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第十九話:翠の杯、紅の宝石

新生バッカス亭がオープンして一月が経ち春の香りが山から降りてくる頃。ランチタイムの喧騒が一段落し、店内には仕込みの鍋が立てる静かな対流音と、オールド・オークの一枚板から漂う柔らかな木の香りが満ちていた。


厨房では、アルフレッドが夜の営業に向けた下準備を黙々とこなし、その隣ではセラが、完璧なタイミングで調理器具を渡し、洗い物を片付けている。


カラン、と。

澄んだ真鍮のベルが鳴り、一人の客が店に足を踏み入れた。


「いらっしゃいませ。お食事ですか?」


アルフレッドが声をかけると、その客――優しげな目元をした中肉中背の初老の男は、人の良さそうな笑みを浮かべて頷いた。


「ああ。少し遅めの昼食を取りたくてね。……しかし、ここは本当に酒場かい? 噂には聞いていたが、まるで王宮の一室のように磨き上げられているね」


男の服装は地味な平服だが、アルフレッドの『生化学のケミカル・アイ』は、男の衣服が最高級の絹と魔羊毛の混紡であること、そして微小な尿酸値の上昇(痛風の予兆)から、日常的に極めて質の高い美食を摂取していることを見抜いた。


(……身なりの良さとこの栄養状態。どこかの大商会の重鎮か、あるいは他領の有力な商人といったところか)


アルフレッドは内心で推測しつつ、バーテンダーとしての完璧な微笑みを向けた。


「ありがとうございます。清潔さは、酒と料理の味を決める第一歩ですから。どうぞ、カウンターへ」


男はゆったりと席につくと、少し汗ばんだ首元を緩めた。


「ここは酒場だったね。少し歩いて喉が渇いた。食事の前にまずは何か、渇きを潤せる爽やかな酒を作ってもらえるかな」


「かしこまりました。よく晴れた昼下がりにぴったりの一杯をお作りします」


アルフレッドの纏う空気が、料理人から『バーテンダー』のそれへと静かに切り替わる。


彼はカウンター下の魔法氷室から、気泡一つない極めて純度の高い透明な氷塊を取り出した。アイスピックを手にすると、迷いのない流麗な手付きで、瞬く間にグラスにぴたりと収まる美しい丸氷へと削り出していく。


「ほう……」


無駄を一切削ぎ落としたその洗練された所作に、男は思わず感嘆の息を漏らした。


アルフレッドは金属製のシェイカーに氷を入れ、ジュニパーベリーの香りが効いたジンベースの酒を注ぐ。そこに、朝摘みの新鮮な青柑橘をその場で絞った果汁と、ほのかな甘みを足すための自家製ハーブシロップを加えた。


――カシャカシャカシャッ!


店内に、心地よく、そしてリズミカルなシェイクの音が響き渡る。

氷が内壁に当たる軌道を完璧に制御し、余分な水分を出さずに空気をたっぷりと含ませる絶妙なスナップ。男は、その音の響きだけで、目の前の青年がただのバーテンダーではないことを悟った。


冷えた細身のグラスに注がれたのは、淡い翡翠色をした美しい液体だ。そこへ微炭酸のトニックウォーターを静かに注ぎ、バースプーンで氷を下から一度だけ持ち上げるようにステアする。


「『エメラルド・ブリーズ』です。喉の渇きを癒やすようアルコールは控えめに、柑橘の酸味と薬草の香りで爽やかに仕上げてあります」


男は静かにグラスを受け取り、一口含んだ。


「……っ!」


目が見開かれる。


弾ける繊細な炭酸と共に、柑橘の鮮烈な香りとジンの奥深いボタニカルな風味が、乾いた喉と身体の隅々にまで染み渡っていく。


驚くべきはそのバランスだ。シロップの甘み、柑橘の酸味、そして酒の持つわずかな苦味が、グラスの中で完全に調和している。冷たすぎることもなく、氷が溶けて味が薄まることもない、計算し尽くされた完璧な温度と濃度。


「素晴らしい……。ただの酒ではない、緻密に計算された芸術品だ。王都の高級クラブでも、これほどのものは……」


男が感嘆の声を漏らし、二口目をゆっくりと味わっていた、その時だった。


「アルフレッドさん! いるかい!」


勢いよく扉が開かれ、真新しい外套に身を包んだラモンが転がり込んできた。


その背後には、彼の部下らしき若者たちが、魔法の氷で厳重に冷やされた巨大な木箱をいくつも運び込んでいる。商会を設立し、大商人への第一歩を踏み出したラモンの顔は、活気に満ち溢れていた。


「ラモンさん。いらっしゃい。今日もいい顔をしていますね。そちらは、例の海産物ですか?」


「ああ! 男爵様からの出資のおかげで、王都を経由せずに最速のルートで海から運んできたぜ。マダイにスズキ、それに今回は巨大なタコも手に入った! だがな……」


ラモンはニヤリと笑うと、背負っていた鞄から、何重にも布と魔法の氷で包まれた小さな箱を取り出し、カウンターの上にドンと置いた。


「今日の本命はこっちだ。商会設立の、俺からの個人的な恩返しさ」


「恩返し? これは……」


アルフレッドが布を解くと、中から現れたのは、深い紅色をした肉の塊だった。表面には微かに黄色がかった脂が乗っており、獣肉特有の力強い匂いが鼻を突く。


「こ、これは……牛肉ですか?」


アルフレッドが驚きの声を上げると、カウンターでグラスを傾けていた初老の男も、思わず身を乗り出した。


「おいおい、牛肉だと? 商人殿、それは本気で言っているのかい?」


男が目を丸くするのも無理はない。この世界において、牛とは「畑を耕す労働力」であり「乳を出す財産」だ。肉として食卓に上るのは、寿命を迎えた硬い老牛くらいのもの。


「ただの牛肉じゃねえ。王都のさらに奥、特別な牧草地で王家への献上品として育てられていた『若い去勢牛』の肉だ。商会を立ち上げたばかりの俺に伝手なんてあるわけねえ。俺のありったけの個人資産を積んで、王都の闇市に近いルートから無理矢理引っ張ってきた超高級品だぜ」


ラモンは誇らしげに胸を張った。

「あんたの魔法のような腕で、こいつを最高の料理にしてやってくれ。俺も、あんたの作る『本物の牛肉』ってやつを一度食ってみたくてな!」


(……なるほど。現代で言うところのヴィール(仔牛)とまではいかないが、若牛のロース肉か。確かに、この世界では金貨を積んでも手に入らない代物だろう)


アルフレッドは肉の断面を見つめた。


【生化学の眼】が告げるデータによれば、確かに若く質の良い肉だが、美しいサシ(霜降り)はない。赤身主体で、筋肉の繊維はまだ強固に結びついている。普通に焼けば、硬くパサついた仕上がりになるだろう。


「……店主。失礼だが、その見事な肉、私にも少し分けていただけないだろうか? もちろん、金に糸目はつけない」


初老の男が、たまらないといった様子で声をかけてきた。先程のカクテルで、すっかりアルフレッドの腕に魅了されているようだ。


ラモンが少し戸惑ったようにアルフレッドを見たが、アルフレッドは涼やかな笑みを浮かべた。


「ええ、構いませんよ。ラモンさん、少しお裾分けしてもいいですか? これだけの極上品です、美食を知る方に相伴していただくのも一興でしょう」


「あんたがそう言うなら構わねえさ! 頼むぜ、アルフレッドさん!」


「承知しました。……セラさん、付け合わせの準備を。ジャガイモのピューレと、人参のグラッセ。それから、赤ワインのソースのベースをお願いします」


「はい、アル様」


セラが流れるような動きで別コンロの火に点火し、無駄のない所作で野菜の下処理を始める。


アルフレッドはまな板の上に若牛のブロック肉を置き、ペティナイフを手にした。


(アイリス。いくら若牛とはいえ、この世界の牛だ。筋繊維の結合は現代の肉より遥かに強い。固有スキル『暴飲暴食の聖域メディカル・カクテル』を起動しろ。……これより、この肉の『疑似的長期熟成エイジング』を秒単位で行う)


【了解:マスター。対象の分子構造に魔力干渉を開始します。筋肉内のプロテアーゼ(タンパク質分解酵素)を極限まで活性化。……コラーゲン繊維の断裂を促進し、ゼラチン質への軟化を誘導。同時に、タンパク質をアミノ酸(グルタミン酸等)へ分解し、旨味成分を最大化します】


アルフレッドの指先から放たれた微細な魔力振動が、肉の内部構造を劇的に書き換えていく。数週間に及ぶ氷温熟成でしか得られない芳醇な香りと圧倒的な柔らかさが、たった数秒でこの肉の内部に生み出された。

アルフレッドはその肉を、惜しげもなく三センチ以上の極厚のステーキ状に切り分けた。


「……そ、そんなに分厚く切っては、中まで火が通る前に外が焦げてしまうし、到底噛み切れないぞ?」


男が思わず口出しをする。この時代の肉の焼き方といえば、薄く切ってカリカリに焼くか、串に刺して丸焦げにするかの二択しかないのだ。


「お任せください。……肉の旨味は、その厚みの中にこそ閉じ込められるのです」


アルフレッドは分厚い鉄のフライパンをコンロに置き、ラモンから仕入れたばかりの新鮮な牛脂を溶かした。


そこへ、軽く岩塩を振っただけの極厚の肉を投入する。


――ジュゥゥゥッ!!


猛烈な音と共に、赤身の肉が焼ける野性味に溢れた芳醇な香りが、店内に爆発的に広がった。


「おおっ……!」


ラモンと男が、同時に喉を鳴らす。


アルフレッドの目は真剣そのものだった。


「表面のタンパク質を高温で一気に焼き固め、メイラード反応による『香ばしい壁』を作ります」


彼はフライパンを傾け、溶け出した牛脂と、追加した発酵バター、ニンニク、香草の束を肉に絡ませながら、スプーンで熱い脂を何度も肉の上からかけ続ける『アロゼ』の技法を用い始めた。


(アイリス、深部温度をモニターしろ。摂氏54度、ミディアム・レアの限界点を狙う)


【報告:表面温度180度、メイラード反応最適化。深部温度上昇中……48度、50度、52度……。タンパク質の過度な収縮を防ぐため、火から下ろすタイミングを算出します。……今です】


「セラさん、ソースを!」


フライパンから肉を取り出し、休ませている間に、セラが煮詰めていた赤ワインとエシャロットのソースに、フライパンに残った肉の旨味フォンを合わせる。酸味とコクが一体となった濃厚な香りが立ち昇った。


「……お待たせしました。若牛の極厚ステーキ、赤ワインとエシャロットのソースです」


温められた純白の皿の中央に、堂々と鎮座する極厚のステーキ。その横には、シルクのように滑らかなジャガイモのピューレが添えられている。


男は震える手でナイフとフォークを手にした。

ナイフを肉の表面に当て、軽く引いた瞬間。


「……な、なんだこれは……ッ!?」


男が驚愕の声を上げた。分厚い肉塊であるにもかかわらず、ナイフはまるで柔らかなバターを切るかのように、抵抗なくスッと底まで沈み込んだのだ。


切り分けられた断面を見て、ラモンも息を呑む。

外側はカリッと香ばしく焼き上がっているのに、中心部分は血の滴るような生焼けではなく、完璧に均一な、艶やかなローズピンク色に染まっていた。


男は、その一切れをソースにたっぷりと絡め、口へと運んだ。


咀嚼した瞬間、男の動きが完全に停止した。


(……っ!? なんだ、この歯触りは。歯を立てる必要すらない。唇で噛み切れるほど柔らかいのに、肉の繊維が解けるたびに、中から信じられないほどの肉汁が溢れ出してくる!)


男の脳内で、これまでの美食の常識が音を立てて崩れ去っていく。


(牛とは、これほどまでに甘く、濃厚で、力強い旨味を持った生き物だったのか! そしてこのソース……。赤ワインの酸味とエシャロットの香りが、肉の圧倒的な野性味を完璧に手懐け、高貴な芸術品へと昇華させている。付け合わせのピューレも、肉汁と混ざり合うことで至高のクリームへと化ける……!)


「……う、美味すぎる。俺の全財産叩いて買ってきた肉が、こんな……神々の食べ物みたいな味になるなんて……ッ!」


隣で食べていたラモンは、あまりの感動にボロボロと涙をこぼしながら、一心不乱に肉を口に運び続けていた。


男は、最後の一切れを惜しむように飲み込むと、深く、長く息を吐き出した。

その目には、驚愕、歓喜、そして深い感銘の光が宿っていた。


「……素晴らしい。本当に、信じられないほどの奇跡の味だ」


男は立ち上がり、アルフレッドに向かって深く頭を下げた。


「代金はここに置いておく。……店主、いや、アルフレッド殿。今日は最高の酒と、極上の体験をさせてもらったよ」


男は多額の金貨をカウンターに置くと、名残惜しそうにもう一度店内を見渡し、静かに店を後にした。


「……すげえな、あの親父。酒一杯とステーキの代金に、金貨数枚も置いていきやがったぞ」


ラモンが目を丸くして金貨を見つめる。

アルフレッドも、去っていく男の背中を見送りながら小さく息をついた。


(やはり、ただの商人ではないな。……まあ、誰であれ、満足してもらえたのならバーテンダー冥利に尽きるというものだ)


アルフレッドはカウンターの上の金貨をそっと片付けながら、静かに微笑んだ。

ステーキは糖尿病でも食えるんですがね。

付け合わせのポテトですよ。芋ってのは大敵です…


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