体の年齢が固定。スキル『不老』を獲得しました。】


「不老……」


アルフレッドが自身の手を握り込みながら呟く。


「不老はプレゼントだ。もっとこの世界を楽しんでそして俺を楽しませてくれ!これでてめえらは、どれだけ無茶なスキルを振るおうが、魔力を暴走させようが、魂が壊れることは絶対にねえ。……ほら、こいつはフェリシア嬢ちゃんの分だ。お嬢ちゃんに会ったら、すぐに飲ませてやれ」


バッカスは、残りのネクタルが入った小瓶をアルフレッドへと放り投げた。


「っ!……ありがとうございます、バッカスさん。……一つ、聞いていいですか?」


アルフレッドが小瓶を大切に懐にしまいながら、静かに問いかける。


「バッカスさん、あんたが俺をこの世界に呼んだ神様なら……俺に、この先どうしてほしいんだ?」


勇者として魔王を倒せと言うのか。それとも、世界を救えと言うのか。


だが、バッカスは豪快に鼻で笑った。

「勘違いすんな。言っただろ?楽しめって。俺はてめえに何かを強制する気はこれっぽっちもねえ。ただ、美味い飯と酒を作って、この停滞した退屈な世界を、てめえのやり方で面白おかしくかき回してくれりゃ、それで十分だ。……それに、俺は今の『バッカス亭の親父』ってポジションが、案外気に入っててな」


その言葉に、アルフレッドの口元に、いつもの穏やかなバーテンダースマイルが戻った。


「……そうですか。なら、俺はこれからも、大切なお客様と従業員のために、最高の飯と酒を作るだけです」


アルフレッドはカウンターの奥へ歩み寄ると、自分が愛用している純銀のシェイカーを手に取った。


「バッカスさん。……そのネクタル、まだあと『一滴』だけ、瓶の底に残ってますよね?」


「ん? ああ、ほんの僅かだが残ってるが……」


「なら、俺に貸してください。……最高の酒を奢ってくれた神様(お客様)を、タダで帰す三流のバーテンダーは、この店にはいませんから」


アルフレッドの目が、プロの料理人としての鋭い光を放つ。


彼は魔法冷蔵庫を開け、バッカス亭で最も古く、最も香りの強い樽熟成のアップルブランデーを取り出した。


(……この世界の人間が造り上げた極上の酒と、神の酒。俺の腕で、完璧に調和マリアージュさせてみせる)


アルフレッドはシェイカーに氷を入れ、アップルブランデーを注ぐ。


そして、バッカスから受け取った小瓶の底に残る最後の一滴のネクタルをシェイカーに入れ、ゆっくりと振り始める。


シャッカッ……シャカッ……シャカシャカシャカッ!!!


アルフレッドの手の中で、シェイカーが目にも留まらぬ速度で舞う。


それは、相手の魔力回路を破壊する攻撃的な『カクテル・シェイク』ではない。魂を拡張して無限の精度を得たアルフレッドが、ただ純粋に「液体を完璧に混ぜ合わせる」ためだけに全神経を集中させた、至高のミクソロジー。


マイナス四度という絶妙な温度帯で、ブランデーの雑味だけが氷に吸着され、ネクタルの持つ圧倒的な神の香りと、リンゴの芳醇な甘みだけが、分子レベルで完全に結合していく。


「お待たせいたしました」


アルフレッドは、冷え切ったカクテルグラスに、その黄金色の液体を静かに注ぎ入れた。


「『神のリンゴ』と『人のリンゴ』を合わせたショートカクテル――『エデン・リバイバル』です。どうぞ、主神様」


カウンターに差し出された、神々しい香りを放つ一杯。


バッカスは宝物を見るようにそれを見つめ、やがて太い指でグラスをつまみ上げると、一息に煽った。


「――――ッ!!」


酒神の巨体が、ビクリと震える。

神の酒であるネクタルの圧倒的な力強さを、人間が造り上げたブランデーの繊細な甘みと樽の香りが優しく包み込み、氷点下まで冷やされたことでアルコールの刺激は完全に消失している。


それは、ただの霊薬ではなく、まぎれもなく「人間の技術とホスピタリティ」が神の素材を凌駕し、昇華させた『極上のカクテル』だった。


「……くくっ、がはははっ! 最高だ! 神の酒を、ただの酒場のバーテンダーがさらに美味くしやがった! こりゃあ天界の連中にも飲ませてやりてえが、もったいなくて一滴もやらねえぞ!!」


バッカスが、腹の底から愉快そうに大笑いする。


「お粗末様でした。……俺はフェリシア様を迎えに行ってきます。留守の間の店とガレンのこと、よろしくお願いしますよ、親父さん」


「ああ、任せとけ。……行ってこい、アル坊。王都の腐った連中に眼にもの見せてやれ!!」


◇◇◇


バッカス亭の裏口を抜けた先。

そこには、四頭立ての立派な馬車と共に、息を吹き返したラモンが待機していた。


「アルの旦那! セラちゃん!この街で一番早え馬車を手配したぜ! これなら王都まで、明日の夜には――」


「ラモンさん。手配感謝します。ですが……」


セラが、馬車を一瞥もせずにアルフレッドの前でスッと背を向け、しゃがみ込んだ。


「アル様。お乗りください」


「え?」


「馬車では遅すぎます。私が走った方が早いです」


「……はい?」


アルフレッドが戸惑っている間に、セラは彼の手を強引に引き、自らの細い背中に背負いあげた。


赫竜を単独で解体し、魂の器をネクタルで拡張されたメイドの筋肉が、限界まで圧縮される。


「お、おいセラさん!? いくらなんでも一人で王都までは――」


「アル様、舌を噛みますので、どうか口を閉じて、しっかり掴まっていてください」


セラの薄藍色の瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く前方を睨み据える。


「出立します」


ドゴォォォォォンッ!!!


セラの細い脚が地面を蹴った瞬間、馬車の横の石畳が爆発したように粉々に砕け散った。


「ぎゃあああああああああああああっ!?」


「ええええええええええええええええっ!?」


アルフレッドの絶叫と、一人取り残されたラモンの悲鳴を置き去りにして。


セラは音速すら超えるような物理法則無視の爆発的ダッシュで、男爵領の街道を文字通り『弾丸』となって、一直線に王都へとカッ飛んでいったのだった。


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