第二十四話:最上級回復魔法
早朝のフォンテーヌ伯爵領。
祭りの準備で賑わい始めていたはずの石畳の街道を、ロズウェル男爵家が手配していた漆黒の馬車が、周囲の目を気にすることなく猛烈な速度で駆け抜けていく。
普段は揺れの少ない極上の造りであるはずの馬車だが、今は車輪が段差を拾うたびに、身体が浮き上がるほどの激しい振動が車内を揺らしていた。それほどまでに、御者が馬を限界まで急がせている証拠だ。
「……騎士殿。館の状況を、分かる範囲で正確に教えてください。サラ嬢が倒れたのはいつですか?」
向かいの席で青ざめ、ガタガタと震えている騎士に、俺は努めて冷静な声で尋ねた。
パニックになっている人間に同調してはいけない。バーテンダーとして、荒れた客や酔客を落ち着かせる時の、低く穏やかなトーンを意識する。
「は、はい……! 今からおよそ二時間ほど前です。明日の生誕祭に向け、館の厨房では総出で仕込みが行われておりました。サラお嬢様は料理がお好きで、いつものように味見と称して厨房へ遊びにいらしていたのです」
「二時間前……。倒れる前兆はありましたか? 何か変わったものを食べたとか、怪我をしたとか」
「最初は、料理長が食材の処理中に『少し指先を切った』と言って、付き添いの神官に軽い治癒魔法をかけてもらっていました。ですがその直後……傷が治るどころか、料理長が突然高熱を出してその場に倒れ伏し……サラお嬢様も、料理長の作った料理を味見した後に激しい悪寒を訴え、その場に崩れ落ちたのです」
「……傷口からの感染と、飛沫、あるいは経口感染か」
俺の隣で、フェリシアとセラが息を呑むのが分かった。
俺の膝の上にちょこんと座っている、白亜の妖精のようなアイリスが、真っ白な瞳を俺へと向けた。
「アイリス。現代の知識と照らし合わせろ。傷口からの侵入、および飛沫・経口での劇症型感染。発症からわずか二時間で壊死が始まる細菌の心当たりは?」
俺の問いに、アイリスはスッと無機質な表情になり、システム的な冷徹な口調で口を開いた。
「回答。症状の進行速度、および壊死の特徴から、『劇症型溶血性レンサ球菌感染症』――通称『人食いバクテリア』の変異株である可能性が九十八パーセント。進行速度が、マスターの記憶にある地球上の記録を大幅に上回っています」
「進行が早すぎるな……。前世のニュースじゃ、発症から数十時間で致死レベルに達すると言われていたが、二時間で皮膚の腐敗が始まってるなんて異常だ」
俺の呟きに、アイリスはこくりと頷き、小さな手で俺のシャツをきゅっと掴んだ。
「報告。この世界の空気、魔力濃度が高い。細菌もまた生命体。大気中の魔力を食べて、異常に活動を活性化させている。……ん」
「魔力が菌の栄養になっているのか……! 厄介なこと極まりないな」
馬車が大きく傾き、いななきと急ブレーキの音と共に停止した。
窓の外を見ると、壮麗なフォンテーヌ伯爵邸の正門に到着していた。祭りの準備で華やかに飾られているはずの庭園や門扉のアーチは、今は慌ただしく走り回るメイドや、血相を変えて警備にあたる騎士たちの怒号で、まるで戦場のような地獄の様相を呈している。
「こちらです! 早く!」
騎士に先導され、俺たちは広大な館の奥へと駆け込んだ。
廊下を進むにつれ、生誕祭の華やかな空気は完全に消え去り、代わりに重く、甘ったるく、それでいて鼻を突くような『肉が腐る臭い』が漂い始めていた。
「おおお……! アルフレッド殿! よくぞ、よくぞ来てくれた!」
急遽、隔離病棟として封鎖された大広間の入り口。
俺たちを出迎えたのは、かつてフェリシアが「温厚で優しげな美食家」と評していたフォンテーヌ伯爵その人だった。
だが、今の彼は身なりを整える余裕もなく髪を振り乱し、数日で十年は老け込んだかのような憔悴しきった顔をしていた。目の下には色濃い隈が浮かび、声は絶望に震えている。
「伯爵様、ご挨拶もそこそこに申し訳ありません。サラ嬢と、他の患者たちは?」
「あそこだ……! 王都から招いた高位神官様が、付きっきりで治癒魔法をかけてくださっているのだが、熱が下がるどころか、あの黒い痣がどんどん広がっていくのだ……! 料理長や、厨房にいた他の者たちも皆……!」
伯爵が震える指で差した先。
本来なら舞踏会が開かれるはずの絢爛な大広間には、急ごしらえのベッドが十数台並べられていた。そこで、料理人や使用人たちが、異常な高熱にうなされ、苦悶の声を上げてのたうち回っている。
そして一番奥の、天蓋付きの豪奢なベッドには、小さな七歳の少女が、顔を真っ赤にして浅く速い呼吸を繰り返していた。
サラ嬢の細い腕や首筋には、すでに赤黒く変色し、水疱が破れて皮膚がどろりと溶けかかっている『壊死』の痕が広がっていた。
「おお、光の神よ! 癒やしの御手をここに! 邪悪なる病魔を光で浄化し給え! 『リ・ジェネレイション』!!」
サラ嬢のベッドの脇で、金糸の刺繍が入った純白の法衣を着た恰幅の良い高位神官が、杖を高く掲げて眩い光を放った。
最上級の治癒魔法。本来なら、欠損した腕すらも数分で再生させ、あらゆる外傷を塞ぐほどの奇跡の力だ。
だが――。
「――っ!? ギャアアアアッ!!」
隣のベッドでその魔法を受けた料理長が、喉が裂けんばかりの絶叫を上げた。
光が収まった瞬間、料理長の腕にあった赤黒い斑点が、まるで『極上の餌』を与えられたかのように猛烈な勢いで増殖し、一気に肩口まで真っ黒な壊死の領域が広がったのだ。
「な、なんだと!? なぜだ、なぜ治癒魔法が効かぬ!? 信仰が、光が足りぬというのか! さらに強い光を……!」
神官がパニックに陥り、さらに魔法を重ねがけしようと狂ったように杖を構える。
(アイリス! セラとフェリシアに視覚情報を共有しろ! 魔法と菌の反応を見る!)
俺が念じると、俺の膝から降りていたアイリスが、スッとセラとフェリシアのドレスの裾を小さな手で掴んだ。
「権限付与。視覚情報オーバーレイ、開始」
「ッ……! アル様! 見えます!」
アイリスの権限共有によって【生化学の眼ケミカル・アイ】の視界を手に入れたセラが、悲鳴のような声を上げた。
彼女の視界には今、現実の風景の上に重なるように、微細な生命体の動きや魔力の流れがAR(拡張現実)のデータとなって投影されている。
「アル様、あの神官の魔法の光……料理長たちの傷を治すどころか、傷口に群がっている『黒いモヤ(細菌)』の直接的な餌になっています! 光を吸収して、菌が爆発的に増殖しています!」
「回答。治癒魔法の本質は『細胞の強制分裂と生命力の活性化』。人体に侵入した細菌もまた『生命』であるため、魔法のエネルギーを無差別に吸収。増殖速度および毒素の排出量が、通常の四百倍に跳ね上がっています」
アイリスのシステマチックな音声が、残酷な真実を告げた。
(……やっぱりか。この世界じゃ、治癒魔法は『万能の薬』じゃない。ただの『細胞のブースター』だ。抗生物質で菌を殺さずに細胞だけを活性化させれば、体内の菌まで元気になって大増殖して当然だ!)
「神官!! 直ちに魔法をやめろ! それは治療じゃない、あんたが菌に餌を与えて患者を殺しかけてるんだ!!」
俺は広間に響き渡る声で怒鳴りつけ、サラ嬢のベッドへと一直線に駆け寄った。
「な、なんだ貴様は! 料理人ふぜいが、神の奇跡を邪魔する気か! 邪魔立てするなら不敬罪で……!」
「その奇跡が、あんたの目の前で何の罪もない子供を殺しかけてるんだろうが!」
俺は神官の杖を容赦なく手で弾き飛ばした。カランと乾いた音を立てて、豪華な杖が床を転がる。
神官が顔を真っ赤にして怒り狂い、周囲の護衛騎士たちに俺を捕らえるよう指示を出そうとした、その時だった。
「お下がりなさい、神官殿!」
フェリシアが、凛とした足取りで俺の前に出た。
その身から放たれるのは、俺に甘える時の母性あふれる慈愛とは対極にある、長年領地を治めてきた貴族の娘としての『絶対の威圧』だった。
「フェ、フェリシア嬢……?」
フォンテーヌ伯爵が驚いて目を見開く。
「フォンテーヌ伯爵様。突然の無礼をお許しください。ですが、この方は私の……ロズウェル家が全幅の信頼を置く、奇跡の料理人です。神の魔法で治せぬ絶望の病を…この私を治療してくださいました。」
フェリシアは胸を張り、一歩も引かずに神官と伯爵を見据えた。
「アルフレッド様は、病の原因をすでに見抜いておられます。間違った治癒魔法は、サラ様を死に追いやるだけ。……どうか、サラ様を、そして皆様の命をアルフレッド様にお預けください! ロズウェル家の名誉に懸けて、必ず皆様を救うと保証いたします!」
フェリシアの凛とした、しかし確固たる信念に満ちた声に、広間が水を打ったように静まり返る。
フォンテーヌ伯爵は、ベッドで苦しむ愛娘と、俺の決してブレない決意の目を交互に見つめ……深く、深く頷いた。
「……アルフレッド殿。頼む……! 娘を、皆を救ってくれ!」
「お任せください。……フェリシア様、最高の援護でした」
俺はフェリシアに短く礼を言い、背後でいつでも俺の指示に動けるよう待機しているセラを振り返った。
「セラ! アイリス! これからこの広間を『厨房』に変える。領民全員を救うための、最高の一皿特効薬を作るぞ!」
「はいっ! アル様の右腕として、全力でお応えします!」
「……ん。マスターの補助、並列処理を最大化する」
俺は鞄から愛用の銀のシェイカーを取り出し、無数に増え続ける目に見えない死神へと鋭い視線を向けた。
ここから先は、神の奇跡の出番じゃない。
現代の物理と化学、そして俺たちの『料理』の時間だ。
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