閑話:フェリシア
ロズウェル男爵邸、フェリシアの私室。
夜の帳が下りた静寂の中、フェリシアは鏡台の前に座り、艶を取り戻した髪をゆっくりと梳かしていた。
鏡に映る自身の黄金色の瞳が、ランプの灯りを受けて優しく揺らめいている。
身体の奥底から、ぽかぽかとした心地よい熱が全身を巡っていた。数時間前、父である男爵と共に『バッカス亭』で味わった、あの素晴らしいコース料理の余韻だ。
前菜からデザートに至るまで、計算し尽くされた味わいと、魔法のように美しいカクテルの数々。それらはただ美味しいだけでなく、食べる者の身体を労わり、命の歓びを謳歌させるような深い愛情に満ちていた。
かつて、心の病でベッドに縛り付けられ、骨と皮だけになって死を待つしかなかった自分。どんな高位の神官もさじを投げたその絶望から、彼特製のスープと美しいカクテルが救い出してくれた。
命の恩人。そして、フェリシアが生涯を捧げると決めた、ただ一人の男性。
今日、カウンター越しに料理を振る舞うアルフレッドの姿を見つめながら、フェリシアの胸の内には、単なる恋心や熱情とは違う、ある不思議な感情が芽生えていた。
無駄のない動きで次々と奇跡の一皿を創り出す彼の横顔は、どこまでも頼もしい。けれど、ふとした瞬間に見せる、少しだけ肩の力が抜けたような無防備な表情。
(あの方は、他人に与えてばかりだわ)
自分を死の淵から引き上げ、父や街の人々にも極上の幸福を惜しみなく提供している。
けれど、彼自身はどうなのだろう。夜遅くまで厨房に立ち、誰かのために心を砕く彼に、温かいお茶を淹れて「お疲れ様」と微笑みかける存在はいるのだろうか。
「私が……あの方の休まる場所になりたい」
気付けば、そんな言葉が口をついて出ていた。
彼を独占したいという少女のような欲求よりも、無理をしてしまいがちなその背中を、そっと抱きしめて守ってあげたい。彼が背負っている見えない重圧を、私が少しでも軽くしてあげたい。
ふと、彼の隣で黙々と立ち働く、美しい少女——セラの姿が脳裏に浮かぶ。
彼女がアルフレッドに向ける、信仰にも似たひたむきな眼差し。出自は違えど、彼女もまたアルフレッドに命を救い上げられた一人なのだろう。フェリシアの黄金色の瞳は、嫉妬ではなく、慈しむように細められた。
(あの子は、きっとアルフレッド様の『右腕』。けれど、あの方の心にはもっと広く、安らげる『帰る場所』が必要よ)
ならば、私がその場所になればいい。
アルフレッドを支えるセラごと、まるごと大きな揺り籠で包み込んで、二人を甘やかしてしまえばいいのだ。料理の腕ではセラに敵わなくとも、私には私にしかできない彼への尽くし方がある。
今日、帰り際の馬車の中で、父が上機嫌に語っていた言葉を思い出す。
『あの素晴らしい腕前、ぜひ我が友であるフォンテーヌ伯爵にも紹介したいものだ。あそこは我が領地の清流の水源……極上の水と食材が揃う土地だ。アルフレッド殿もきっと喜ぶだろう…』
(フォンテーヌ伯爵領……)
フェリシアの唇に、ふわりと淑女の微笑みが浮かぶ。
もし父が本当に彼をフォンテーヌ伯爵に引き合わせるのなら、遠からず、アルフレッドは伯爵領へと足を運ぶことになるはずだ。
王都の下町で店を営む彼にとって、大貴族との折衝や他領への旅は、未知の領域。そこで彼と大貴族との間を取り持ち、円滑な関係を築くための『架け橋』が必要になる瞬間が、必ず来る。
(その時が来たら、私が最高のサポートをして差し上げましょう)
決して無理強いはしない。ただ、彼がふと困った時に、最も頼りになる存在として隣に寄り添う準備をしておくだけだ。彼にとって『私がいなくては立ち行かない』と思わせるほど、優しく、甘く、徹底的に世話を焼いてみせる。
彼を包み込む、世界で一番温かくて甘い揺り籠になる。
フェリシアはそっと胸元に手を当て、まだ見ぬその日に向けて、愛しい人の名前を子守唄のように小さく呟いた。
◇◇◇
『——ピィン』
星明かりすら届かない次元の狭間で、不可視の歯車が微かに回る。
【通知:個体名『フェリシア・ロズウェル』の精神波長において、広域に及ぶ特異な拡張を確認】
【属性判定:『慈愛』『庇護』『受容』】
【現在、魂の変容兆候はなし。特異個体としてシステムログに観測記録を保存します】
黄金の瞳に宿ったその深く温かい誓いもまた、セラのそれと対を成すように、世界の理の片隅へと静かにファイリングされた。
なにかに記録されちゃいましたねぇ…
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