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第三十九話:献身

南門広場は、異様な静寂に包まれていた。


先程まで街を吹き飛ばす勢いで暴れ狂っていた赫竜は、今や巨大な厨房に並べられたかのように、幾つもの『素材』として整然と切り分けられ、沈黙している。


だが、その奇跡のような光景に歓声を上げる者は、誰一人としていなかった。

皆の視線は、広場の中心――おびただしい血溜まりの中で倒れ伏す、一人の青年に釘付けになっていたからだ。


「チッ……クソッ。バイタル低下、細胞分裂の限界点突破。血中魔力濃度、限りなくゼロ……」


不気味なほどの静けさの中、ガレンの舌打ちと、早口で呟かれる呪詛のような診断だけが響いていた。


彼は血の海に膝をつき、普段の小馬鹿にしたような余裕など微塵もなく、青白い顔にさらに色濃い隈を浮かばせながら、両手をアルフレッドの千切れた右半身にかざしていた。


中級の回復魔法の光が、何度も何度も明滅する。だが、失われた肉体――抉り取られた右肩、砕け散った肋骨、そして粉砕された肺と肝臓は、一向に再生する気配を見せない。


「……理屈じゃあ、もう死んでるんだよ。物理的に欠損した内臓や骨までは、俺の魔法じゃどうにもならねえ……。さっさとあのデタラメな再生を見せろよ、アルフレッド……!」


痩せこけた指先が、無力感に震える。

彼には分かっているのだ、アルフレッドの身体がこれ以上の再生を拒絶している理由が。


細胞を作るための材料カロリーが、文字通り「完全にゼロ」なのだ。燃料のない竈にどれだけ魔法の火種を投げ込もうと、炎が燃え上がることは決してない。


アルフレッドの呼吸はすでに止まっていた。

土気色に変色し、急速に体温を失っていくその身体は、臨床的な『死』まで、あと数十秒の猶予すら残されていなかった。


その絶対的な絶望の淵に。


「――どいてください、先生」


鈴を転がすような、しかしひどく震える声が響いた。


ガレンが弾かれたように振り返ると、そこには、泥と赫竜の返り血で真っ赤に染まったセラが立っていた。


彼女の両手には、淡い桃色に輝く、小さな肉塊が大切に包み込まれている。


アルフレッドの傍らにセラが膝をついたその瞬間。


彼女の脳内で静かに稼働していたユニークスキル『構造理解の屠殺人アナトミーブッチャー』が、役割を終えたかのようにフッと解除された。


『解剖学の眼』によって透過されていた無機質な視界が、元の色彩を取り戻す。

そして、光の消え去っていた薄藍色の瞳に、ハイライトが戻った。


「あ……」


圧倒的な処理能力を持つ屠殺人から、ただの「愛する人を失う恐怖」を抱えた少女へと戻ったセラ。


元の視界で改めて直視したアルフレッドの惨状は、彼女の心を一瞬で現実に引き戻した。

むせ返るような血の匂い。


原型を留めないほど抉り取られた右半身の生々しさ。

そして、氷のように冷たくなった彼の横顔。


「あ、あああ……っ、アル、様……!」


極限の恐怖と悲哀が一気に押し寄せ、セラの身体がガタガタと激しく震え出した。


両手で抱え込んだ『聖域肉バー・テンダー』を取り落としそうになるほど、指先が震える。


だが、彼女は奥歯を強く噛み締め、必死に涙を堪えた。泣き崩れている暇はない。彼を救うための供物は、もう手の中にあるのだ。


「ガレン、お水を。あなたが持っている、水筒のお水を貸してください」


「み、水……? おいセラ、お前まさか……意識のないアルフレッドに、その『肉』を食わせる気か!?」


ガレンの目が、セラの持つ肉塊を見て驚愕に見開かれた。


「正気か! いくら柔らかそうに見えても、そいつは自家中毒で肝性脳症を起こしたドラゴンの肉だぞ! アンモニアと魔力毒素の塊だ! 経口摂取すれば、ただでさえ死にかけてる内臓が完全に腐り落ちる!!」


ガレンの言う通りだった。


赫竜の逆鱗の奥に隠されていた究極の希少部位『聖域肉』。魔力の脂が乗ったその肉は、淡い桃色で美しく輝いているが、同時に、致死量の数百倍のアンモニアと血中毒素をたっぷりと吸い込んでいる。


現に、セラの手の中にある肉からは、鼻を突くような強烈な化学物質の異臭と、獣の臓物の腐乱臭が入り交じった、吐き気を催すほどの悪臭が放たれていた。


「いいから!!」


セラが、かつて見せたことのない激しい語気で叫んだ。


その血走った瞳と異常な気迫に気圧され、ガレンは舌打ちをしながらも腰に下げていた革の水筒を外し、セラへと手渡した。


セラは水筒の栓を抜き、一切の躊躇なく、自らの口いっぱいに水を流し込んだ。


そして、猛烈なアンモニア臭を放つ『聖域肉』を、そのまま自らの口内へと放り込んだのだ。


「っ……!!」


口に入れた瞬間、強烈な激痛がセラの舌と粘膜を焼いた。


極度に濃縮されたアンモニアと魔力毒素が、口腔内の水分と反応して劇薬へと変わり、セラの味覚を暴力的に破壊する。涙腺から反射的に涙が噴き出し、喉の奥が痙攣して激しい嘔吐感が込み上げてきた。


(不味い……痛い、苦しい……っ!)


だが、同時にセラは確信した。

噛む必要など、全くない。毒の塊でありながら、その肉はセラの口内の体温に触れただけで、まるで極上のバターのように蕩け出し、滑らかな『魔力の脂』となって水と混ざり合い始めたのだ。


これなら、いける。

セラは血溜まりに顔を近づけ、ピクリとも動かないアルフレッドの顔を両手でそっと包み込んだ。


泥と血に塗れた彼の冷たい唇に、自らの唇を、強く、深く押し当てる。


そこに、ロマンティックな感情など微塵もない。

あるのは、「絶対に死なせない」という狂気にも似た必死の献身と、なりふり構わぬ執念だけ。


アルフレッドの血の鉄錆の匂い。


焦げた服の煤の匂い。


泥の味。


セラの瞳からボロボロとこぼれ落ちる、しょっぱい涙の味。


そして、二人の舌を同時に焼き焦がす、赫竜のアンモニアの強烈な腐臭と激痛。


それらがすべて混ざり合った、酷く生々しく、泥臭い口づけ。


セラは、自らの口に含んだ水と共に、体温で蕩けたドラゴンの毒肉のペーストを、アルフレッドの歯を無理やりこじ開け、喉の奥深くまで力任せに押し流し込んだ。


(お願い、アル様……。飲み込んで、生きて……っ!!)


だが、完全に意識を失っているアルフレッドには、嚥下(飲み込む)反射すら起きない。

このままでは、毒と水と肉のペーストが気管に流れ込み、確実な窒息死を引き起こす。


その絶対の死の淵で。


彼の体内でギリギリの待機状態にあったシステムが、最後の力を振り絞って完全起動した。


【警告。マスターの嚥下能力喪失を確認。気管への誤嚥の危険性極大】


アイリスの無機質な声が、アルフレッドの脳内に響く。


【――緊急措置を実行。食道内壁に魔力防壁を展開。気管へのルートを物理的に遮断し、胃袋への直通バイパスを形成します】


アイリスの放つ淡い光が、アルフレッドの喉から胸の内側を駆け抜けた。


セラの決死の口移しによって押し込まれたペーストは、気管に入る手前で見えない魔力の壁に滑り、アイリスが開通させたチューブ(食道バイパス)を真っ逆さまに落ちていく。


一切の誤嚥を起こすことなく、それは確実にアルフレッドの胃の腑へと到達した。


【胃内到達を確認。ただちに『暴飲暴食の聖域メディカル・カクテル』の自動処理オート・プロセスを実行します】


【対象物の成分解析。……致死濃度のアンモニア、および高純度の魔力素を検出】


胃に到達した赫竜の肉は、そのまま吸収すればアルフレッドの脳を瞬時に破壊する猛毒だ。


【毒素の強制分解開始。アンモニア(NH3)を無害な尿素と水へ強制変換デトックス。同時に、対象細胞のカロリー超効率抽出を実行……完了】


だが、ここは『暴飲暴食の聖域』。


アイリスの演算による圧倒的な生化学的処理が、赫竜の毒肉を瞬時に無害化し、生態系の頂点が蓄えていた「莫大な命のエネルギー」へと変換していく。


【カロリーの超効率抽出、完了。体組織変換用エネルギー(ATP)、一〇〇〇〇%オーバー】


【同時処理。肉に宿る『魔導的恩恵』をマスターの全身へ還元。……魔力回路の超伝導化フル・ブーストを確認】


アルフレッドの体内を巡る魔力回路が、かつてないほどの太さと強靭さを持って発光し始めた。


それは、魔法のキレと伝達速度を爆発的に引き上げる、赫竜からの最上級のバフ。


その圧倒的なエネルギーの奔流を前に、アイリスの無機質な声が、ふわりと、確かな『感情』を帯びて揺らいだ。


【……っ、マスター。おかえりなさい!】



ドクンッ!!



止まっていたアルフレッドの心臓が、大きく、痛いほど力強く跳ねた。


【超速再生システム……再点火リブート


「あ……!」


セラの唇が離れた直後。

アルフレッドの抉り取られた右半身から、太陽のように眩い、爆発的な魔力の光が溢れ出した。


それは、先程までの命を削るような痛々しい再生ではない。


赫竜から奪い取った莫大なカロリーと、魔力回路の超伝導化による劇的な回復速度のバフに裏打ちされた、完全なる『命の再構築』。

砕け散った骨が瞬く間に繋がり、粉砕された肺と肝臓が新品のように編み込まれ、抉り取られた筋肉と皮下脂肪が、元のしなやかな状態へと一瞬にして戻っていく。


燃え尽きかけた灰の中から、不死鳥が蘇るかのように。

ガレンの回復魔法など比較にならない、文字通りの『奇跡』が広場を照らし出した。


「……っ、はぁぁぁぁぁぁッ!!」


アルフレッドが、水面から顔を出したように大きく、深く息を吸い込み、パチリと目を開けた。


光を取り戻した彼の視界。

そこに最初に映ったのは。


「あ、る様……っ、アル様ぁ……っ!!」


髪を振り乱し、顔中を泥と血と涙でぐちゃぐちゃにし、アンモニアで爛れた唇から血を流しながら、子供のように泣きじゃくる少女・セラの姿だった。


魔力を持たず、狂信の屠殺人としての力も失った、ただ彼を愛し、彼のために毒肉すら喰らった一人の少女。


アルフレッドは、完全に修復された右手をゆっくりと持ち上げ、セラの泥だらけの頭をそっと撫でた。


その手には、確かな熱と、生命の鼓動が宿っている。


「……泣くな。……最高の料理だった」


アルフレッドの口元に、いつもの誰よりも温かい微笑みが浮かぶ。


「美味かったぞ、俺のバーテンダー(世話人)」


その言葉を聞いた瞬間、セラの中で張り詰めていた糸が、完全に切れた。


「あ、あああぁぁぁぁぁぁっ!! アル様ぁぁぁっ!!」


彼女はアルフレッドの胸に顔を埋め、大声を上げて泣き崩れた。


アルフレッドは起き上がり、泣きじゃくるセラをその両腕でしっかりと抱きしめる。


「……チッ。ったく、心臓に悪い野郎だ……理屈に合わねえことばっかりしやがって……」


血溜まりの中にへたり込んだガレンが、色んな感情をごまかすように前髪を掻き毟り、フッと力なく笑い声を漏らす。


駆けつけはしたが手を出せず遠巻きに見ていたバッカスや冒険者たち、そして避難せずに残っていた領民たちから、割れんばかりの歓声と雄叫びが上がった。


だが、アルフレッドはその歓声に応えるよりも先に、腕の中で泣きじゃくるセラの肩をそっと引き剥がし、彼女の顔を真剣な目で見つめた。


「セラ。口を開けろ」


「え……? あ、アル様……?」


涙でぐしゃぐしゃになったセラの顔。だが、アルフレッドの視線は彼女の『唇』に注がれていた。


赫竜の致死量のアンモニアと魔力毒素を口に含んだ代償。セラの唇は酷く爛れ、口角からは赤黒い血が滲み、荒い呼吸をするたびに喉の奥からヒューヒューと痛々しい音が漏れていた。


「馬鹿野郎。……自分の味覚を潰す料理人が、どこの世界にいる」


アルフレッドは短く悪態をつくと、自身の右手の人差し指と中指に『暴飲暴食の聖域メディカル・カクテル』の淡い光を纏わせた。


「早く口を開け。治療なおす」

逆らうことなど許さない、主としての低く甘い声。


セラが戸惑いながら小さく唇を震わせて口を開くと、アルフレッドの長く形の良い二本の指が、躊躇いなく彼女の口腔へと侵入した。


「んっ……ぁ……っ」


セラから、甘く、そして艶めかしい吐息が漏れた。


アルフレッドの指の腹が、アンモニアで焼け爛れた彼女の口腔内の粘膜を、撫で回すようにゆっくりと這っていく。


魔力によって冷たく心地よい極上の『癒やし』が、激痛に苛まれていたセラの口内を甘く麻痺させていく。


(……なんだ、この魔力の通り(キレ)は)


アルフレッド自身も、指先から流し込む魔力の『異常なまでの滑らかさ』に内心驚愕していた。


以前なら意識して練り上げなければならなかった繊細な細胞修復の術式が、呼吸をするよりも自然に、そしてロスなく指先から溢れ出していく。赫竜の『聖域肉バー・テンダー』がもたらした、魔力回路の超伝導化フル・ブースト。その圧倒的な恩恵を、アルフレッドはセラの口内を弄りながらはっきりと自覚していた。


「力、抜け。……舌の奥まで焼けてるぞ」


アルフレッドの指先が、セラの舌の表面を、根元から這い上がるようにじっとりと撫で上げる。


「んぅ……っ、あっ、アルさ……ぁっ」


完全に修復された彼の指の熱と、流れ込んでくる圧倒的な魔力の奔流に、セラの身体が上気しビクンと大きく跳ねた。


それは端から見れば、公衆の面前で主がメイドの口内を指で蹂躙している、あまりにも背徳的でエロティックな光景だった。


だが、二人の間にあるのは純粋な『医療』と『恩返し』であり、『献身』だった。


アルフレッドの指が絡みつくたびに、セラの破壊された味蕾みらいが蘇り、爛れた喉の粘膜が元の美しい桜色へと再生していく。


やがて、アルフレッドはゆっくりと指を引き抜いた。


二人の間に、銀色の唾液と魔力の残滓が糸を引いてきらめき、そして弾けた。


「……っ、はぁ、はぁっ……」


「これでよし。味覚に異常はないか?」


熱を帯びた瞳で潤むセラに対し、アルフレッドは自身の指先を拭いながら、いつもの誰よりも温かい微笑みを浮かべた。


「お前には、これからも俺のために美味い飯を作ってもらわなきゃ困るからな」


その言葉に、セラの薄藍色の瞳から、再びポロポロと大粒の涙が溢れ出した。


「はい……っ! はい、アル様……っ!!」


赫竜という絶対的な災害によってもたらされた絶望の魔の谷は。


理不尽な世界システムのエラーと、それを乗り越えた一人の少女の毒をも厭わぬ献身、そして奇跡の生化学によって、今、完全なるハッピーエンドとして終幕を迎えた。


泥と血と、アンモニアの異臭が立ち込める広場の中心でただ静かに、二人の温かく、そしてひどく甘い時間だけが流れていた。


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