表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/62

第三十八話:聖域の「バーテンダー」

ズズンッ……!!


左前脚を『豆腐のように』両断された赫竜が、バランスを崩して南門広場の石畳に倒れ込んだ。


痛覚が麻痺しているはずの生態系の頂点は、しかし、自らの巨体が「切り離された」という事実と、眼前に立つちっぽけなメイドから放たれる異常なプレッシャーに、かつてないほどの錯乱状態へと陥っていた。


「ギャアァァァァァァァァッ!!」


狂乱の咆哮が、街の空気をビリビリと震わせる。


赫竜は残された右前脚の巨大な鉤爪を、そしてアルフレッドが唯一有効なダメージを与えた丸太のような、しかし中程まで切れた太い尾を、でたらめに振り回した。広場の石畳が捲れ上がり、周囲の瓦礫が散弾のように飛び交い、アルフレッドの特攻によって開いた外耳道の傷からドクドクと赤黒い血が噴き出す。


だが、セラは表情一つ変えなかった。


深海のように冷たく澄み切った薄藍色の瞳には、ただの一点の焦りもない。彼女の視界に展開された『解剖学のアナトミー・アイ』は、赫竜の全身の筋肉の異常収縮、骨格の軋み、重心の移動、そして血流の変化を完璧な3Dモデルとして可視化している。


(――〇・三秒後。右前脚の薙ぎ払い。〇・七秒後、尾による叩きつけ。一・二秒後、体勢を崩した反動での噛みつき)


コンマ一秒先の軌道が、寸分の狂いもなくセラの脳内へ予測データとして弾き出される。


セラは、まるで厨房で手慣れたステップを踏むかのように、優雅に、そして一切の無駄なく身体を滑らせた。


ゴォォォォッ!! と、致死の質量がセラの残像を掠めていく。


アルフレッドがかつて施した『最適化』のリミッターが完全に外れた彼女の肉体は、力むことすらなく、赫竜の猛攻の完全な「死角」へと入り込み続けた。


「筋が硬いですね。それに、血抜きも全く足りていない」


セラは独り言のように呟きながら、赫竜の巨大な顎が自身の頭上を通り過ぎるその『すれ違いざま』に、右手にある十五センチのペティナイフを無造作に滑らせた。


シュパァンッ!!


刃が空気を撫でるような、酷く軽い音。


だが、その一閃は、赫竜の巨大な顎を動かすための咬筋こうきんと、首を支える胸鎖乳突筋の『腱』だけを、ピンポイントで両断していた。


「ガァッ……!?」


赫竜の口が半開きのまま固定され、顎から力が抜け落ちる。


『構造理解の屠殺人アナトミーブッチャー』がもたらす、有機物への絶対切断。対象の質量も、強固な生体魔力場オーラも、セラにとっては存在しないに等しい。


目の前で暴れ狂う災害は、まな板の上で跳ねる巨大な魚でしかなかった。


セラは止まらない。


赫竜が体勢を立て直そうと、強靭な後脚で石畳を蹴り上げた瞬間。彼女はあえてその後脚の懐へと潜り込み、分厚い鱗の隙間――『解剖学の眼』が青白くハイライトした、装甲の継ぎ目へとナイフの先端を滑り込ませた。


シュルルルッ……!


それは「斬撃」というより、皮剥ぎ(スキニング)の神業だった。


赫竜の後脚を覆っていた鋼鉄より硬い鱗と真皮層が、まるで熟れた果実の皮を剥くように、ペティナイフの軌道に沿ってベロリと剥がれ落ちる。


露出した巨大な大腿筋群。そこへ、セラは流れるような動作で刃を突き立て、太い動脈を一箇所だけ的確に切開した。


「まずは血抜き(ドレナージ)です。これ以上、毒と臭みが回っては困りますから」


ブシャァァァァッ!! と、赫竜の巨体から滝のような血が噴き出す。


ただ力任せに切り刻むのではない。動脈の圧力を利用し、心臓のポンプ機能が生きているうちに、全身の汚れた血を強制的に体外へ排出させる、完璧に計算し尽くされた『屠殺の作法』。


「ギ、ギィィィィィィッ……!!」


赫竜は大量の血液を失い、急激な血圧低下によって視界を明滅させながらも、背中に生えた巨大な皮膜の翼を羽ばたかせ、空へ逃れようともがいた。


だが、セラはそれすらも許さない。


「飛んではいけません。お肉に余計なストレス(疲労物質)が溜まります」


跳躍。


アルフレッドに最適化されたセラの脚力が、石畳をクレーターのように陥没させ、彼女の身体を空中へと弾き飛ばす。


宙を舞う赫竜の翼の付け根。巨大な広背筋と肩甲骨を繋ぐ、最も強靭な靭帯群。


セラは空中で身体を捻りながら、そこへペティナイフを深く沈み込ませ、一気に引き裂いた。


ズババババァァァンッ!!


両翼の付け根の筋繊維が完全に断たれ、赫竜は空へ舞い上がる直前に推進力を失い、再び広場へと無様に墜落した。


四肢の自由を奪われ、顎を開くことすらできず、血を流し続ける巨大な肉塊。


あのアルフレッドの全魔力を込めた一撃すら弾いた規格外の化け物が、開始からわずか数十秒で、ただのメイドの手によって完全に『下処理』されていた。


その時、セラの脳内に、アルフレッドの命を繋ぐためにギリギリで待機しているアイリスから、切実な通信が飛んだ。


【……セラ、聞こえますか。急いで。……対象の背肉を。最も魔力とカロリー密度の高い部位を……抽出して】


それは、純粋な生化学的見地に基づく、システムとしての最適解だった。アルフレッドの失われた組織を超速再生させるには、とにかく莫大な熱量カロリーが必要だという演算結果。


だが、セラは『解剖学の眼』で赫竜の全身構造を透過しながら、冷たく首を横に振った。


「ダメです、アイリス。あなたの演算は、生きたお肉の構造と、食べる側の状態を理解しきれていない」


【……エラー? 対象のカロリー密度および質量は、背肉のブロックが最大値です。マスターの生存には――】


「四足歩行で、さらに巨大な翼で空を飛ぶ竜ですよ? その巨体を支える背中の筋肉は異常に発達していて、極端に硬く、太い筋繊維で覆われている。……心臓が止まりかけ、消化器官の機能すら失いかけている瀕死のアル様には、そんな硬い肉を消化・吸収するための『エネルギーの余力』すら残っていないんです」


どれほど栄養価が高くとも、胃腸に負担がかかる肉では、今のアルフレッドを救えない。


彼に必要なのは、噛む必要すらないほど滑らかで、胃に入った瞬間に体温で溶け出し、即座に命へと同化できる『極上の柔らかさ』を持つ部位だ。


「私が、最高の部位を選びます」


セラの『解剖学の眼』が、赫竜の全身を駆け巡る。


数万、数十万という筋繊維束と骨格の構造を透過し、そして、ある一点でピタリと止まった。


赫竜の喉元。


そこには、竜の急所である中枢神経や主要血管を守るための、全身で最も分厚く、最も強固な鱗――いわゆる『逆鱗』が存在する。


だが、セラが見つめていたのはその鱗ではなく、逆鱗という絶対防御の壁に守られた、さらに奥深くの、極小の部位だった。


「……見つけました」


赫竜が、セラから放たれる決定的な殺意に気づき、最期の抵抗として、千切れた声帯の奥、火炎袋から極大の熱量ブレスを強制的に圧縮し始める。


口腔から、周囲の空気が発火するほどの熱波が漏れ出す。


だが、遅い。


セラは地を蹴り、赫竜の懐、その巨大な喉元へと神速で潜り込んだ。


彼女の右手が、下から上へ、静かに振り抜かれる。


「失礼します」


セラの放ったペティナイフの一閃が、いかなる魔法も、いかなる物理的衝撃も弾き返す赫竜の『逆鱗』を、まるで濡れた和紙を切り裂くように、音もなく縦に両断した。


「ガ、アァァァ……ッ!?」


ブレスを放つ前に喉元の構造を完全に破壊され、赫竜の口腔から圧縮途中の熱量が不発の煙となって吹き出す。


セラは、両断した逆鱗の隙間に躊躇なく血まみれの左手を突っ込んだ。


探り当てたのは、声帯と火炎袋のちょうど中間、脊椎の裏側に隠された、驚くほど細く、小さな筋肉の束。


セラは愛用のペティナイフの先端を滑り込ませ、周囲の複雑な神経や毛細血管をミリ単位で傷つけることなく、その筋肉だけを慎重に切り離し、引きずり出した。


「これこそが、今のアル様を救う、最高の供物」


セラの手の中にあるのは、三十メートルを超える巨体から、わずか二十センチ、おおよそ『チキンバー一つ分』ほどしか取れない、極小の肉塊だった。


巨大な竜がどれほど首を激しく動かしても、決して負荷がかからないよう、体内で完全に「浮かんでいる」特殊な筋肉。現実の牛のヒレテンダーロインすら比較にならないほど、一切の運動から隔離された究極の肉質。


基本的に解体時、固すぎる逆鱗を無理やり剥がす際に傷つけてしまい、他の部位と混同し切り出されてきた未発見部位。それ故にセラはこの筋肉を正しく発見し、切り出すことに成功したこの世界で最初の一人目だった。


この肉は鶏肉のようにほんのり淡い桃色で、透き通るような美しいサシが入っている。


指で触れただけで、舌の上で体温によって溶け出す『魔力の脂』の滑らかさが伝わってくる。


そして何より、火炎袋と声帯に隣接しているため、竜が産まれてから死ぬまでの間、常に微細な魔力調整の波動を浴びて熟成された、魔導的恩恵の塊でもあった。これを食せば、魔力回路の伝達速度が劇的に向上し、無詠唱化や魔力操作の極致へと至るという、生きた霊薬。


セラは、その美しく輝く極上の肉塊を見つめながら、己の狂信と主への愛を込めて、その部位にただ一つの名前を付けた。


「『聖域肉バー・テンダー』」


逆鱗という最も危険な神聖な境界(Bar)。


そして死の淵に立つ愛する主のために、自分という世話人が、泥と血に塗れながら差し出す、最上級の柔らかさ(Tender)を持つ、ただ一つの命の欠片。


ピキッ……パァンッ!!


聖域肉を切り出した直後、セラの右手に握られていた鉄のペティナイフが、ついに異常な概念負荷に耐えきれず、粉々に砕け散った。


柄だけになったそれを、セラは未練なく放り捨てる。刃など、もう必要ない。


「……解体、終了です」


セラの宣言と共に。


逆鱗を割られ、生命の要となる中枢神経を断たれた赫竜の巨体が、ビクンと大きく跳ね、完全に活動を停止した。


いや、ただ活動を停止しただけではない。


セラの放っていた無数の不可視の斬撃は、赫竜の巨体が崩れ落ちるその過程で、時間差で完全に機能し始めたのだ。


ズバッ、ズルゥゥゥンッ……!!


南門広場に響いたのは、怪物の倒れる音ではなく、巨大な肉が『分かたれる』音だった。


赫竜の巨体は、血みどろの死骸として地に伏すことはなかった。


まるで、熟練の職人が何十人も掛かり切りで下処理を終えた厨房のように、幾つもの『素材』として整然と広場に並べられて崩れ落ちたのだ。


右側には、分厚い皮膜を綺麗に剥がされた翼の骨。


左側には、煮込み料理に最適なゼラチン質を豊富に含む、等間隔に切り分けられた尾のブロック肉。


中央には、丁寧に血抜きされ、臓器ごとに美しく仕分けられた内臓群と、スープの出汁となるであろう巨大な肋骨の山。


そして、その後ろには、アイリスが指定していた背肉のブロックが、傷一つなく切り出されて鎮座している。


生態系の頂点として君臨していた災害は、ただの「下ごしらえ済み食材」へと成り果てていた。


そして、その凄惨で美しい巨大な厨房スローター・キッチンの中心。


セラは、淡い桃色に輝く『聖域肉バー・テンダー』を両手で大切に包み込んだ。


泥と、赫竜の返り血で真っ赤に染まったメイド服。


しかし、彼女の足取りには一切の迷いがない。


「アル様。今……私が、最高の一品をお持ちします」


死の淵でピクリとも動かない愛する主の元へ。


狂信のメイドは、血塗れた奇跡をその手に抱き、静かに歩みを進めた。



もし少しでも面白い、続きが読みたいと思っていただけたら、下部の☆☆☆から評価とブックマークをお願いします! 執筆の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ