第三十三話:覚悟と躊躇い
新米猟師の門出を祝う、極上のヤマシギと本山葵の試食会。
店内は、命への敬意と、未だかつて味わったことのない美味に対する称賛の熱気に包まれていた。バッカス亭のオールド・オークのカウンターに、人々の温かな笑い声が染み込んでいく。
――その穏やかな日常の空気は、唐突に、そして暴力的に引き裂かれた。
バンッ!!
蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで、店の重厚な扉が開け放たれた。
「アルフレッド殿! いるか!!」
店内に飛び込んできたのは、血相を変え、肩で息をするロズウェル男爵だった。その後ろには、鋭い視線を周囲に走らせる近衛騎士団長、エドワードの姿がある。
普段、貴族としての威厳と余裕を崩さない男爵の額には、びっしりと冷や汗が浮かんでいた。
「お父様……? それにエドワードも。いかがなされました、そのようなお急ぎで」
フェリシアが驚いて立ち上がる。
男爵は娘の無事を確認して一瞬だけ安堵の表情を見せたが、すぐに懐から一枚の分厚い羊皮紙を取り出し、カウンターに叩きつけるように置いた。
そこには、王家の紋章が深く刻まれた、禍々しいほどの赤蝋が押されている。
「……王都からの、至急の召喚状だ」
男爵の絞り出すような声に、店内の空気が一瞬にして凍りついた。
「召喚状、ですか。男爵様が王都へ?」
俺が口元をナプキンで拭いながら尋ねると、男爵は苦渋に満ちた顔で首を横に振った。
「私だけではない。……フォンテーヌ伯爵領での疫病騒ぎ。アルフレッド殿らが終息させたあの『奇跡』が、どうやら王宮の耳に入ったらしいのだ」
その言葉の意味を理解し、俺は小さく息を呑んだ。
ペニシリンという特効薬の精製。そして、噴水を利用してそれを広域散布した未知の技術。
ガレンの協力と俺の『暴飲暴食の聖域』が生み出したアレは、この世界の医療水準からすれば、まさに神の御業に等しい。
「……詳細な報告と、おそらくは……我が領に対する政治的牽制のための呼び出しだ。王都の特級魔術師や、国王陛下を支える高位貴族たちが『奇跡の術者』の噂を嗅ぎつけ、我が男爵領に強引な査察団、あるいは徴用部隊を送り込もうとしているという情報も入っている」
「なるほど……。治癒魔法や神官魔法では治せない病を根絶したとなれば、権力者たちが黙っているはずがありませんね」
「ああ。もしアルフレッド殿の存在が王都の連中に知られれば、どうなるか。……王族や高位貴族の延命のために、一生城の地下に幽閉されてこき使われるか、あるいは敵対派閥の手に渡るのを恐れて暗殺されるか。どちらにせよ、まともな未来はない」
男爵の言葉は、大げさでもなんでもない、貴族社会の冷酷な現実だった。
「厄介ですね。……いっそ、夜逃げでもしましょうか? 俺とセラ、それにバッカスさんたちがいれば、隣国へ抜けるくらいは造作もない」
俺が少しだけ冗談めかして言うと、エドワード騎士団長が一歩前に出た。
「アルフレッド殿。もしあなた方が姿を消せば、王都の査察団は『我が男爵領が国家の財産(奇跡の術者)を隠匿し、反逆を企てている』と判断するでしょう。……最悪の場合、この領地ごと火の海に沈められます」
「っ……」
俺の行動一つが、もはや数万人規模の命を左右する事態になっている。
その重圧に、俺がわずかに眉をひそめた、その時だった。
「アルフレッド様が王都の貴族に知られれば、間違いなく権力の道具にされてしまいます。……そんなこと、私が絶対に許しません」
凛とした、しかし空間を支配するような圧倒的な気迫を伴った声が響いた。
フェリシアだ。
彼女は俺の前に進み出ると、庇うように立ちはだかった。
その背中は、かつて拒食症に苦しみ、死を待つだけだった弱々しい令嬢のものではない。豊かな金糸の髪が揺れ、豊満な胸が誇り高く張られている。その身から放たれるのは、貴族の娘としての揺るぎない矜持と、俺を守るという強烈な母性だった。
「お父様。私が名代として、お父様と共に王都へ赴きます」
「フェリシア……! お前が直々に王宮の毒蛇どもの群れに入るというのか!?」
「ええ。アルフレッド様はあくまで『ただのバーテンダー』。病を治したのはフォンテーヌ伯爵領の医師たちと、領主である伯爵様の迅速な決断があったからだと。……私が、王宮の連中を法と話術で完全に納得させてみせます」
フェリシアの瞳には、一切の迷いがなかった。
圧倒的な美貌と、高位貴族すら気圧されるほどの堂々たる立ち振る舞い。彼女なら、王都の古狸どもを手玉に取り、すべての追及を躱すことができるだろう。
「フェリシア様。しかし、それではあなたに危険が及びます」
俺が止めようとすると、彼女は振り返り、花が咲くような、それでいてどこか凄みのある微笑みを浮かべた。
「アルフレッド様。私に、命と、生きる喜びをくださったのはあなたです。……だから、表の厄介事はすべて私が引き受けます。私が、アルフレッド様の『盾』になりますわ」
その覚悟の前に、俺はもう反論の言葉を持たなかった。
そして、俺のすぐ斜め後ろ。ペティナイフを握りしめていたセラもまた、フェリシアのその背中を、言葉にできない複雑な感情で見つめていた。
◇◇◇
翌朝。
男爵領を薄い朝靄が包む中、バッカス亭の前に豪奢な馬車が停まっていた。
王都への長旅に備え、慌ただしく荷物が積み込まれていく。完全武装のエドワード騎士団長と、数名の精鋭騎士たちが周囲を固めていた。
「フェリシア様。どうか、お気をつけて」
俺が声をかけると、馬車の窓から顔を出したフェリシア様が、名残惜しそうに微笑んだ。
「行ってまいります。……お留守の間、この街のことこのお店をどうかよろしくお願いしますね」
そして、彼女の視線が、俺の隣に立つセラへと向けられる。
言葉はなかった。
だが、フェリシアの気高く強い瞳と、セラの静かな瞳が交差した瞬間、二人の間には確かな誓いが交わされていた。
『表の貴族社会』は、私が命を懸けて守る。
だから、『裏の厨房』とアルフレッド様の背中は、あなたが守って。
「……ご安心を。この厨房とアル様は、私が命に代えてもお守りします」
セラが、誰に聞こえるでもない小さな声で、しかしくっきりと呟いた。
やがて御者の鞭が鳴り、馬車が蹄の音を響かせてゆっくりと動き出す。車輪の音が朝の空気に溶け込み、馬車の姿が見えなくなるまで、俺たちはその場に立ち尽くしていた。
「……行ったな」
俺の呟きに、セラは小さく頷いた。
その手は、エプロンの下で白くなるほど固く握りしめられている。
(……アル様を、お守りしなければ。……でも、私に、できるのか?)
前日の山葵の調理で感じた、己の物理的な限界。そして今、フェリシアが見せた貴族としての圧倒的な立ち振る舞い。
セラの胸の奥で、無力感と焦燥が、黒い渦のように広がっていく。
ふと、風が吹いた。
朝靄を切り裂くような、生温かく、ひどく鉄錆臭い風。
「……アル様」
セラがハッとして、男爵領を囲む遥か遠くの山脈を見上げた。俺もそれに倣う。
そこには、異様な光景が広がっていた。
空を黒く染めるほどの、無数の不気味な鳥の群れ。
それらが、まるで山そのものから「途方もない恐怖」に追いたてられ、逃げ惑うように一斉に飛び立っていくのが見えた。
【……マスター】
脳内で、アイリスの無機質な声が微かに震えたような気がした。
ズズン……ッ。
直後、足元の石畳を揺らすほどの、重く低い地鳴りが響いた。
いや、地鳴りではない。それは何十キロも離れた山奥から空気を震わせて届いた、巨大な生物の『咆哮』の余波だった。
平穏な日常の終わり。
俺たちがまだ知らない、空を覆うほどの『絶望』が、すぐそこまで迫っていた。
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