第三十五話:強さ故に
保身に走る無能な代官に見切りをつけた俺たちは、ただちに街の北端に位置する男爵邸から、悲鳴が上がる南の『門』へと向かって駆け出した。
男爵領のメインストリートを南下していく。
普段なら活気に満ちているはずの商店街や、俺たちの城である『バッカス亭』が建つ中央の区画は、すでに異常な暴風によって屋台がひっくり返り、もぬけの殻となっていた。
上空を覆い尽くす巨大な翼の影が、太陽の光を完全に遮り、真昼の街を不気味な夕闇へと変えている。
ヒュオォォォォォォ……ッ!!
空気を切り裂くような風切り音と共に、強烈な鉄錆と、内臓が腐ったような酷い獣の悪臭が鼻腔を突いた。
「ハァッ、ハァッ……アル坊、ガレン! 前だ!!」
大剣ならぬ巨大な薪割り斧を担いだバッカスさんが、前方を指差して叫ぶ。
商店街を抜け、南の民家群へと差し掛かったところで、俺たちはその凄惨な光景を目の当たりにした。
南門はすでに半壊していた。砕け散った石壁の向こう側から、まるで溢れ出す黒い泥流のように、狂乱した大型魔獣『グレイトボア』の群れが押し寄せてきている。
そして、その群れすらも紙屑のように踏み潰し、南門の広場に『それ』が降り立った。
ズズゥゥンッ!!
着地の圧倒的な質量衝撃だけで、周囲の民家の窓ガラスが一斉に弾け飛ぶ。
体長は優に三十メートルを超えるだろうか。溶岩が冷え固まったような赤黒く分厚い鱗。空気を焼き焦がすほどの異常な熱量を放つ巨体。
伝承の中でしか語られない生態系の頂点、生きた災害――『赫竜』。
「嘘だろ……なんであんな化け物が……ッ」
門で防衛にあたっていた中〜低ランクの冒険者たちが、あまりの絶望に武器を取り落とし、次々と腰を抜かしていく。
その光景を前に、俺の脳内に冷たく無機質な声が響き渡った。
【……警告。目標、個体呼称『赫竜』。生体反応に著しい異常を検知しました】
「……異常?アイリス。あいつの身体で何が起きてる」
【解答。網膜へバイタルデータを投影。……対象は、本来の休眠サイクルを逸脱し、およそ二百年以上眠り続けていたと推測されます。体内の備蓄カロリーを完全に喪失。己の筋肉と内臓組織を分解し、強制的に生命維持を図った結果……血中のアンモニア濃度が致死量の五百倍を突破】
「身体が強すぎるが故に、それでも死ねないのか……」
投影されたデータを見て、俺は着ていた上着越しに、背筋へ冷たい汗が伝うのを感じた。
巨体でありながら、よく見れば鱗の下の肋骨が浮き出ている。その落ち窪んだ眼窩の奥にある瞳には、竜としての知性も誇りもない。
【……深刻な代謝異常(自家中毒)により、対象の脳神経細胞は98%が壊死。現在の対象を動かしているのは、純粋にして極限の『飢餓(カロリーへの渇望)』のみです】
「最悪だな。知性のない巨大な生体兵器か。……アイリス、現状での討伐、もしくは最も生存確率の高い手段を計算しろ」
俺の問いに、システムは一瞬の沈黙を挟み、冷酷な演算結果を告げた。
【報告。生存戦略の最適解を演算。対象の無力化(討伐)確率、0.0001%以下。現在戦力での防衛線維持限界……推定七分二十秒。マスターの生存を最優先とする場合、即時の単独逃亡を推奨します】
「却下だ。全員が生き残るための手立てを計算しろ」
【……ん。演算再開…報告。現時点での生存確率の最も高い手段は個体バッカスによる領兵の北側防衛線構築。個体ガレンによる負傷者の救命および後方支援。マスターによる対象のヘイト管理および遅滞戦闘を行い、目標の補食を防ぎきった場合、全てのリソースを使いきり、沈黙するまで二十六分三十秒。この分業における全体の生存確率は0.1429%まで上昇。ただし、マスターの生存限界時間は、五分を完全に下回ります。】
「クソッ!……何をしたって、五分程度しか持たないのか……しかし……」
五分。
俺が死ぬまでの、絶対的なタイムリミット。
その絶望的な数字を聞いても、俺の足は後ろへは向かなかった。
ふと、南の民家群の一角に視線を向ける。半壊した建物の陰から、血まみれの猟師のバイタルを診ていたセラが、不安げに顔を出していた。
距離にして二十メートルほど。轟音と悲鳴が入り交じる中、声は届かない。
だが、視線が交差した。
『どうか、生きて』と懇願するような、彼女の薄藍色の瞳。
俺は一度だけ力強く頷き、心の中で呟いた。
(俺が守る。……たった五分でも、俺が時間を稼げば生き残る道は一筋でも繋がる……)
セラが唇を噛み締め、猟師を庇うように建物の奥へと引っ込むのを確認し、俺は隣の二人に素早く指示を飛ばした。
「バッカスさん! 今すぐ街中の領兵と自警団に声をかけて、あの民家群より北へ防衛線を敷かせてください! 昔からこの街にいて、顔の広いバッカスさんにしか頼めない!」
「アル坊……ッ、分かった! 死ぬなよ!!」
バッカスさんが重い斧を握り直し、北へ向かって走り出す。
「ガレン! あんたは門前で倒れてる冒険者たちの治療と後方支援を頼む!」
「ふざけるなアルフレッド! 俺はヒーラーだが戦えるぞ!俺の火魔法で、あの鱗ごと焼き尽くして――」
【警告。個体名ガレンの使用可能魔法では『赫竜』に有効打を与えることはできません】
「ダメだ!」
俺はガレンの言葉を強い口調で遮った。
「アイリスの演算が出てる! あの巨体が羽だけで空を飛べるのは、身体の周囲に凄まじい密度の『常時生体魔力場』を展開して物理法則を捻じ曲げているからだ! ドラゴンの魔法耐性に加え、あんたの中級魔術じゃ減衰して有効打にはならない!」
「なっ……! じゃあどうする気だ! お前みたいな戦闘技能のない素人が、あんな質量にどうやって一人で立ち向かう!!」
「お前が身をもって体験しただろう?」
俺はベストのポケットから、使い慣れた銀色のマドラーを静かに引き抜いた。
かつてガレンと対峙した際、彼の魔力回路を強制的に遮断した、あの時と同じように。
「俺には俺のやり方がある」
俺はマドラーを右手でくるりと回し、一人、赤竜の正面へと歩み出た。
【システム・オンライン。戦闘機動支援を開始。マスターの運動野へ強制介入します。全動作の最適化、完了】
(頼むぜ、相棒)
ギャアァァァァァァァァァァァァァッ!!!
脳髄を直接揺らすような咆哮と共に、赤竜の巨大な尻尾が、周囲の瓦礫を巻き込みながら俺の胴体を真っ二つにしようと薙ぎ払われた。
【右斜め前方へ十五度ロール。直後、姿勢を極限まで低くして前進。〇・二秒後、頭上を熱波と質量が通過します】
「――っ!」
アイリスの冷徹な声の通り、俺は自分の意志ではなく「強制的な神経反射」によって身体を動かした。
ゴォォォォッ!!
頭のほんの数センチ上を、死の質量が通り過ぎていく。凄まじい風圧でベストが千切れそうになるが、アイリスの完璧な空間把握と軌道計算により、俺は無傷のまま竜の巨大な右前脚の懐へと潜り込んだ。
(まずは動きを止める! あの巨体で街中を暴れられれば、被害が広がる一方だ。運動神経を完全に遮断してやる!)
【対象の右前脚、大腿部尺骨神経へ到達。最適刺突角度、斜め四十五度】
「沈めッ!!」
俺はマドラーを竜の分厚い皮の隙間に突き立て、『暴飲暴食の聖域』の攻撃的応用を発動させた。
【神経髄鞘剥離】。
対象の運動神経を覆う絶縁体(ミエリン鞘)を魔力で強制的に剥ぎ取り、神経伝達をショートさせる。いかなる生物であろうと、等しく一撃で行動不能に陥るはずの恐るべき一撃。
バチィィィィンッ!!!
だが、俺の手首に返ってきたのは、硬い岩盤を叩いたような強烈な反発力だった。
「なっ……!」
【警告。経皮的な魔力干渉、弾かれました。対象の生体魔力場および硬質化した真皮層により、術式が内部へ浸透しません】
(くそっ、外側からの神経破壊が通らないなら、粘膜からの直接投与だ! 呼吸器と筋肉を強制弛緩させる!)
【左後方へバックステップ。直後、対象の顎による噛み砕きが来ます】
轟音と共に俺の立っていた石畳が竜の顎に抉り取られる。その瞬間、飛び散った竜の唾液とアンモニア臭が混ざる口腔の粘膜へ向けて、直接魔力毒素を放った。
【強制筋弛緩】。
しかし、竜は動きを鈍らせるどころか、さらに狂暴に首を振り回した。
【無効化されました。対象の血中アンモニア濃度と代謝異常が劇薬として作用し、投与した魔力毒素を即座に中和・分解しています】
「……物理的な装甲に魔法耐性、おまけに内部の毒も効かないバグ仕様かよ」
冷や汗が頬を伝う。
神経作用系の技がすべて弾かれる。ならば、
残された手段は一つしかない。
(魔力回路を遮断するにはまず物理的に「切る」しかない……!)
「アイリス、マドラーに『魔力刃』を形成!」
【……ん。承認。マドラー先端部に超高密度の魔力断層を形成します。対象の真皮層を突破可能】
青白い光の刃が、マドラーの先端から五十センチほど伸びた。
【マスター、右側面から鉤爪の薙ぎ払い。姿勢を維持したまま、対象の関節内側、装甲の最も薄い隙間へ斬撃を】
竜の鉤爪が凄まじい風圧を伴い振り下ろされる。俺はアイリスの誘導に従い、死の舞踏のような回避行動を取りながら、竜の右前脚の関節の隙間へ魔力刃を深々と叩き込んだ。
「通れッ!!」
ズバァァァァァァンッ!!
関節の間から鮮血が噴き上がった。
分厚い皮を裂き、赤い血しぶきが雨のように降り注ぐ。
「いける……! アルフレッドの攻撃が効いてるぞ!!」
後方で冒険者たちの治療にあたっていたガレンが、希望の声を張り上げる。その声に、逃げ惑っていた領民たちも微かな希望の光を瞳に宿した。
だが――。
当の俺は、血の雨を浴びながら荒い息を吐き、奥歯を強く噛み締めていた。
【警告。切断深度が圧倒的に不足しています。同一箇所を削ぐように複数回切りつける必要が有ります。】
「分かってる……ッ!」
更に振られる竜の尾を躱しながら短く息を吐いた。見た目は派手に血が出ている。だが、刃口から伝わる感触は絶望的なものだった。
刃渡り五十センチ程度の魔力刃による一太刀では、竜の分厚い真皮層と、その下にある分厚い『皮下脂肪層』を切り裂くのが限界なのだ。肝心の筋繊維、腱、そして主要血管まで全く届いていない。巨象の表面をペティナイフで切りつけているようなものだ。
(クソッ……!アイリス!刃渡りを二メートルまで伸ばす!)
【推奨しません。魔力刃を延長すれば、密度と強度が著しく低下します。対象の生体魔力場と硬質筋肉に接触した瞬間、刃が破断し、反動でマスターの右腕が破壊されます】
伸ばせば折れる。
短く強固に保てば、脂肪層に阻まれ、致命傷にはならない。
何よりも絶望的なのは、この絶対的な「火力の差」だった。
【警告。左へ緊急回避。ブレスが来ます】
「くっ……!」
ドゴォォォォォンッ!!
竜の口からまるで火炎放射か、それともレーザーか、といった莫大な熱量が吐き出され、俺の真横の石畳をドロドロのガラス状に融解させる。アイリスの計算通りの回避行動をとっても、その余波の熱だけで、俺の上着の左半身と、左腕の皮膚が瞬時に炭化し、吹き飛んだ。
「がぁッ!!……」
「アルフレッドォォォッ!!」
後ろからガレンの悲痛な叫びが聞こえる。
だが、次の瞬間、俺の肩口から爆発的な魔力の光が溢れ出し、失われたはずの左腕の骨、血管、筋肉、皮膚が「たった一秒」で完全に再構築された。
「そうか奴には超速再生がある……!」
何事も無かったかのように立つアルフレッドの後ろ姿に、ガレンは安堵の声を漏らした。
『超速再生』確かにガレンとの戦いでも幾度となくこの身を救ったアルフレッドの奥の手である。だが、これは無から有を生み出す魔法ではない。俺自身の体内の栄養素を莫大に消費して細胞を強制分裂させる、命を削るシステムだ。
俺は再生したばかりの左手で顔の汗を拭い、荒れ狂う竜の巨体を見上げた。
(ガレンの魔法なんてこれに比べりゃ、ドライヤーの熱風に感じられるな……)
アイリスの完璧な回避誘導があっても、あの規格外の巨体の暴力を完全に躱しきることは不可能。再生を繰り返すたびに、俺の体内から急激に熱とエネルギーが奪われていくのが分かる。
有効打がないのに、こっちの回避と再生のコストばかりが嵩んで行き、強烈な疲労感と、空腹感が内臓を内側から掴み上げるように痛む。
物理的な刃の限界と、己の命の残量を計算し、俺は血まみれの口元を歪めた。
「……これは、まずいな」
【報告。マスターの生存可能時間を修正、残り約百十秒】
その呟きは、誰に届くこともなく、赫竜の咆哮と焦げた風の音に掻き消されていった。
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