閑話:セラ
本日は複数投稿しますのでご注意ください
19話への繋ぎも含まれたものが有ります。
朝の冷気がまだ残る男爵領の街角。新生『バッカス亭』の扉を一枚隔てた店内には、すでに微かな熱気と、仕込みによる芳醇な香りが漂い始めている。
オールド・オークの一枚板を磨き上げた真新しいカウンター。セラは、その滑らかな表面を愛おしむように、真っ白な布巾でゆっくりと拭き上げていた。
「……」
ふと手を止め、視線を厨房の奥へと向ける。
そこには、今日の仕込みに集中しているアルフレッドの背中があった。
無駄の一切ない、洗練された動き。包丁がまな板を叩くリズミカルな音、鍋から立ち上る湯気の向こうで見え隠れする、研ぎ澄まされた横顔。
それを見つめているだけで、セラの胸の奥が甘く締め付けられ、心臓がトクトクと早鐘を打つ。手元の布巾を握りしめる力が、無意識に強くなった。
ほんの数ヶ月前まで、自分は『人間』として扱われてすらいなかった。
男爵領の暗部で蠢く闇医者、ガレン。彼の下で、セラは劣悪な環境でこき使われる奴隷同然の看護助手であり、ただの便利な「物」だった。
光の差さない地下室、冷たい石の床。漂うのは血と膿の臭いと、鼻を突く不快な薬品の匂いだけ。与えられるのは家畜以下の残飯で、少しでも粗相をすれば容赦のない暴力が飛んできた。殴られ、罵られ、骨と皮だけになった身体で、ただ泥水のように冷たい絶望の底に沈んでいた。
明日生きている保証などなく、生きる希望もなかった。痛みと飢えに感覚すら麻痺し、いつしか心は完全に凍りついていたのだ。
だから、アルフレッドを殺すための猛毒を自ら飲み干したあの夜も、彼女はすべてを諦めていた。
(これで、やっと終わる……)
内臓をドロドロに溶かすような激痛の果てに、静かな死が訪れる。そう信じて疑わなかった。
だが、彼は違った。
アルフレッドは彼女の体内で暴れ狂う毒の構成を瞬時に読み解き、なんと彼女を生かすための『養分』へと変換してのけたのだ。
あの夜、彼が行ったのは「薬を飲ませる」ような生ぬるい医療ではない。
それは、極上の肉の繊維を紐解き、旨味を閉じ込めて再構成する『調理』そのものだった。
アルフレッドは自らがメディカルカクテルを直接セラの細胞組織へと干渉させ、瀕死の肉体を根底から作り替えたのだ。
熱い。だが痛まない。焼け焦げるような毒の苦痛が、凄まじい生命の奔流へと反転し、枯れ果てていた細胞が爆発的に再生していくあの感覚。
それは、凍りついて砕け散る寸前だったセラの魂を、もう一度世界に繋ぎ止め、無理やり燃え上がらせるような圧倒的な御業だった。
そして翌朝。目を覚ましたセラが自らの身体を見た時の衝撃は、生涯忘れることはないだろう。
ガリガリで無数の傷跡に覆われていた身体は、たった一晩で劇的に変化していた。
薄いシュミーズ越しに自分の身体に触れてみる。ふっくらとした胸元、滑らかな肌の感触、指先まで血の通った温もり。
毎朝鏡を見るたびに、これが本当に自分なのだろうかと疑ってしまうほどの、健康で大人びた女性の肉体。
すべては、あの夜、彼の手によって「一から創り直された」ものだ。
(私は、アル様の手で再構築された命。私の血も肉も、すべてはアル様が与えてくださったもの……)
カウンターを拭く手を動かしながら、セラは小さく息を吐いた。
命の恩人。絶対の主。そして創造主。
彼の命令なら、火の中だろうが毒の中だろうが笑顔で飛び込める。彼を害する者がいれば、迷わずこの手で排除する。そのためなら惜しむものはない。
「便利な道具」としての人生を、彼女自身が望んでいた。
しかし、最近になって、自分の感情がそれだけでは収まらなくなっていることにセラは気づいていた。
バッカス亭での忙しくも充実した日々。彼が客の好みに合わせて手際よく料理を仕上げる姿に見とれて、つい息を止めてしまう自分。
そして何より——彼がフェリシアに優しく接するのを見た時の、胸の奥がチリッとするような痛み。
フェリシアは美しく、純真で、真っ直ぐな貴族の令嬢だ。アルフレッドに命を救われたという点では自分と同じだが、彼女は光の当たる場所を歩く人間だ。
けれど、フェリシアを救ったのは彼が作った極上の『料理』。
(私の身体は、アル様の手で直接、その髄まで創り変えられた……)
そんな密かな優越感と、光の当たる場所を歩くフェリシアへの仄暗い嫉妬が入り混じる。
アルフレッドを独占したい、私だけを見てほしい。彼に触れたい。
そんな醜くも生々しい感情が湧き上がってくる自分に、セラは戸惑っていた。
(言えない。恩人であるアル様に、こんな……女としての感情を抱いているなんて)
私は薄汚れた過去を持つ女。彼の輝かしい未来の隣に、妻として立つ資格なんてない。
だから、この想いは決して口には出さない。胸の奥底の、誰にも見つからない場所に頑丈な鍵をかけて隠しておく。
けれど、せめて彼の隣で、誰よりも完璧なサポートをこなす『右腕』は、この私でありたい。
仕込み、接客、掃除、そして裏の仕事。彼が料理と探求にだけ集中できるように、あらゆる障害を私が取り除く。彼にとって、空気のように自然で、なくてはならない存在になるのだ。
「セラ、おはよう。朝の賄い、今日は君の好きな魚のポワレにしてみたけど、食べるか?」
厨房から、アルフレッドの優しく、どこか無頓着な声が響いた。
その声を聞いた瞬間、セラの胸を満たしていた仄暗い感情や葛藤は、春の陽光を浴びた朝霧のようにあっけなく消え去った。
「はい、アル様! 今行きます!」
弾むような声で返事をし、セラは布巾を綺麗に畳む。
熱を帯びた頬を両手で軽く叩いて気合を入れ直すと、彼女は愛しい主が待つ厨房へと、軽やかな足取りで向かっていった。
この身も心も、すべては彼のために。
それが、セラという少女の、世界で一番甘くて重い『秘密』だった。
◇◇◇
『——ピィン』
誰の耳にも届かない、無機質な電子音のような響きが虚空に溶ける。
【通知:個体名『セラ』の精神波長において、規定値を大幅に超える特異な閾値突破を確認】
【属性判定:『狂信』『献身』『所有欲』】
【現在、魂の変容兆候はなし。特異個体としてシステムログに観測記録を保存します】
少女の重すぎる願いは、まだ誰にも知られることなく、静かに世界の深淵に刻み込まれた。
蛇足かな?でもセラさん静かすぎるから静かにちゃんと気持ちがあるのを書きたかったんです。
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