第二十五話:道半ば
「セラ! アイリス! これからこの広間を『厨房』に変える。領民全員を救うための、最高の一皿特効薬を作るぞ!」
俺の宣言が響き渡った大広間には、重苦しい静寂と、患者たちが熱にうなされる苦悶の呻き声だけがねっとりと満ちていた。
高位神官は自らの信じていた奇跡が最悪の結果を招いたことに絶望し、床にへたり込んで虚空を見つめている。フォンテーヌ伯爵は血の気の引いた顔で、祈るように両手を固く組んで俺の背中を見つめていた。
俺は真っ先に、一番奥の天蓋付きベッドで荒い息を吐くサラ嬢の元へ駆け寄った。
七歳の小さな身体は異常な高熱に焼かれ、汗で金糸のような髪が額に張り付いている。首筋から細い腕にかけて広がる赤黒い斑点は、まるで意思を持った悍ましい蟲のように蠢き、今この瞬間にもジワジワと周囲の健やかな皮膚を溶かしながら領域を広げていた。
「アイリス、サラ嬢と他の患部に直接『メディカル・カクテル』を打ち込む。……俺の魔力で、この細菌どもの構造を一つ残らず強制的に『良性』へ書き換えるぞ」
俺はサラ嬢の熱い腕に手をかざし、全身の魔力を指先に集中させた。
これまで、腐敗して黒ずんだ肉や、セラの身体を蝕んでいた致死の猛毒すらも、俺はこの力で分解・再構築してきた。細菌も突き詰めれば物質の集合体である以上、この俺のチートで構造を書き換えられない道理はない。
「……ん。患部への直接魔力干渉、開始」
俺の胸元に張り付くように抱きついている純白の妖精――アイリスが、色素を持たない真っ白な瞳をサラ嬢の腕へと向けた。
俺の指先から淡い光が放たれ、サラ嬢の皮膚を侵食する黒いモヤ(細菌)へと触れた、その瞬間だった。
【警告! 対象の細菌増殖速度が、マスターの魔力による書き換え速度を凌駕! 現在の患部内細菌数、推定四百億。神官の治癒魔法によるブースト効果で、一秒あたり一千万のペースで細胞分裂を繰り返しています】
「なっ……!?」
俺の指先から、滝のように膨大な魔力が吸い取られていく。
数万、数十万の細菌の構造を書き換えたところで、背後から数千万、数億の狂暴化した細菌が津波のように押し寄せてくるのだ。まるで、小さなコップ一杯の水で、山を丸ごと焼き尽くす大火事を消そうとしているようなものだった。指先から魔力が底なし沼に吸い込まれるような、かつてない悪寒が全身を駆け巡る。
【マスターの魔力残量が急激に低下。このまま全患者への直接干渉を続行した場合、三十四秒後に魔力枯渇による心肺停止を引き起こします。……直ちに干渉を中断してください】
「くそっ……!」
俺は弾かれたようにサラ嬢の腕から手を離し、荒い息を吐きながら床に膝をついた。
「アル様!?」
セラが悲鳴のような声を上げ、背中に駆け寄って俺の身体を咄嗟に支える。
額からは滝のような冷や汗が流れ落ち、目の前がチカチカと明滅していた。たった数秒の干渉で、俺の莫大な魔力はあっという間に底を突きかけていたのだ。
「……マスター、無茶しすぎ。……死んじゃう。……ん」
アイリスが俺のシャツを小さな手できゅっと強く握りしめ、感情のない白い瞳に微かな非難と心配の色を浮かべて俺を見上げた。
「すまん、アイリス……。だが、これでハッキリした」
俺は乱れた呼吸を整えながら、絶望に顔を歪めるフォンテーヌ伯爵とフェリシアを振り返った。
「アルフレッド様……ダメなのですか? あなたの奇跡の力をもってしても……」
フェリシアの甘い声が、今は悲痛に震え、両手で顔を覆っている。
「力技では無理です。細菌の数が多すぎる上に、先ほどの治癒魔法のせいで奴らは『魔力に対する強い耐性と活性化』を得てしまっている。俺が一人一人に魔法で干渉して治そうとすれば、全員を治しきる前に俺の魔力が尽きて死にます」
「そ、そんな……! では、サラは、この館の皆は助からぬというのか……!」
伯爵がその場に崩れ落ちそうになるのを、傍らにいた騎士たちが慌てて支える。
床にへたり込んでいた神官が、狂ったような笑い声を上げた。
「は、ははは! 見たか、料理人ふぜいが神の領域に手を出そうとするからだ! 貴様の薄汚い力など、何の役にも立たぬではないか!」
俺は神官の現実逃避の嘲笑を完全に無視し、立ち上がって白亜の妖精――アイリスを見下ろした。
「魔法による『書き換え』が物理的に間に合わないなら、奴らの天敵を送り込んで『根絶やし』にするしかない。……アイリス、ここから先は『料理』の領域だ。地球の歴史上、最も多くの命を救ったカクテル……【ペニシリン】の精製に入るぞ」
俺の言葉に、神官も伯爵も「ぺに……?」と呆然とした顔をする。
「ペニシリン。特定のカビから抽出される、細菌の細胞壁を破壊する強力な『抗生物質』です。この世界に存在しないなら、俺の調理技術とアイリスのシステム演算で、今ここにある食材から超速培養して抽出する」
「カ、カビだと!? 貴様、サラお嬢様の体内に腐敗したカビを入れる気か! 正気か!」
神官が血相を変えて叫ぶが、俺は一瞥もくれなかった。
「アイリス、館の厨房にある食材をスキャンしろ。ペニシリンの抽出元となる『ペニシリウム属』が付着したブルーチーズ、あるいは柑橘類。そして、それを爆発的に培養するための糖度が高い果実と純水が必要だ」
「承認。スキャンを実行します」
アイリスの白い瞳が、微かに青い光を帯びて明滅する。
彼女の卓越した演算能力は、壁を透かして館の奥にある広大な厨房の状況を瞬時に解析していった。
だが、数秒後。アイリスの口から発せられたのは、無情なシステム音声だった。
「報告。館の厨房内に存在する全食材のデータリンクを完了。……しかし、推奨不可能です」
「なんだと? 食材が足りないのか?」
「否定。食材の量は十分ですが……厨房内部の大気中、および全食材の表面に、変異型レンサ球菌のコロニー(集落)がすでに大量に付着しています。厨房そのものが、今回のパンデミックの『グラウンド・ゼロ(爆心地)』です」
「ッ……!」
俺は奥歯を強く噛み締めた。血の味が滲む。
サラ嬢も、厨房で味見をした直後に倒れたのだ。厨房全体がすでに高濃度の『人食いバクテリア』に汚染されているのは、考えれば当然のことだった。
「汚染された厨房の食材を使ってカビを培養すれば、目的の物質と一緒に『人食いバクテリア』まで爆発的に増殖させてしまう。……毒のスープを作るようなものだ」
俺の言葉に、広間に真の絶望の沈黙が落ちた。
魔法の干渉は通じない。特効薬を作るための食材はすべて汚染されて使い物にならない。完全に八方塞がりだ。
「アルフレッド様……どうすれば……」フェリシアが祈るように両手を握りしめ、涙をこぼす。
その時だった。
「……アル様。私が、行ってまいります」
背後で控えていたセラが、凛とした声で一歩前に出た。
彼女の瞳には、一切の迷いがない。
「館の食材が使えないのであれば、街に出て、汚染されていない新鮮な果実や熟成されたブルーチーズを買い集めてきます。……お祭りの日です、市場には他の領地から持ち込まれた、手つかずの食材が山のようにあるはずです」
「セラ、……分かった。頼む、一刻も早く無菌の食材を……!」
「私はアル様の『右腕』です。アル様が厨房に立つために必要なものを揃えるのは、私の仕事です。……行ってまいります!」
セラは翻り、風のような速さで広間を飛び出していった。
(……くそっ、頼むぞセラ。一刻も早く、汚染されていない食材を……!)
サラ嬢の呼吸が、いよいよ浅く、不規則になり始めている。残された時間は、ひどく少ない。
◇◇◇
フォンテーヌ伯爵領の街中。
色とりどりの天幕が張られ、焼き菓子の甘い香りや吟遊詩人の陽気なリュートの音色が響き渡る市場の雑踏を、セラは目当ての食材を探して鋭い視線を走らせていた。
祭りの準備で賑わう光景は、館の中の地獄とは正反対の、平和そのものだ。しかし今のセラには、それが薄氷の上に成り立つ仮初めの平和にしか見えなかった。
どこもかしこも人で溢れ、目的のチーズや果実を扱う店を的確に見つけるのも一苦労だ。
焦りが募り始めたその時。
「おお? セラちゃんじゃないか! こんな所で何してるんだ?」
人混みの中から、豪快な声が響いた。
振り返ると、上等な外套を羽織った商人――ラモンの姿があった。
ロズウェル男爵の出資を受け、バッカス亭の横に商会の店舗を構えた彼が、なぜ隣領の市場にいるのか。
「……ラモンさん!? どうしてここに?」
「おう。バッカス亭の横の店に納品に行ったんだが、バッカスの親父さんから、アルフレッドさんがこっちの伯爵領に来てるって聞いてな。王都に商談に向かうついでに、顔でも出そうかと立ち寄ったのさ」
セラの目の前が、一気に開けた気がした。
探していたもの、いや、それ以上の『完璧な切り札』が、向こうからやってきたのだ。
「ラモンさん、聞いてください! 今、伯爵邸で恐ろしい病が蔓延しています。アル様が治療にあたっていますが、特効薬を作るための食材が……館の厨房にあるものはすべて病の気に当てられ、汚染されてしまって使い物にならないのです! 完全に清潔な果実やブルーチーズが必要です。どこかに心当たりは……!」
セラが早口で、しかし必死の形相で状況を説明する。
ラモンは事態の深刻さを瞬時に悟り、真剣な表情へと変わった。そして、自慢げに自分の腰にぶら下げた『魔法の鞄』をポンポンと叩いた。
「納品帰りだから量はそこまで多くねえが、道中の商談用に極上品をいくらか残してあるんだ。時間停止と空間拡張の魔法で鮮度を完全に保ってる、袋に入れてから外の空気には一切触れてない代物だぜ。……で、アルフレッドさんはどこだ?」
「ラモンさん……! 今すぐ、その鞄を持って私についてきてください! 館の中で、アル様が……アル様が、あなたの食材を必要としています!」
セラはラモンの腕を強引に掴み、凄まじい力で伯爵邸の方向へと引きずり始めた。
「うおっ!? ちょ、セラちゃん力強すぎ!?」
◇◇◇
「アル様!!」
大広間の重厚な扉が勢いよく開き、セラがラモンを引きずりながら飛び込んできた。
「セラ!? それに……ラモンさん!?」
俺が驚いて振り返ると、ラモンは広間の惨状――異常な熱で顔を腫らし、のたうち回る料理人たちや、赤黒い斑点に覆われたサラ嬢を見て、絶句して立ち尽くした。
「な、なんだこりゃあ……地獄か……?」
「ラモンさん、事の次第はセラから聞いていますね。その腰の魔法鞄の中身は、あなたが直接王都や海から買い付けた、この館の空気に一切触れていない食材ですね?」
俺が鋭く問い詰めると、ラモンは広間の惨状から目を逸らさず、ゴクリと唾を飲み込んで力強く頷いた。
「あ、ああ! 納品後だからそこまでの量は無ぇが、この館の連中を救う分くらいなら十分足りるはずだ。俺が直に検品して封印した、汚染とは無縁の極上品だ!」
「上出来だ! セラ、でかした!」
俺はラモンから魔法鞄を受け取り、床に清潔な布を敷いて中身を展開した。
現れたのは、瑞々しい生命力を放つ柑橘系の果実、王都の地下室で熟成された極上のブルーチーズ、そして一切の不純物を含まない純水の樽。
「アイリス! 最終スキャン!」
俺の肩に乗ったアイリスが、白い瞳を食材の山へと向けた。
「……ん。スキャン完了。全食材、変異型レンサ球菌の汚染率ゼロ。K値および栄養価、最高ランク。……ペニシリン培養ベースとして、これ以上ない最適解」
アイリスの冷徹な、しかし確かな勝利の始まりを告げる音声が響いた。
「伯爵、フェリシア様。神の奇跡の時間は終わりました」
俺は白衣の袖を捲り上げ、愛用の銀のシェイカーと、ラモンが運んできた汚染されていないブルーチーズを手に取った。
「これより、俺とセラ、そしてアイリスの三人で……この死神どもを根絶やしにする、至高の『メディカル・カクテル』を作り上げる!」
俺の言葉に、フェリシアが涙ぐみながら深く頷き、セラが誇らしげに俺の隣へ立つ。
絶望に支配されていた広間に、反撃の狼煙を告げるシェイカーの澄んだ音が響き渡る準備が整った。
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