第三十四話:マニュアル
ズズン……ッ。
足元の石畳を、いや、大気そのものを震わせるような重く低い地鳴り。
何十キロも離れた山奥から届いた、規格外の巨大生物の『咆哮』の余波。
その不気味な振動がバッカス亭のオールド・オークのカウンターを軋ませた直後だった。
「――っ! たすけて、誰かたすけてくれぇぇぇッ!!」
薄い朝靄が残る街の入り口、つまり門の方向から、空気を切り裂くような悲痛な叫び声が上がった。
ただ事ではない。俺が反射的に店を飛び出すと、ほぼ同時に隣の診療所の扉が乱暴に開き、血相を変えたガレンが飛び出してきた。
「今のは門の方からだ! 行くぞアルフレッド!」
俺とガレンが石畳を蹴って駆け出すと、前方から一人の男が転がるように走ってくるのが見えた。
つい昨日、卒業試験の獲物だと言って極上のヤマシギを持ち込んできた、あの新米猟師だった。だが、誇らしげだった彼の顔は恐怖と絶望に歪み、全身は泥と酷い擦り傷に塗れている。
そして彼の背中には、血だるまになった熟練猟師が力なく背負われていた。
「おい、どうした! 何があった!」
「ガ、ガレン先生! 先生ぇっ! 師匠が、師匠が俺を庇って……ッ!」
新米猟師が泣き叫びながら膝から崩れ落ちる。
石畳に横たえられた熟練猟師の姿に、俺は息を呑んだ。腹部から脇腹にかけて、鋭い刃物でえぐられたような巨大な裂傷。内臓がこぼれ落ちるのを、新米猟師が着ていた革鎧を縛り付けて必死に押さえている状態だった。
「退け! 今すぐ診る!」
ガレンが即座に熟練猟師の側に膝をつき、両手を患部にかざす。
『ハイヒール』
熟練した元闇医者の両手から眩い魔法の光が放たれ、ちぎれた筋肉や血管が強制的に繋がり、肉が再生していく。数秒で致命的な外傷は完全に塞がった。
だが、ガレンの顔色は険しいままだ。
「……傷は塞いだが、ダメだ。血を流しすぎた。脈が弱すぎる」
どれほど優れた魔法で細胞を繋ぎ合わせても、物理的に失われた血液までは魔法で無から生み出すことはできない。唇は土気色に変色し、このままでは間違いなく失血性ショックで命を落とす。
「新米、お前らをやったのは一体なんなんだ!」
ガレンの問いに、新米猟師はガタガタと震えながら首を横に振った。
「俺たちをやったのは、山の奥にしかいないはずの『グレイトボア』の群れです! 魔獣どもが、狂ったみたいに麓の森へ押し寄せてきてるんです!」
「グレイトボアだと? あの巨体の猪が群れで下りてきたってのか!?」
「ええ… 魔獣どもだけじゃない……空が、燃えていたんです。生態系の頂点であるはずの山の主が……竜が…まるで何かに飢えて狂ったように、山の魔獣を手当たり次第に喰い荒らして暴れてる……ッ! 魔獣どもは、あれから逃げてきたんだ!」
生態系の頂点に君臨する竜の、異常な狂乱。
何が原因かは分からない。だが、山というテリトリーから溢れ出した魔獣の波は、間違いなくこの街へ到達する。
いや、いずれはその後ろから、狂乱した竜そのものが餌を求めて下りてくる。
「……ガレン、師匠さんの血圧と心拍は俺がどうにかします。少し待っててください!」
俺は踵を返し、バッカス亭の厨房へ全力で駆け戻った。
失われた血液を補うには、造血機能を極限まで活性化させるしかない。俺は魔法冷蔵庫を開け、昨日のヤマシギを調理した際に余ったレバーをまな板に叩きつけた。
ジビエの王様であるヤマシギのレバー。そこには、豚や牛の比ではないほどの極めて濃密な鉄分、ビタミンB12、そして葉酸が凝縮されている。
俺は牛刀の腹でレバーを徹底的にすり潰し、小鍋に移すと、そこに右手をかざした。
「アイリス! 『暴飲暴食の聖域』! このレバーから造血に必要な栄養素を極限まで抽出・濃縮。不純物を分解し、即効性舌下投薬型の特濃増血剤を生成してくれ!」
『……ん。承認。対象の成分構造を再構築。鉄結合性タンパク質及びビタミン群の吸収効率を最大化。魔力変換による造血アクセラレーターを追加します。……ん』
小鍋の中のレバーペーストが淡い光に包まれ、瞬く間に赤黒く澄んだ少量の液体へと変化した。ただの食材が、俺の魔力とアイリスの演算によって、世界に二つとない極上の「命の薬」へと昇華された瞬間だ。
俺はそれを小瓶に詰め、厨房の入り口で不安げに待機していたセラに押し付けた。
「セラ、これを! 外傷はガレンが治した。これを全て舌下、舌の裏側に垂らすんだ!俺は少々行くところが出来た。」
「アル様、これは……」
「即効性の舌下投薬型増血剤だ。舌下に投薬すれば確実に血液を増やすことが出来る!お前はガレンのナースだっただろ。バイタル管理は任せる、やれるな?」
俺の悲壮な覚悟を読み取ったセラは、手渡された小瓶を胸に抱きしめ、深く、重々しく頷いた。
「……承知いたしました。皆様の命、そしてこのお店は、私が必ずお守りします。……どうか、ご無事で」
「ああ、すぐ戻る」
俺が再び表に出ると、街の入り口の門では既に怒号と剣戟の音が響いていた。
男爵領に滞在していた中〜低ランクの冒険者たちが、急造のバリケードを組んで必死に防衛線を張っている。しかし相手は、装甲車のような体躯を持つグレイトボアの群れだ。しかも極限の恐怖で狂乱状態にある魔獣の突進を、普段はゴブリンや鹿を狩っている程度の冒険者たちで抑えきれるはずがない。
ジリジリと防衛線が後退し、門が破られるのは時間の問題だった。
「ガレン!バッカスさん! 行くぞ! こんな少人数じゃどうにもならない。今すぐ領兵を動かして、伯爵領に援軍を求めなきゃ全滅だ!」
「一体代官は何をしている?、領兵はなぜ来ない!」
「ここでキレてても仕方ねえ!行くぞガレン!」
斧を持ち出してきたバッカスさんが怒るガレンを宥め、俺たち三人はパニックに陥り始めた街を抜け、男爵邸の執務室へと強引に突入した。
「なんだ貴様らは! 誰の許可を得て入ってきた!!」
執務室の奥の分厚いマホガニーのデスク。
そこに座っていたのは、ロズウェル男爵の留守を預かる『代官(文官)』だった。
窓の外から領民の悲鳴が聞こえ始めているというのに、彼は高価な茶器を手に、優雅にダージリンの香りを嗜んでいた。
突然の無礼な侵入に、彼は汚いものでも見るかのように露骨に顔をしかめた。
「代官! 今すぐ『全領民の非常事態宣言』を出し、領兵をすべて門へ回せ! それからフォンテーヌ伯爵領へ援軍の早馬を! 山の魔獣がスタンピードを起こして街へ雪崩れ込んできている!」
ガレンがデスクに両手をつき、血走った目で直訴する。
しかし、代官は完全に鼻で笑った。
「馬鹿馬鹿しい。山火事か何かに驚いた魔獣が数匹下りてきただけであろう? その程度、門にいる冒険者どもと自警団で始末させろ」
「数匹じゃねえ、群れだ! しかもその後ろには、狂乱したドラゴンの影があるんだよ!!」
「元闇医者風情が何を宣う!ドラゴンだと? はっ、御伽噺の読みすぎではないか?」
代官は小馬鹿にしたように肩をすくめ、ティーカップをことりと置いた。
「いいか、非常事態宣言を出せば、街の経済活動はすべて停止する。他領への早馬? 冗談ではない。男爵様の正式な許可もなしに他領へ頭を下げるような真似をしてみろ。私の経歴に消えない傷がつくではないか!」
「てめぇ……! 領民の命より、自分の保身と書類のハンコが大事だってのか!!」
激昂したガレンが、代官の胸ぐらを掴もうとデスクを乗り越えかける。
「やめろガレン! 今こいつを殴っても事態は好転しねえ!」
バッカスさんが背後から必死にガレンを羽交い締めにして止める。
「ええい、衛兵! この無礼な平民どもを叩き出せ!!」
代官のヒステリックな叫びと共に、執務室の扉から武装した警備兵たちが雪崩れ込んできた。槍の穂先を突きつけられ、俺たちは男爵邸の廊下へと無情に放り出された。
「クソッ! 頼るべき公権力が完全に腐ってやがる……!!」
ガレンが石畳を思い切り蹴り上げる。
マニュアルと保身に縛られた、救いようのない官僚主義の壁。
非常事態において、無能な指揮官は災害そのものよりもタチが悪い。このままでは、援軍が来る前に街の防衛線が崩壊し、避難も完了しないまま領民が魔獣の餌食になる。
「……仕方ない。俺たちだけで時間を稼ぐしかないですね」
俺はポケットから、使い慣れたマドラーを静かに引き抜いた。
俺にとって唯一の「武器」。魔力を通し、『メディカル・カクテル』の攻撃的応用で立ち向かう。
そう覚悟を決め、防衛線が張られている門の方角へ向き直った、その時だった。
ヒュオォォォォォォ…………ッ!!
突如として、生温かく、強烈な鉄錆の匂いを孕んだ暴風が吹き荒れた。
建物の屋根瓦が吹き飛び、街路樹が悲鳴を上げて折れ曲がる。
そして――真昼の明るい太陽が、唐突に「巨大な翼の影」に覆い尽くされ、街全体が夜のように暗く沈んだ。
「クソ……もう来やがった…」
バッカスさんが、手にした斧を取り落としそうになりながら、空を見上げて絶望の声を漏らす。
門で魔獣と戦っていた冒険者たちも、逃げ惑っていた領民たちも、全員が動きを止め、恐怖に縫い付けられたように上空を見上げた。
俺たちの頭上。
そこには、空を覆い尽くすほどの規格外の巨体と、血のように赤黒い鱗を持った『真なる絶望』が、爛々と光る狂気と飢餓の瞳で、この脆弱な街を見下ろしていた。
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