第三十七話:傷心、狂信、凶刃
燃えるような熱風が、南の民家群の路地裏にも容赦なく吹き込んでくる。
セラの額から流れる汗は、すでにそれが暑さによるものなのか、それとも極限の恐怖と緊張による冷や汗なのか、彼女自身にも分からなくなっていた。
彼女の足元には、アルフレッドの作った『特濃増血剤』を舌下に投与され、かろうじて一命を取り留めた熟練猟師が横たわっている。
彼の弱い脈を指先で確認しながらも、セラの薄藍色の瞳は、半壊した建物の壁の向こう――凄惨な死闘が繰り広げられている南門広場から、一瞬たりとも離れることができなかった。
(アル様……。どうか、どうかご無事で……)
祈るような思いで、胸の前で両手を固く握り締める。
広場で繰り広げられている光景は、もはや人間の理解を超えた次元の暴力だった。
空を覆い尽くすほどの規格外の巨体を持つ赫竜。その一挙手一投足が、街の石畳を粉砕し、建物を紙屑のように吹き飛ばしていく。
その圧倒的な災害の中心で、アルフレッドはたった一人、銀色のマドラーを握りしめて踊るように立ち回っていた。
彼の着ていた上着はすでに半分以上が焦げ飛び、端正だった顔立ちには血と煤がこびりついている。
竜の巨大な爪が彼を掠めるたび、尾が彼の身体を吹き飛ばすたび、セラの心臓は冷たい手で鷲掴みにされたように悲鳴を上げた。
「あぁ……っ!」
アルフレッドの左半身が、竜の尾の直撃を受けて紙切れのように弾け飛んだ瞬間、セラは声を殺して蹲りそうになった。
だが、次の瞬間には彼自身の身から眩い光が放たれ、失われた肉体が『超速再生』によって元通りに修復される。その光景を見るたびに、セラは安堵の息を吐き、そして直後にさらに深い絶望の淵へと沈み込んでいった。
元ナースであり、誰よりも彼の側でその『暴飲暴食の聖域』の奇跡を見てきた彼女には、痛いほど分かっていた。
あの再生は、無償の奇跡などではない。
アルフレッド自身の体内に蓄えられた栄養素――彼が愛し、楽しんできた食事から得たカロリーを、莫大な熱量と共に強制的に燃やし尽くすことで細胞を再構築する、文字通りの『命の切り売り』だ。
遠目からでもはっきりと分かる。
再生を繰り返すたびに、アルフレッドのしなやかだった肉体が、病に侵されたように痩せ細っていくのが。
彼の頬がこけ、腕が細くなり、皮下脂肪が完全に燃焼し尽くされていく。彼自身の肉体が、彼自身を修復するために『喰い潰されて』いるのだ。
(私が……私が、もっと強ければ)
エプロンの下で握る手に爪が食い込み、血が滲む。
前日、極上のヤマシギのために本山葵をすり下ろそうとした時の、あの鋭い無力感がフラッシュバックする。
自分の包丁捌きでは、化学変化の壁を超えられなかった。結局、アルフレッドの魔法とアイリスの演算がなければ、完璧な薬味一つ作れなかった。
そして今朝、豪奢な馬車で王都へと旅立っていったフェリシアの、あの気高く美しい背中。
『表の貴族社会は、私が命を懸けて守る。だから、裏の厨房とアルフレッド様の背中は、あなたが守って』
そう誓い合ったはずだった。
フェリシアは、自らの命を危険に晒してまで、政治という巨大な暴力からアルフレッドを守る『盾』となった。圧倒的な美貌と、貴族令嬢としての力で、彼を庇ってみせた。
それに比べて、自分はどうだ。
ただ路地裏に隠れ、愛する主が己の命を削って傷つき、血を流し、痩せ細っていくのを、震えながら見ていることしかできない。
(私には、なにもない。魔力も、権力も。……ただ、厨房のナイフを振るうことしか……!)
自己嫌悪が、黒い毒のようにセラの心を侵食していく。
アルフレッドが、自分たちを守るために限界を超えて戦ってくれている。
たった数分。たった数秒すら、彼の隣に立ってやる力がない。
その時だった。
「おおおおおおおぉぉぉッ!!」
広場から、アルフレッドの魂を絞り出すような咆哮が響いた。
彼の手にあるマドラーから、かつて見たこともないほど巨大な、三メートルにも及ぶ青白い光の刃が伸びる。それは、彼の中に残された最後の魔力、最後のカロリーをすべて注ぎ込んだ、文字通りの『特攻』だった。
(アル様……ッ!!)
セラは息をするのも忘れ、その光芒を見つめた。
アルフレッドが赫竜の振り下ろす鉤爪の懐へと飛び込み、長大な魔力刃を竜の顔面の横、外耳道へと突き出す。
完璧な一撃に見えた。
これで終わる。この悪夢が終わり、またあの温かい厨房で、彼の作った極上の料理を――。
ガキィィィィィンッ……!!
無情な金属音が、広場に響き渡った。
アルフレッドの放った最後の希望(光の刃)が、赫竜の異常発達した頭蓋骨と生体魔力場に阻まれ、ピキピキと音を立ててひび割れていく。
(……え?)
パァンッ!!
光が、砕け散った。
それと同時に、赫竜の巨大な鉤爪が、完全に無防備となったアルフレッドの右半身を、まるで羽虫を払い落とすかのように、容赦なく薙ぎ払った。
メチャァッ……!!
肉と骨が、同時に、そして決定的に粉砕される、酷く生々しい破裂音。
アルフレッドの身体が、くの字に折れ曲がり、大量の鮮血を花火のように撒き散らしながら、宙を舞った。
「――――」
その瞬間。
セラの耳から、世界の一切の『音』が消え去った。
赫竜が勝利に猛る咆哮も、遠くでガレンが血を吐くように叫ぶ声も、燃え盛る建物の炎が爆ぜる音も。
何もかもが、分厚い水の中に沈められたように、完全に消失した。
セラの視界の中で、時間が極端に引き延ばされていく。
宙を舞うアルフレッドの身体から、ルビーのように赤い血の雫が、一つ、また一つと空中に軌跡を描いて飛び散っていく。
彼の右肩から脇腹にかけての肉が大きく抉り取られ、原型を留めていないのが、スローモーションの映像のように、残酷なほど鮮明に脳裏に焼き付けられる。
ドサッ、という音すらしなかった。
アルフレッドの身体が瓦礫の山に叩きつけられ、ボロ雑巾のように転がり、そして、二度と動かなくなった。
彼の身体の下から、漆黒の石畳を赤黒く染め上げながら、凄まじい勢いで血溜まりが広がっていく。
その血溜まりの赤色だけが、音の消えたモノクロームの世界の中で、異常なほどの極彩色を放ってセラの網膜を焼き焦がした。
(あ、る、さま?)
呼吸ができない。
肺に空気が入ってこない。
心臓が、ひどく冷たい氷の塊に変わってしまったかのように、鼓動を打つことを放棄していた。
(あ、ああ……)
視界がぐらぐらと揺れる。
アルフレッドが、倒れている。
彼の身体から、命の色が流れ出している。
つい数日前、自分に優しい微笑みを向け、「セラの腕は完璧だった」と慰めてくれたあの温かい手が、泥と血に塗れてピクリとも動かない。
つい先程、「お前たちは、俺が守る」と、力強く頷いてくれたあの瞳が、今は虚空を見つめたまま光を失っている。
『超速再生』の光は、二度と彼を包み込まなかった。
彼の命の源である『カロリー』が、完全に枯渇してしまったからだ。
(どうして)
セラの脳内で、ひび割れたガラスが擦れ合うような、不快で冷たい思考が回り始める。
(どうして、アル様が血を流さなければならないの?)
(どうして、あんなに優しくて、誰よりも美味しいお料理を作るアル様が、あんな冷たい瓦礫の上で、一人で倒れていなければならないの?)
(どうして、私は……。アル様を守ると、フェリシア様に誓ったはずの私は……。ただ突っ立って、それを見ていることしかできないの?)
無力感。
己の存在意義そのものを否定する、絶対的な絶望。
もしこの世界でアルフレッドが死ぬのなら、彼がいない世界など、セラにとっては泥水以下の価値すらない。彼が息をしていない空間の空気を吸うことすら、耐え難い苦痛だった。
(許せない)
黒く、冷たい感情の雫が、セラの心の奥底にポツリと落ちた。
(アル様を傷つけた、あの竜が、許せない)
(アル様からカロリーを奪い、痩せ細らせた、この不条理な世界が、許せない)
(そして何より……。アル様がこんなになるまで、何もできなかった『私自身』が、何よりも、許せない)
絶望のどん底。
これ以上落ちる場所のない絶対零度の暗闇の中で、セラの感情は、特異点に達した。
あまりにも純粋で、あまりにも巨大な『悲哀』と『自己嫌悪』は、限界点(閾値)を超えた瞬間、反転する。
それは、純度一〇〇パーセントの『殺意』。
そして、アルフレッドというただ一人の神に向けられた、狂気を孕んだ『狂信』への反転。
【――警告。観測領域内に、異常な精神波長を検知】
音の消えたセラの脳内に、突如として、アイリスのものとは違う、異質なシステム音声が響き渡った。
それは、この世界を管理する法則そのものが、予期せぬエラーに直面して発する、世界の悲鳴だった。
【個体呼称:セラ。精神負荷限界を突破。概念の暴走を確認】
【エラー。論理演算に致命的な矛盾が発生。……特異個体への変異を承認します】
【世界システム(ワールド・ルーチン)より、対象個体へユニークスキル『構造理解の屠殺人』を付与】
その無機質な声と共に、セラの薄藍色の瞳から、光が完全に消え去った。
残されたのは、深海のように暗く、どこまでも冷たく澄み切った、絶対的な静寂。
スキル『構造理解の屠殺人』
それは、戦士の力でも、魔法使いの奇跡でもない。目の前の対象を「生き物」としてではなく、解体すべき「肉塊」として処理するための、システムが産み落とした純粋な殺意のロジック。
直後、セラの身体と視界に、劇的な変化が起きた。
【スキル連動効果:『解剖学の眼』起動】
セラの視界が、反転する。
先程まで圧倒的な恐怖の象徴としてそびえ立っていた三十メートルの赫竜の姿が、ケミカル・アイの解体特化版とも言うべき『解剖学の眼』によって、丸裸にされた。
分厚い赤黒い鱗のテクスチャが透け、その下にある巨大な骨格、脈打つ心臓、複雑に絡み合う筋繊維、主要な動脈と静脈、そして神経の束が、まるで精巧な解剖図(3Dモデル)のように発光して可視化される。
さらに、身体の周囲に展開されていた高密度の生体魔力場の魔力循環までもが、熱源分布のように青白く視覚化されていた。
(……ああ。なんだ。ただの肉と骨の集合体じゃないですか)
セラの感情の抜け落ちた脳髄が、その光景を極めて冷静に処理していく。
どこに刃を入れれば、最も抵抗なく皮が剥げるか。どこを断てば、骨を傷つけずに肉を切り離せるか。
筋肉の収縮、血流の変化、骨格の傾き。『解剖学の眼』は、対象の有機的な動きの予兆を完全に読み取り、赫竜が次にどの部位を、何秒後に、どのような軌道で動かすかを、コンマ一秒の狂いもなくセラの脳内へ予測データとして弾き出していた。
さらに、彼女の肉体そのものにも変化が起きていた。
かつてアルフレッドは、彼女が人生を健やかに過ごせるよう、彼女の筋肉の出力や神経伝達のロスを『メディカル・カクテル』で治療した際に最適化していた。
重い皿をブレずに運ぶための完璧な体幹。ミリ単位で食材を切り刻むための、寸分の狂いもない指先のコントロール。
それはアルフレッドの再構築によってもたらされた、セラ本人も気付いていない身体能力の向上によるものだった。
スキル『構造理解の屠殺人』は、アルフレッドが作り上げたその『完璧に最適化された身体能力』のリミッターを完全に外し、一〇〇パーセントの効率で「戦闘(解体)」へと転用させた。
セラは、ゆっくりと、ふらつく足取りで瓦礫の陰から歩み出た。
右手には、普段から厨房で愛用している、刃渡り十五センチほどの小さな『ペティナイフ』が握られている。魔力など一切纏っていない、ただの鉄の刃だ。
南門広場では、赫竜が地響きを立てながら、倒れ伏したアルフレッドの元へと歩み寄っていた。
その巨大な顎から、飢餓による涎が滴り落ちる。今まさにその肉を喰らおうと顎を開きかけた、その時。
ピタリ、と。
赫竜の巨大な身体が、不自然に動きを止めた。
飢餓によって脳が壊死し、痛覚すら失い、本能のままに暴れ回っていたはずの生態系の頂点が。
アルフレッドの決死の特攻すら意に介さなかった、生きた災害が。
今、自分へと向かってゆっくりと歩いてくる、魔力など微塵も持たない、ちっぽけなメイドの少女から放たれる『何か』に触れ、ビクリと巨大な身体を震わせた。
それは、魔力的な威圧ではない。
物理的な質量から来る恐怖でもない。
ただひたすらに純粋な、相手を「生き物」としてすら見ていない、圧倒的で異常な『解体へのプレッシャー』。
【対象の敵性意識(殺意)を検知。最適解体手順を脳内へダウンロードします】
本能しか残っていないからこそ、赫竜の野生のセンサーが、かつて経験したことのない異常事態を感知し、警鐘を鳴らしたのだ。
理解してしまったのだ。目の前の存在が、自分を「敵」としてではなく、「アルフレッドの欠損を補うための、極上の栄養」として見定めていることを。
ズズッ……。
信じられないことに、生態系の頂点である赤き竜が、ちっぽけな人間の少女を前にして、無意識に一歩、「後ずさり」をした。
セラは、アルフレッドが倒れる血溜まりの数歩手前で立ち止まった。
彼女は、ピクリとも動かない愛する主の惨状を、表情を微塵も変えることなく、ただ静かに見下ろした。
痩せ細り、カロリーを奪われ尽くした、痛々しい肉体。
「……アル様」
セラの口から紡がれたのは、鈴を転がすような、酷く平坦で、感情の一切抜け落ちた声だった。
「アル様は、カロリーが足りなくて、こんなに痩せてしまわれたのですね」
彼女はゆっくりと顔を上げ、眼前にそびえ立つ、三十メートルの巨体――赫竜を見据えた。
「アル様を傷つけた。アル様から、大切なカロリーを奪った。……いえ、違いますね」
セラの光の消えた瞳に映っていたのは、ただの巨大な『肉の塊』
愛する主の欠損を補い、彼を生かすための、極上の「栄養」
「アル様には、圧倒的にカロリーが足りない。……なら」
セラは赫竜の動きの予兆を、『解剖学の眼』で完璧に捉えていた。
(――〇・八秒後。左前脚の鉤爪による、薙ぎ払い)
赫竜が、本能的な死の恐怖を振り払うように、空気を引き裂く咆哮を上げた。
アルフレッドの左半身を炭化させた、あのブレスの熱波を伴った、広場ごと消し飛ぶような質量の蹂躙が、セラへと迫る。
だが、セラは表情一つ変えない。
避けることすら、しなかった。
アルフレッドが最適化した彼女の肉体は、力むことすらなく、ほんの半歩、絶妙な角度で身体をずらしただけだった。
ゴォォォォッ!! と、暴風と熱波がセラの鼻先数ミリを通過していく。
『解剖学の眼』が弾き出した、絶対の死角。
質量が通り過ぎるその完璧なタイミングで、セラは右手ペティナイフを無造作に一閃した。
魔力刃など、必要ない。
【スキル『構造理解の屠殺人』:第一種規定発動。保持する刃物に、対象(有機物)への『絶対的切断力』を付与】
それは、物理法則を無視した概念の書き換えだった。
セラの持つペティナイフが、赫竜の分厚い生体魔力場に触れた瞬間。そして、岩盤よりも硬い赤黒い鱗と、分厚い皮下脂肪に触れた瞬間。
「有機物であるならば、この刃は必ず切断する」という世界のバグ(ルール)が、一切の物理的抵抗を無効化した。
シュパァァァァンッ……!!!
音が、遅れて響いた。
赫竜の振り下ろした丸太のような左前脚が。
アルフレッドの全魔力を込めた刃すら弾き返した、強固なオーラと真皮層が。
まるで、熱したナイフで極上のバターを切り裂くように、いや、空気を撫でるように、一切の抵抗もなく、斜めに『両断』されていた。
「ギ、ギャアァァァァァァァァァァッ!?」
切り離された巨大な腕が、セラのすぐ真横の石畳にドスンドスンと落ち、地響きを立てて転がる。遅れて、切断面から間欠泉のように鮮血が噴き上がった。
有機物の絶対切断。しかし、その異常な概念的負荷に耐えきれず、セラの握るペティナイフの刀身に、ピキッ……と微かな亀裂が走る。
ただの鉄の刃は、いずれこのスキルに耐えきれず砕け散る運命にあった。
だが、セラは刃の悲鳴など意に介さず、返り血を一滴も浴びることなく、ただ静かに、冷たく言い放った。
「暴れないでください。お肉が傷みます」
その時、セラの脳内に、ギリギリの生命維持モードで稼働しているアイリスからの、弱々しい、しかし切実な通信が入り込んだ。
【……セラ、聞こえ……ますか。急いで。……対象の背肉。最も魔力とカロリー密度の高い部位を……。マスターを、助けて……】
システムであるはずのアイリスの声には、明確な「感情」――アルフレッドを喪いたくないという、人間と同じ悲痛な願いが込められていた。
セラは、ペティナイフについた赫竜の脂を、親指で静かに拭い取った。
光の消えた彼女の口元に、三日月のような、酷く冷たく、そして狂おしいほどに美しい微笑みが浮かぶ。
「ええ、アイリス。アル様のために……すべて、極上のミンチにして差し上げます」
神を救うための、最も残酷で、最も純粋な『解体』が、今、幕を開けた。
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