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第二十七話:執念が産んだもの

「ラモンさん! 魔法鞄の中に、他にもブルーチーズのストックは……!」


俺が縋るように叫ぶと、ラモンは苦渋に満ちた顔で首を横に振った。


「すまねえアルフレッドさん……。納品帰りだったからな、本当にあれが最後の一つだったんだ。細胞を治す果実や薬草なら少しはあるが、肝心の『カビのついたチーズ』は、もう一つも残っちゃいねえ……!」


広間に、先ほどよりもさらに深く、重く冷たい絶望の沈黙が落ちた。


俺の魔力干渉では、数千人に及ぶ街の領民を治しきる前に俺の命が尽きる。物理的な特効薬であるペニシリンを作るための『青カビ(抽出元)』は、たった今、この館の人間を救うために完全に底を突いてしまった。


街では今この瞬間も、何千人もの無実の人間たちが、あの恐るべきバクテリアに肉を溶かされながら死を待っているのだ。


俺は空になった銀のシェイカーを握り締め、底なしの絶望の前にただ立ち尽くすことしかできなかった。


「アルフレッド様……」


フェリシアが両手で顔を覆い、肩を震わせている。サラ嬢を救えた歓喜は一瞬で吹き飛び、今は領主の娘としての重責と無力感が彼女を押し潰そうとしていた。


セラもまた、血の気が引いた顔で自らのペティナイフを見つめている。


「くそっ……! なにか、なにか他に青カビを……いや、ペニシリンに代わる抗生物質を錬成できるものは……!」


俺が頭を抱え、必死に前世の知識を総動員して打開策を探っていた、その時だった。


「……あ。おい、ちょっと待てよ」


沈黙を破ったのは、額に汗を浮かべながら魔法鞄の中をゴソゴソと漁っていたラモンだった。


彼は何かを思い出したようにポンと手を打ち、鞄のさらに奥底、小さな内ポケットから『くたびれた革の巾着袋』を取り出した。


「ラモンさん……? それは?」


「いやな、王都へ向かう前にバッカス亭の横で荷造りしてたらよ、診療所のガレン先生が珍しく店から出てきて、俺にこれを押し付けてきたんだよ。『王都のついでに、あの馬鹿なバーテンダーの顔を見たら渡してやってくれ』ってな」


「ガレンが……俺に?」


俺は目を見張った。あの偏屈で素直じゃない、でも誰よりも患者思いの医者が、わざわざ行商人に荷物を託したというのか。


「ああ。なんでも『妙なモンができちまったから、あいつの料理の魔法とやらで何なのか確かめさせろ』とかブツブツ言っててよ。すっかり忘れてたぜ」


ラモンから手渡された革の巾着袋。

紐を解いて中を覗くと、無造作に四つ折りで突っ込まれた羊皮紙の手紙と、厳重にコルクで栓がされた『小さなガラス小瓶』が入っていた。


俺は逸る鼓動を抑えながら、羊皮紙を開いた。

そこには、几帳面だがどこか神経質そうな、見慣れたガレンの文字が並んでいた。


『アルフレッドへ。

最近、領内の婦人たちから肌の吹き出物や、化膿した傷の相談が多くてな。お前が以前言っていた「目に見えない小さな虫(細菌)が傷を腐らせる」という戯言が気になり、軟膏を作るために患者の膿から、原因となる「小さな虫」を抽出してみたのだ』


「……なんだと?」


俺は思わず声を漏らした。あの男、顕微鏡もないこの世界で、独学で細菌の分離を試みたのか?


『様々な薬草や他の小さな虫と掛け合わせて実験を繰り返していたのだが、ある時、貯蔵庫の奥にあった特定の「青緑色のカビ」の抽出液を混ぜると、膿の中の小さな虫が劇的に消滅することを発見した』


「――――ッ!!」


俺の全身の粟が立った。心臓が、早鐘のように激しく打ち鳴らされる。


『だが、これをどう人体に安全な薬として定着・精製させるか、私には分からん。そのまま塗ればカビの毒素で肌が荒れるだけだ。……色々と濾過して煮詰めていたら、白い粉末ができあがった。


お前のその妙な「料理の魔法」なら、これが何なのか、どう使えるか分かるだろう。……せいぜい、私の研究の役に立ててみせろ。 ガレン』


俺は震える手で手紙を下ろし、同封されていたガラス小瓶を日の光に透かした。


小瓶の中には、雪のように真っ白な『結晶粉末』が、サラサラと音を立てて詰まっていた。


「……嘘だろ……。ガレン、あんた……」


俺の口から、信じられないというような乾いた笑いが漏れた。


「アル様? ガレン先生のお手紙に、何と……?」


セラが心配そうに顔を覗き込んでくる。


「セラ、フェリシア様。ガレンの奴……ただの留守番医者じゃなかった。あいつ、この顕微鏡もない、魔法ばかりに頼る世界で……たった一人で『ペニシリン』を発見しやがったんだよ!」


「えっ……!?」


「ガレン先生が、あの特効薬を!?」


フェリシアとセラが同時に目を見開く。


それはまさに、地球の歴史においてアレクサンダー・フレミングが青カビからペニシリンを発見したのと同じ、いや、それを魔力と執念だけで精製まで持っていったのだとしたら、オーパーツ級の偉業だ。


「アイリス! この小瓶の中身をスキャンしろ! 頼む、俺の予想通りであってくれ!」


俺の胸元に張り付いていた純白の妖精――アイリスが、色素を持たない真っ白な瞳をガラス小瓶へと向けた。


アイリスの瞳の奥で、膨大な演算データが青い光となって明滅する。


「報告。内容物の分子構造を解析。……高純度の『ペニシリン結晶体(ペニシリンG)』です。不純物含有率〇・〇二パーセント以下。極めて強力な抗菌作用を確認しました」


アイリスのシステマチックな音声が、俺たちに最大の『希望』を告げた。


その瞬間、アイリスは小瓶を見つめたまま、俺の胸元にスリスリと頬を擦り寄せた。


「……マスター。これ、いける。……ん」


「ああ、いける! いけるぞアイリス!」


俺は歓喜のあまり、アイリスの小さな身体を抱きしめ、ガッツポーズを取った。


「アルフレッド様! では、その粉末がサラ様を治した薬と同じものなのですか!?」


フェリシアがパッと表情を明るくして身を乗り出す。

「その通りです! ガレンが抽出してくれたこの『高純度ペニシリン』を『種スターター』にするんです。もう青カビから一から培養する必要はない!」


俺はラモンを振り返り、力強く言い放った。


「ラモンさん! 魔法鞄の中に残っている果実、全部出してください! この結晶を種にして、果実の糖分と純水を触媒にすれば、俺の魔力とアイリスの演算で一気に『数千人分の特効薬』へと物質増幅超速培養できる!」


「おおっ! そういうことなら任せとけ! 商会の極上品、全部ひっくり返してやるぜ!」


ラモンが豪快に笑い、魔法鞄から色鮮やかな柑橘類の山と、大量の純水が入った樽をいくつも取り出した。


「アル様、私は何をすれば!?」


「セラは俺と一緒に来てくれ! さすがに数千人分ともなると、このシェイカーの容量じゃ全く足りない。街の広場に行って、デカい器で直接錬成するぞ!」


「デカい器……まさか」


「ああ。フォンテーヌ伯爵! 街の中央広場に、巨大な噴水か給水塔はありますか!?」


俺が叫ぶと、状況を理解しきれていないながらも希望の光を見た伯爵が、勢いよく頷いた。


「あ、ある! 広場の中央に、清流から引いた水を溜める大きな石造りの噴水がある! 今は祭りの装飾がされているはずだ!」


「上等だ。……行くぞ、反撃の第二ラウンドだ!」


俺たちはラモンが展開した食材と薬草を抱え込み、フェリシアが手配してくれた護衛の騎士たちと共に、地獄と化した街の中央広場へと全速力で駆け出した。


◇◇◇


フォンテーヌ伯爵領、中央広場。


数時間前まで、色とりどりの天幕が張られ、生誕祭の飾り付けで活気に満ちていたはずのその場所は、悲惨な静寂と苦悶の呻き声に支配されていた。


「うぅ……熱い、腕が、焼けるように……!」


「誰か、神官様を……光の癒やしを……ッ」


広場の石畳の上には、老若男女問わず何百人もの領民が倒れ伏している。


彼らの傍らには、祝いの品として配られたはずの『砂糖をまぶした焼き菓子』が転がっていた。厨房でバクテリアと魔力をたっぷりと吸い込んだその甘い毒は、無慈悲に領民たちの肉を溶かし、赤い斑点が黒く壊死していく過程を急速に進めていた。


「ひどい……」


駆けつけたセラが、その惨状に息を呑む。


俺も思わず足を止めそうになったが、奥歯を噛み締めて広場の中央へと走った。


「そこだ! あの噴水を使うぞ!」


広場の中央には、伯爵の言葉通り、白い大理石で造られた巨大な噴水があった。透明度の高い純水が、数メートル四方の広い水盤にたっぷりと湛えられている。


「騎士団! 噴水の周囲にいる領民たちを少し下がらせてくれ! フェリシア様、誘導をお願いします!」


「分かりましたわ! 皆の者、アルフレッド様の作業の邪魔にならないよう、患者を噴水から離しなさい!」


フェリシアの凛とした号令で、騎士たちが迅速に動き出す。


「セラ、ラモンさん! 持ち込んだ果実と薬草を、全部この噴水の中に叩き込んでくれ! 絞る必要はない、俺が魔力で直接分解する!」


「はいっ!」「おうよ!」

セラが目にも留まらぬ速さでナイフを振るい、柑橘の果実や薬草を細かく刻んでは水盤の中へ投げ入れていく。ラモンも樽の純水を勢いよく注ぎ足した。


巨大な水盤の中には、大量の果実と葉が浮き、ただの生ゴミの溜まり場のような状態になっている。


だが、これでいい。


俺は水盤の縁に立ち、ガレンから託された小瓶のコルク栓を引き抜いた。

雪のように白いペニシリンGの結晶粉末を、水盤の中央に向かって躊躇なく全量振り入れる。


「頼むぞ…!ガレン… お前の執念、無駄にはしない!」


俺は深呼吸をし、水盤の水面に両手を突っ込んだ。


「アイリス! ここから先は俺とアイリスの、全開の並列処理だ! この噴水全体を『一つのシェイカー』と見做す!」


「……ん。承認」


俺の背中にぴたりと張り付いたアイリスのワンピース。その裾回りに刺繍された紫と黄色の可憐なアイリスの花が、溢れ出す魔力に呼応するように淡く発光し始めた。


真っ白な髪が風に舞い、色素のない瞳が水盤全体を正確にロックオンする。


「報告。噴水水槽内の成分スキャン完了。果糖、修復ペプチド、ペニシリン結晶を確認。……マスター、魔力出力限界突破オーバーライド。培養および分子結合プロセス、開始します」


「うおおおおおおおッ!!」


俺は体内の魔力回路を全開にし、両腕から水盤の底へと莫大なエネルギーを叩き込んだ。


その瞬間。


ゴゴゴゴゴゴッ!!

地響きのような音と共に、噴水の水が意志を持ったかのように激しく渦を巻き始めた。


俺が魔力で水流を強制的にコントロールし、巨大なミキサー、いや、巨大な『シェイカー』として内部の液体を凄まじい速度で撹拌しているのだ。


「アイリス! 温度と圧力の制御を頼む!」


「……了解。内部温度三十五度、安定。カビ胞子の不純物焼却、実行中。……ペニシリンの増殖速度、規定値の六万パーセントに到達」


アイリスの無機質で冷徹なシステム音声が、魔法と科学の融合による奇跡の数値を告げる。


水盤の中で渦巻いていた果実や薬草が、魔力の干渉によって瞬時に細胞レベルまで分解され、溶け込んでいく。無色透明だった水が、徐々に鮮やかな色彩を帯び始めた。


「……アルフレッド様……噴水が、光を……!」


周囲の安全を確保していたフェリシアが、信じられないものを見るように目を奪われている。


セラも、ラモンも、そして苦痛に喘いでいた領民たちすらも、その幻想的な光景に圧倒され、呻き声を止めていた。


水盤の中で渦を巻く液体は、ブルーチーズの濁った色ではない。


柑橘の果皮が溶け込んだような蜜柑の温かい黄色と、薬草の生命力を感じさせる神秘的な青緑色が混ざり合い、圧倒的に美しく輝く『黄金色』の液体へと変貌を遂げていたのだ。


「……報告。ペニシリン濃度の閾値クリア。細胞修復ペプチドとの結合率、一〇〇パーセント。……マスター、完成しました」


アイリスの静かな、しかし確かな勝利を告げる声。


「よし! なら、あとはこれを全員に飲ませる……いや、違うな!」


俺は水盤に突っ込んでいた両手を、天に向かって思い切り振り上げた。


「飲むだけじゃ遅い! 皮膚からの直接吸収と、呼吸器からの吸入で一気に治す!!」


ズドォォォォォンッ!!


俺の魔力による間欠泉が、噴水の中央から天高く、数十メートルの高さまで強烈に噴き上がった。


夕暮れに染まりかけていた空に、金色に輝く液体の柱が打ち立てられる。


「アイリス、液滴の極小化(ミスト化)!」


「……ん。水分子の結合を強制分離。ミスト・スプレー、展開」


天高く噴き上がった黄金の液体は、アイリスの繊細な演算制御によって極小のミストへと変換された。


そして、夕風に乗って。


広場全体を覆い尽くすほどの、キラキラと輝く『救済の黄金雨』となって、領民たちの上へと静かに降り注いだ。


「あ……雨……?」


「甘い……果実の香りがする……」


黄金のミストを浴びた領民たちが、呆然と空を見上げる。


そして、奇跡は起きた。


ミストが肌に触れ、肺に吸い込まれた瞬間。

領民たちの首筋や腕を侵食していた赤黒い斑点が、まるで朝日に焼かれる霜のように、シュウシュウと音を立てて消滅していったのだ。


それと同時に、配合された修復ペプチドが細胞の再生を促し、爛れていた肌が瞬く間に元の健やかな色を取り戻していく。


「あ、熱が……熱が引いていく!」


「痛くない……腕の腐敗が、治ってる!?」


「おおお……! 光の神よ!!」


広場のあちこちで、死の淵から生還した領民たちの歓喜の叫びと、咽び泣く声が爆発した。


俺は天から降り注ぐ金の雨を浴びながら、肩で大きく息をしていた。魔力はすっからかんで、立っているのもやっとの状態だ。

だが、視界に広がるのは、もう地獄ではない。救われた命の輝きだった。


「アル様……っ!」


「アルフレッド様……っ!」


セラとフェリシアが、黄金のミストに濡れるのも構わず俺の元へ駆け寄り、左右から力強く抱きついてきた。フェリシアの豊かな胸の感触も、セラの献身的な温もりも、今はただ純粋に心地よかった。


「へへっ……やりやがったな、アルフレッドさん!」


ラモンが豪快に笑いながら、俺の背中をバンバンと叩く。


「……マスター。心拍数上昇。……でも、よくやった。……ん」


背中に張り付いたアイリスが、真っ白な髪を俺の首筋にスリスリと擦り付けながら、俺の耳元で小さく、とても小さく、猫のように喉を鳴らした。


「ああ……終わったな」


俺は広場の空を見上げた。

遠く離れたロズウェル領のバッカス亭で、今頃不愛想に酒を飲んでいるであろう天才医師の顔を思い浮かべながら。


(ありがとな、ガレン。お前の手紙がなかったら、俺たちは全滅だったよ。)


「腹が減ったな、皆。」


こうして、フォンテーヌ伯爵領を襲った最悪のパンデミックは、一人の偏屈な医者の執念と、一人のバーテンダーの料理の魔法によって、一人の犠牲者を出すこともなく完全なる終息を迎えたのだった。

ガレンお前窓際いじられ役じゃなかったんかい!


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