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第三十六話:蜂の一刺し

脳内に響くアイリスの無機質なカウントダウンが、死刑宣告のように冷たく耳の奥を打つ。


百十秒。バーカウンターで極上のカクテルを一杯シェイクし、客に提供するには十分な時間だ。だが、目の前にそびえ立つ生態系の頂点、生きた災害である『赫竜レッドドラゴン』を相手に生き延びるには、あまりにも長すぎる、永遠にも等しい時間だった。


ギャアァァァァァァァァァァァァァッ!!!


狂乱の咆哮が大気を震わせる。飢餓によって脳神経細胞の九割以上が壊死した赫竜の瞳には、一切の理性が宿っていない。己の前に立つちっぽけな人間を「外敵」とすら認識しておらず、ただ自らの飢えを満たすための「カロリー(餌)」として定めていた。


ズンッ! と、南門広場の石畳が大きく跳ねた。


三十メートルを超える巨体が、その質量に似合わぬ速度で跳躍し、俺の頭上から巨大な前脚を叩きつけてきたのだ。


【上方より質量攻撃。対象の右前脚による押し潰し。マスター、前方斜め三十度へ全速力でダイブ。〇・一秒後に着弾します】


「――っ!」


自分の意志を介在させる余裕すらない。アイリスの『戦闘機動支援コンバット・アシスト』による運動野への強制介入に従い、俺は無様なほど全力で前方へ飛び込んだ。


背後で、爆薬でも仕掛けられたかのような轟音が響き渡る。


俺が〇・一秒前まで立っていた石畳は、赫竜の爪によって原型を留めないほど粉砕され、巨大なクレーターと化していた。


吹き飛んだ石の破片が散弾銃のように背中を襲う。


「がはッ……!」


数個の石礫が背中を貫通し、肺と肝臓を掠めた。血を吐きながら地面を転がるが、次の瞬間には背中から爆発的な魔力の光が溢れ出し、千切れた内臓と筋肉が『超速再生』によって一瞬で繋がり、元の状態へと修復される。


(……くそっ、躱しきれなくても、掠っただけで致命傷かよ)


立ち上がりながら、俺はマドラーを握り直す。


赫竜は前脚を振り抜き、そのままの勢いで太い丸太のような尾を横薙ぎに振るってきた。


【警告。左側面より尾の薙ぎ払い。回避不能範囲。直撃コースです】


(なら、最小限の被害で受ける!死なばもろともだ!アイリス!身体の左側面から魔力刃を形成!奴の勢いを利用してその尾を叩き切るッ!!)


【……ん。左半身に魔力刃を形成。右脚側部よりスパイクを形成し衝撃に備えます。……マスター耐えて……】


ドゴォォォォンッ!!


直後、全身の骨が粉々に砕け散るような衝撃が俺の左半身を襲った。


巨大な尾の分厚い鱗が左腕と脇腹に直撃し、スパイクを打った右足を粉々にしながら軽トラックにはねられたような勢いで、俺の身体は宙を舞った。瓦礫の山に叩きつけられ、左腕は奇図な方向に曲がり、右足は完全に粉砕、肋骨は完全に陥没して肺に突き刺さっている。


対する竜の尾は、中程手前まで切断したもののその機能を保って繋がっている。もはや痛みなど感じないのだろう、声をあげることもなく獲物を追う眼を逸らしはしない。


「アルフレッドォォォッ!!」


後方で冒険者の治療にあたっていたガレンの悲痛な叫びが聞こえる。


だが、その声が響き終わる前に、俺の全身は再び眩い光に包まれた。砕けた骨が強引に元の位置へと戻り、潰れた肺が膨らみ、破裂した血管が編み込まれるように再生していく。

肺に空気が戻り、俺はむせ返りながら立ち上がった。


【報告。損傷率四七%。超速再生プロセス完了。……マスター、体内の脂質およびアミノ酸の消費量が危険域に突入しつつあります】


「……分かってる。だが、止まったら一瞬で食われる」


『超速再生』

それは俺自身の体内に蓄えられた栄養素――糖質、脂質、タンパクカロリーを莫大に消費し、細胞分裂を常軌を逸した速度で強制的に引き起こす、命を削るためのシステム。


再生を終えたアルフレッドの身体に、強烈な異変が表れ始めていた。

着ていたベストとシャツが、そしてズボンが、急激にダボダボに緩くなっている。たった数回の致命傷を再生しただけで、アルフレッドの皮下脂肪は完全に燃焼し尽くされ、さらには骨格筋(筋肉)までもがアミノ酸に分解されて細胞再構築の材料として喰い潰され始めていた。


「フザけるな! 化け物め、俺の炎熱で――『ファイアアロー』!!」


俺が防戦一方になっているのを見かねたガレンが、後方から彼が放てる最大火力の中級魔術を撃ち放った。


空気を焦がす巨大な火矢が、赫竜の頭部へと真っ直ぐに飛んでいく。


だが。


ボワァァァッ……。


赫竜の顔面に到達する直前、巨大な火球は目に見えない壁――身体の周囲に展開された高密度の『常時生体魔力場オーラ』に衝突し、まるで強風に吹かれた蝋燭の火のように、呆気なく霧散してしまった。


【警告。個体名ガレンの使用可能魔法では『赫竜』に有効打を与えることはできません。対象の魔力耐性は依然として九九%を維持しています】


「ガレン! 魔法は無駄だ! 治療に専念しろ!」


俺は叫びながら、再びアイリスの誘導に従って走り出した。


「クソッ……! ならどうすりゃいい! アルフレッド、お前もただ躱して再生してるだけじゃねえか!!」


ガレンの焦燥に満ちた声が響く。

彼の言う通りだ。俺の魔力刃は、最長に伸ばしても赫竜の分厚い皮下脂肪に阻まれ、主要な神経や血管に届かない。圧倒的な質量の前に、俺はただ己のカロリーを切り売りして時間を稼ぐことしかできなかった。


ギャアァァァァァァッ!!


赫竜が苛立ちを露わにし、巨大な顎を大きく開いた。


口腔の奥で、膨大な熱量と魔力が圧縮されていくのが、ケミカル・アイの視界を通してはっきりと見えた。


【警告! 対象の口腔内に極大熱量反応。ブレスが来ます。射線軸上の温度、推定三千度オーバー。直撃すれば灰も残りません。右方の石壁の裏へ退避!】


アイリスがいつもの冷静さを崩して強い指示を飛ばす。


「――ッ!」


俺は全力で右へ飛び、半壊した石壁の裏へ滑り込んだ。


直後、視界が真っ白に染まった。

轟音すら聞こえない。圧倒的な熱の奔流が南門広場を薙ぎ払い、俺が隠れた石壁ごと、周囲のすべてをドロドロの溶岩へと変えていく。


「あぁぁっ……!」


石壁の裏に隠れたとはいえ、防ぎきれなかった熱波の余波だけで、俺の右半身の皮膚が瞬時に炭化し、剥がれ落ちた。右目も熱で焼かれ、視界が半分暗転する。


激痛に意識が飛びかけるが、すぐさま超速再生が発動し、焼けた肉と眼球を強制的に作り直す。


【超速再生、完了。……警告。マスターの体内リソース(カロリー)残量、一一%。自己分解オートファジーの限界点に接近しています。残り生存可能時間、約四十秒】


再生を終えたアルフレッドは、ついに膝をついた。


息が、異常なほど浅く、速い。

心臓が破裂しそうなほど早鐘を打ち、全身の筋肉が内側から千切れるような激痛を訴えている。細胞を修復するための材料が尽きかけ、身体が「これ以上筋肉や内臓を分解すれば死ぬ」と悲鳴を上げているのだ。


頬は病人のようにこけ、目は落ち窪み、かつてのしなやかな肉体は、今やすっかり痩せ細ったミイラのような有様になっていた。


飢えに狂う赫竜の前に、同じく自らの肉体を喰い潰す自家中毒に陥った俺が這いつくばっている。なんという皮肉な対比だろうか。


(……カロリーが、足りない。あと四十秒でこいつを倒すなんて不可能だ)


強烈な低血糖で脳に靄がかかり、思考がまとまらない。


だが、視線の先、崩れた瓦礫の向こうには、俺が時間を稼がなければ食い殺される領民たちがいる。猟師の看病をしているセラがいる。


「……アイリス」


俺はマドラーを震える手で握り直し、ゆっくりと立ち上がった。


「あいつの……急所を、もう一度出せ。一番、装甲が薄くて、脳幹に近い場所。そしてそこに到達するのに必要な刃渡りを演算しろ」


【……ん。演算。対象の装甲が最も薄弱なのは、眼球および外耳道(耳の穴)。脳幹まで到達するのに必要な刃渡りは約三メートル、しかしその為には、対象の頭部へマスターが肉薄する必要があります。現在のマスターの運動能力では、接近前に迎撃される確率が九九・九%です】


「一発だけ。俺の魔力の残量をすべて、マドラーの魔力刃の『延長』に回す。刃渡り三メートルだ。突き立てたら魔力回路をカクテル・シェイクでショートさせる。迎撃される瞬間に、相打ち覚悟で脳幹にねじ込むさ。脳幹にダメージを与えられたら儲けもん。ダメでも魔力回路だけはぶち壊してやる。そしたらこいつはまともに動けなくなる。街のみんなでも対処できるはずだ」


【警告。魔力刃を三メートルまで延長し、刺突ルートを逸れ、対象の骨格に接触した場合、反動でマスターの右腕は肩から完全に粉砕されます。現在のカロリー残量では、その規模の欠損を再生することは不可能です】


アイリスが光を伴って実体化し心配そうな顔でマドラーを持つ手を握ってきた。


「ごめんな、アイリス。やってくれ。俺が時間を稼がなきゃ、奴をどうにかしなきゃ、セラたちが、あいつらが死ぬんだ……そんな胸糞悪いことは起きてもらっちゃ困るんだ」


俺はアイリスの頭を撫でながら決意を露にした。それを受け取ったアイリスは、わずかな沈黙の後、静かに応えた。


「……ん。……承認。全魔力リソースをマドラーへ集中。刃渡り三メートルの超高密度魔力刃を形成します。」


俺の右手に握られたマドラーにアイリスが小さな手を翳し、かつてないほど巨大で、眩い青白い光の刃を伸ばした。


「……マスター、気をつけて」


そう言ってアイリスは光となってアルフレッドに戻った。


「ありがとうな、アイリス」


アイリスが作った魔力刃にもはやマドラーの原型はなく、それは一本の長大な光の槍のようだった。


「おおおおおおおぉぉぉッ!!」


俺は枯渇した身体に鞭を打ち、血を吐きながら赫竜の正面へと走り出した。


赫竜もまた、餌が向かってくるのを見て、巨大な顎をヨダレで濡らしながら、丸太のような右前脚の鉤爪を高く振り上げた。


(こいつだって腹減ってるってのになんでこんなに動けるんだ……)


【残り十秒。……対象の鉤爪、振り下ろしまで〇・八秒】


(セラ……フェリシア……本当にすまない)


【マスター、回避行動を放棄。そのまま直進。〇・四秒後、対象の外耳道へ魔力刃の刺突を】


(あぁ……もっとうまい飯が食いたかった……セラの……フェリシアの喜ぶ顔が……)


躱せない。

いや、躱さない。


肉を切らせて骨を断つ、最後にして唯一の特攻。


俺は赫竜の振り下ろされる鉤爪の軌道へ自ら飛び込み、同時に、右手の長大な魔力刃を、赫竜の顔面の横、わずかな隙間である『耳』の穴へと向けて全力で突き出した。


「貫けェェェェェッ!!」


ズドォォォォォンッ!!!


二つの激突音が、完全に重なった。

俺の三メートルの魔力刃が、赫竜の外耳道へ吸い込まれるように突き刺さる。




ガキィィィィィンッ……!!




しかし刃が、脳髄へ到達する直前。赫竜の振り下ろした鉤爪の風圧にすらアルフレッドの身体は耐えられなかった。刺突ルートは外れ異常発達した硬質な頭蓋骨と、狂乱によって極限まで圧縮された生体魔力場の壁に阻まれ、光の刃がピキピキと音を立ててひび割れた。


【警告。ルート逸脱。対象頭蓋に対する貫通力不足。魔力刃、破断します】


パァンッ!! という甲高い音と共に、俺の全魔力を込めた刃が砕け散る。


それと同時に、強烈な反発力が俺の右腕を襲い、肩の関節が爆けるように外れ、腕の骨が皮膚を突き破って粉々に砕け散った。


「がぁぁぁッ……!!」


急所への一撃は失敗した。

そして、無防備になったアルフレッドの身体に、赫竜の巨大な鉤爪のフルスイングが、容赦なく直撃した。


メチャァッ……!!


嫌な、そして絶望的な音が響いた。

躱すことも、防ぐこともできなかった。赫竜の爪は、アルフレッドの右半身――右肩から脇腹にかけての肉を大きく抉り取り、肺と肝臓を完全に粉砕した。


大量の鮮血が、南門広場に花火のように撒き散らされる。


アルフレッドの身体は、ラグドールのように力なく宙を舞い、十五メートルほど後方の瓦礫の山へと、ボロ雑巾のように叩きつけられた。


【……警告。マスターのバイタルサイン、急低下】


【体組織変換用カロリー……0%】

【超速再生システム……完全停止。これ以上の生命維持は、不可能です】

アイリスのシステム音声が、途切れ途切れに遠ざかっていく。

瓦礫の山に倒れ伏した俺の周囲に、凄まじい勢いで血の海が広がっていく。

右半身は完全に原型を留めておらず、呼吸をすることすらできない。視界が急速に黒く塗りつぶされ、全身の感覚が冷たい水の中に沈んでいくように消えていった。


「アルフレッドォォォォォッ!!」


ガレンの、血を吐くような絶叫が聞こえる。

彼が杖を握りしめ、こちらへ向かって走ろうとするのが見えたが、赫竜が苛立たしげに吐き出した熱波の余波に阻まれ、それ以上近づくことができない。


ズズッ……ズズゥンッ。


地響きを立てて、赫竜が倒れ伏した俺の元へと歩み寄ってくる。


その落ち窪んだ瞳には、勝利の歓喜も敵意もない。ただ、「ようやく目の前のカロリー(餌)を食える」という純粋な食欲だけが、涎となってその顎から滴り落ちていた。


(……すまない、セラ……フェリシア……うまくやれなかったみたいだ……)


俺の意識は、赫竜の巨大な顎が目前に迫るのを見つめながら、ついに完全な暗闇へと落ちていった。


俺の血溜まりが、静かに、ただ静かに石畳を赤く染め上げていた。


アルフレッドくん…

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