第九話 共闘と共鳴
裏路地の奥、朽ちかけた祠の前で、えるまは足を止めた。
「……ここだ」
小さく呟く。手にした饅頭の最後の一口を、ゆっくりと咀嚼しながら。
久米が横に並び、祠を見る。
「これが身代わり地蔵、ですか」
「うん」
えるまは頷いた。律の乱れは、間違いなくここから伸びていた。
ダフニアからの情報は正しかったことになる。それはそれで新たな疑問を呼ぶのだが、まずはこの歪みを調律しなくてはならない——だが。
歪みは地蔵を中心として板橋区一帯に、細い糸のように伸びていた。
地蔵だけを調律すると、大元から外れた歪みがどう影響を及ぼすのかわからない。
最悪、大元が糸を伝って逃げる可能性もあった。
「一如に伝えないと」
えるまはそう言うと、踵を返した。
◇
祝杯の席は、既に静まり返っていた。丸木や黒服たちが慌ただしく動き回る中、一如は苦い顔で地図を睨みつけている。
「一如」
えるまが声をかけると、一如は顔を上げた。眉間の皺が深くなる。
「僕を呼び捨てにするなと……まあいい、何のようだ?」
「根、見つけた。手伝ってほしい」
単刀直入に言うと、一如は鼻で笑った。
「は? 勝負中の相手に協力しろと? 冗談も大概にしろ」
「被害者が出てる」
えるまの言葉に、一如は苛立たしげに舌打ちする。
「僕の占術に不備があったとでも言いたいのか」
「問いの立て方が間違っていた」
そのとき、丸木が一如の耳元に何事か囁いた。えるまの位置からは、その内容までは聞き取れない。ただ、丸木の口元が小さく動き、一如の表情がわずかに変わったのは分かった。
一如は黙り込んだ。数秒の沈黙。
「……案内しろ」
先ほどまでの苛立ちは完全に消えてはいないが、なぜか心変わりをしたらしい。えるまは特に何も聞かず、ただ小さく頷き返した。
「うん」
◇
祠の前に立つと、一如は僅かに眉をひそめた。
「……身代わり地蔵、か」
苔むした地蔵の輪郭を見つめる一如の横顔には、これまでとは違う硬さがあった。えるまはそれ以上気にせず、懐から音叉を取り出す。
澄んだ金属の輝き。えるまはそれを軽く打ち鳴らした。
――キィン。
音が響いた瞬間、地蔵の表面に、目には見えないはずの何かが浮かび上がった。無数の糸のような線が、地蔵の中心から放射状に伸びている。板橋区一帯へ。細く長く、絡み合いながら伸び続ける歪みの根。
「……これは」
一如が息を呑む音が聞こえた。
「わかる?」
「これだけ目立てば、嫌でもわかる」
珍しく素直な返答だった。一如の目は、地蔵から伸びる線をじっと見つめている。長年放置された怨嗟か、あるいは忘れられた祈りか。途方もない時間蓄積された歪みがそこにはあった。
「私は根本を、一如は枝葉を」
「……僕の負担する数が多い。勝負は僕の勝ちにしろ」
一如は懐から梓弓を取り出した。漆黒の弓身が、夕闇の中でぼんやりと浮かぶ。
「好きにしたらいい」
えるまが音叉を構える。一如が弦を引き絞る。
――ビィン。
――キィン。
2つの音が重なった瞬間、地蔵が震えたように見えた。
弦の一音が、地蔵から伸びる線の遠い先端、はるか彼方まで伸びた歪みの末端を撃ち抜く。
一如の額に汗が浮かぶ。えるまも、音叉を握る指先に力がこもる。
遠と近。広と精。異なる流派の律が織りなす調和の響き。
えるまの奏でる不協和音が、地蔵そのものに蓄積された律のもつれを、一本ずつ丁寧に解きほぐす。
線が一本、また一本と、震えながら収束していく。長年こごり続けた歪みが、少しずつ、少しずつ緩んでいく。
地蔵の奥底に封じられていた何か、その重苦しい響きが伝わってきた。




