第二十八話:秘境の恵
フォンテーヌ伯爵領を襲った未曾有のパンデミックは、昨日の『救済の黄金雨』をもって完全なる終息を迎えた。
一夜明けた伯爵邸は、死の恐怖から解放された安堵と、本来今日行われるはずだったサラ嬢の『七歳の生誕祭』を祝うための活気に包まれていた。
だが、広間の惨状が片付けられ、清潔さを取り戻した館の一室で、領主であるフォンテーヌ伯爵は深く頭を抱えていた。
「困ったことになった……。館の厨房にあった食材は、パンデミックの温床となっていたため、感染防止の観点から昨晩のうちにすべて焼却処分してしまったのだ。今夜の宴のため隣領の貴族たちも先程到着しているというのに、今から王都や近隣の街へ急馬を走らせても、到底間に合わん……」
深刻な顔でため息をつく伯爵。
数千人の領民と愛娘の命を救われたとはいえ、領主として招待客にまともな食事を出せないとなれば、フォンテーヌ家の面目丸潰れである。
そんな伯爵の姿を見て、フェリシアが一歩前に出た。彼女の父であるロズウェル男爵は、このフォンテーヌ伯爵の派閥に属しており、領地も隣り合う友人同士という間柄だ。だからこそ、フェリシアにとってもこの危機は他人事ではない。
「フォンテーヌ伯爵様。……この領には、最高級の『天然の貯蔵庫』があるではありませんか」
「天然の貯蔵庫、だと?」
「はい。この館の裏手に広がる、深い森と川です。手つかずの自然が残る源流域に足を運べば、今の季節ならではの春の食材が手に入るはずですわ」
フェリシアの提案に、俺はポンと手を打った。
「なるほど。この領地に土地勘のない俺には思いつかない手でした。……確かに、人の手が入っていない源流の自然なら、昨日のバクテリアによる汚染の心配も一切ない。宴の食材を調達するには最適ですね」
俺の言葉に、伯爵は弾かれたように顔を上げた。
「おお……! さすがフェリシア嬢だ、盲点であった。よし、私も行こう! 領主自ら足を運べば、少しでも良いものが見つかるやもしれん!」
かくして俺たちは、宴の準備に追われる館を後に、伯爵、フェリシア、セラの四人で、領地の奥深くへと広がる森——清らかな雪解け水が流れ出す大河の源流域へと向かった。
◇◇◇
春の息吹に満ちた森の空気は、肺の奥まで澄み渡るように美味かった。
伯爵家の者たちが普段立ち入る「源流の入り口」付近までやってくると、雪解け水が流れる清流の畔には、春の山菜——タラの芽やコゴミが群生していた。
「素晴らしい。これだけでも十分なご馳走になりますよ」
「おお、そうか! ならばこれを集めて……」
安堵する伯爵だったが、俺は川の水の刺すような冷たさと、地形の隆起を見てある確信を抱いていた。
(……待てよ。確かにこの山菜は美味いが、これだけじゃただの『田舎の素朴な料理』止まりだ。口の肥えた貴族たちを黙らせるには、もっと強烈この土地ならではの『特産品』がいる)
「アイリス、この近くに他の水源は存在するか?」
【回答。この先、一時間程度の場所に源泉を確認。】
「…やはりあるか…伯爵、この川の『本当の源泉』は、まだこの奥にあるようです。今日の宴で貴族たちを黙らせるほどの極上の品を求めるなら、誰も踏み入れたことのない場所へ行くべきです」
俺の提案に、伯爵とフェリシアは顔を見合わせた。
「この奥にか? しかし、ここから先は獣道すら途絶えている。領地の猟師たちでさえ、危険だからと滅多に近寄らん深い森だぞ」
「だからこそです。人が立ち入らない場所にこそ、手つかずの至宝が眠っている。……少しばかり服が汚れるかもしれませんが、いかがですか?」
俺が尋ねると、伯爵は自身の立派な外套を躊躇なく脱ぎ捨てた。
「構わん! サラの命を救ってくれたアルフレッド殿がそこまで言ってくれるのだ。この領地の主として、最後の一歩まで付き合おうではないか!」
そこからの道のりは過酷だった。
人の侵入を拒むように生い茂る藪や倒木。魔法で風を起こして吹き飛ばせたらと思うが生憎、属性魔法は俺には使えない。
だが、俺たちには最高の前衛がいた。
「アル様、私の後ろを」
セラが流れるような身のこなしで前に出ると、両手に構えたナイフで邪魔な枝葉を的確に、かつ最小限の動きで斬り払っていく。ただの元ナースメイドとは思えぬその無駄のない体捌きのおかげで、俺たちは安全に道を進むことができた。伯爵もフェリシアも息を切らし、上等な服を泥で汚しながらも、必死に食らいついてきた。
一時間ほど急な斜面を登り続けた時、ふいに視界が開けた。
「……ここは……」
そこにあったのは、切り立った岩肌からこんこんと清水が湧き出し、神秘的な青さを湛えた小さな滝壺だった。周囲の空気は一段と冷たく、下界の喧騒から完全に切り離されたような、神聖さすら感じる空間。
伯爵も「我が領地に、これほど美しい場所があったとは……」と息を呑んで立ち尽くしている。
俺は冷たい川の浅瀬に足を踏み入れ、清流の石の間に自生する美しい緑色の葉群を見つけた。
そっと引き抜くと、ゴツゴツとした見慣れた根茎が姿を現す。
「……嘘だろ。まさか本当に……」
俺は思わず目を見開き、その根茎の香りを嗅いだ。
間違いない。異世界補正とはいえ、こんな未踏の真の源流で、極寒の清流が絶え間なく流れる環境でなければ絶対にお目にかかれない代物。
正真正銘の天然物、『本山葵』だ。
「アルフレッド殿、それは……? 何やら奇妙な形をした根だが……」
俺が驚愕しているのを見て、伯爵が不思議そうに首を傾げる。
「山葵という植物です。清浄で極寒の水でしか育たない、非常に繊細な香辛料なんですよ。……まさかこいつにお目にかかれるとは思わなかった」
「香辛料……だと!? このただの植物の根が!?」
伯爵の目の色が劇的に変わった。
無理もない。近世から中世ヨーロッパに近い文化レベルにあるこの世界において、香辛料は金と同等の価値を持つ。黒胡椒などは遠方からの貿易でしか手に入らず、肉の臭みを消すための『辛味』は、貴族の権力と富の象徴なのだ。
「ええ。西洋ワサビ(ホースラディッシュ)なんかよりもはるかに上品で、ツンとした鮮烈な辛味の中に、確かな甘みすら感じる最高級のスパイスです」
俺はナイフで山葵の根を薄く削り、伯爵に手渡した。
伯爵は恐る恐るそれを口に含み……次の瞬間、カッと目を見開いて鼻を押さえた。
「ぬおおっ!? 鼻の奥を突き抜けるような、なんと鮮烈な辛味……! だが、不快ではない! むしろその後からやってくる爽やかな香りと、微かな甘み……なんという上品な味わいだ!」
「でしょう? 伯爵、この源流の環境を保護し、これを領地の特産品として管理・栽培できれば……フォンテーヌ領に莫大な富をもたらす新産業になりますよ」
「なっ……!」
伯爵は震える手で山葵を見つめ、膝から崩れ落ちそうになった。
愛娘の命を救われただけでなく、宴の食材を探しに来た先で、領地を潤す莫大な経済的価値まで提示されたのだ。俺を見る伯爵の視線には、もはや感謝を通り越して畏敬の念すら混じり始めていた。
(よし、これで薬味は完璧だ。……ワサビがあるなら、アイツがいれば完璧なんだが)
俺はさらに滝壺の深みへと視線を向けた。
岩陰の淀みに、銀色に輝く美しい魚影がいくつも泳いでいるのが見える。背中には独特の虫食い模様があり、体側には鮮やかな朱色の斑点が散りばめられている。
(やっぱり居たか。……この水温、この環境なら生息しているはずだと思ったんだ)
「見つけましたよ。幻の渓流魚……『ゴギ』です」
「ゴギ?なんだそれは?イワナのことか? 我々もよく食べるが、あれが幻だと言うのか?」
伯爵が首を傾げる。彼らにしてみれば、どれも同じ川魚に見えるのだろう。
「ただのイワナじゃありません。頭の先まで白斑が覆っているのが特徴で、この冷たい源流の最上流域、それも限られた水系にしか生息しない固有種です。ここまで人が辿り着けないから、幻と呼ばれているんですよ」
「なるほど、そういうことか! しかし、網もなしにどうやって捕まえるのだ? 私が剣で……いや、水の中では分が悪いな」
俺も腕を組んだ。俺の魔力操作では、水を弾いて気絶させるような器用な芸当はできない。
どうするかと考えていた、その時だった。
「お任せください、アル様」
不意に、セラが一歩前に出て一切の躊躇なく、極寒の滝壺へとザブッと飛び込んだのだ。
「えっ!? ちょ、セラ!?」
「ひゃああっ! セ、セラさん!? 冷たくないの!?」
俺とフェリシアが慌てて声を上げるが、セラは冷たさに顔をしかめることもなく、鋭い瞳で水面を睨みつけた。
ゴギは人を見たことがないため、警戒心が薄い。
セラは水中で恐るべき身体能力を発揮し、滑るような足取りで魚影に近づくと、両手に持ったナイフを瞬きすら許さぬ速度で水面へ突き入れた。
バシャッ!!
「……ふっ」
水飛沫と共にセラが立ち上がると、その両手のナイフには、見事に急所を貫かれた丸々と太ったゴギが二匹、銀色の鱗を輝かせていた。
「すごい……! なんという素早さと正確さだ!」
伯爵が感嘆の声を上げる。
「アル様、二匹捕らえました。血抜きをして、すぐに次を獲りますね」
セラがこちらを振り返り、ふわりと微笑む。
だが、俺は釣果よりも、彼女の『今の姿』に思わず視線を奪われてしまった。
ザバザバと水から上がってくるセラのメイド服は、腰から下が完全に水を吸って脚のラインにぴったりと張り付いている。それどころか、跳ね上げた水飛沫を被ったのか、白いブラウスまでが透け、肌着の輪郭と滑らかな肌の色がうっすらと浮かび上がっていた。
冷たい水に濡れたことで、彼女の透き通るような白い肌と、クールな美貌が、どこか艶めかしい魅力を放っている。
「……こほん。あー、セラさん、見事だ。だが、風邪を引かないように急いで獲って上がってくれ」
俺は慌てて視線を逸らし、咳払いで誤魔化した。
「はい。アル様のためなら、この滝壺の魚、一匹残らず獲り尽くしてみせます」
俺の反応に気づいたのか気づいていないのか、セラはどこか嬉しそうに頷き、再び水の中へと躍動していった。
結局、セラの手によってあっという間に十匹以上のゴギが仕留められた。
彼女が素早く血抜きと神経締めを行い、ラモンから借りてきた魔法鞄(時間停止と空間拡張機能付き)へと次々に放り込んでいく。
春の恵みである山菜、莫大な価値を秘めた本山葵、そして幻の渓流魚ゴギ。
これだけあれば、貴族たちの常識を覆す、完璧な一皿が作れる。
「さあ、帰りましょう伯爵、フェリシア様。最高の食材は揃いました。あとは……俺たち料理人の腕の見せ所です」
俺は濡れたセラに自分の上着を羽織らせてやりながら、今夜の宴で貴族たちがどんな顔をするか想像し、密かに口角を吊り上げたのだった。
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