平安時代ー無名
敦姫は、最後に一度だけ、言の葉の君に会う。
御簾越し。
姿は見えない。
それでよかった。
敦姫は、静かに微笑って言った。
敦姫「……お幸せに」
声は、澄んでいた。
言の葉の君の声が、震える。
言の葉の君「……敦姫」
敦姫は、ゆっくりと首を振る。
敦姫「……もう、名前を呼ばないでください」
敦姫「それは……
正妻の方だけに許された音です」
沈黙。
御簾の向こうで、衣擦れが微かに鳴る。
敦姫は、続ける。
敦姫「……でも」
一瞬だけ、声が柔らぐ。
敦姫「……来世では」
敦姫「……どうか、呼んでください」
敦姫「その時は……
立場も、名も、役目もない場所で」
言の葉の君は、言葉を失い、
初めて、声を殺して泣いた。
敦姫は、それを聞きながら、
最後まで微笑っていた。
ーーー
■ 京を去る朝
春の朝。
牛車の前。
敦姫は、都の屋根を振り返らない。
代わりに、懐から短冊を取り出す。
静かに、一首。
逢はぬ世に
名を残さずに
別れゆく
それでも恋は
風に消えずに
(逢えぬ世に
名を残さず別れてゆくけれど
それでもこの恋は
風のように、消えずに在る)
敦姫は、そっと短冊を畳む。
敦姫「……これで、よいのです」
誰に聞かせるでもなく。
ただ、自分に言う。
短歌は一風の風に舞い上がる。
……高く⋯高く
敦姫はそれを見届ける事なく目を伏せる。
……牛車は、静かに都を離れる。
恋を、連れて。




