第十話 想いと重い
地蔵の奥底に封じられていた何か、その重苦しい響きが伝わってきた。
ただ一つの――おそらくは、この地蔵に最初に手を合わせた人物の――声だった。
『これでいい』
感情の起伏はほとんどない。むしろ、事務的とすら言えるほど平坦な響きだった。
『誰かが引き受ければ、それで済む話だ。私が病めば家が傾く。私が咎を負えば家が絶える。ならば、石に――』
積み重ねられた想いは、重さとなった。歪んだ律を蓄積するために"かたち作られていた"。長い年月をかけて、その一つの思考だけが地蔵の芯に沈殿し、固まっていったのだろう。他の誰の声も、そこには残っていない。
本来引き受けるべき者の身代わりとなった分の歪みが、糸のように板橋区中に伸びて被害を引き起こしていた。押し付けた側の言い分だけが、地蔵の中心に、涼しい顔で居座り続けていた。
えるまの音叉を握る指先の力は変わらない。むしろ、声の輪郭がはっきりした分だけ、律の構造がより鮮明に見えるようになった。誰が、何を、どうやってこの歪みを組み上げたのか。えるまにとってそれは、感情の物語である以前に、調律すべき一つの構造だった。
――キィン。
もう一度、音叉を鳴らす。今度の音は、さっきよりも硬い。声そのものに合わせて周波数をずらし、その"平然とした正当化"の芯へ、正確に不協和音を撃ち込む。
声が、揺らいだ。
地蔵の中心にわだかまっていた"それでいい"という固まりが、少しずつ、ほどけていく。
隣で弦を引き絞ったままの一如が、束の間、動きを止めているのに気づいた。えるまは横目でちらりと見たが、何も言わなかった。
一如の視線は、地蔵ではなく、えるまの手元に注がれていた。
いや――目だけではない。耳も調律の音に傾けられていた。
えるまが音叉を鳴らすたび、音の高さはほんの僅かずつ変わる。地蔵の律が緩むごとに、澄む方向へ。濁っていたものが、少しずつ透き通っていく。
その変化を、一如は聞き逃すまいとしているようだった。
弦を引く手の動きが、心なしか遅くなる。次の一音を放つより先に、えるまの音叉が描く変化を聞き切ろうとしているかのように。一如の弓音が、えるまの不協和音と重なり、調和のとれた共鳴に変わってゆく。
——キィン。
——ビィン。
声の輪郭が、また少し薄れる。
いつもなら急かすように矢を放つ一如が、今日は珍しく、えるまの音が鳴り終わるのを待ってから弦を引いた。
◇
線は、もう数えるほどしか残っていなかった。
地蔵の中心にわだかまっていた"それでいい"という声も、輪郭を失いつつある。えるまは音叉を打ち鳴らすたび、その周波数をわずかに変えながら、最後の縺れを一つずつ丁寧に解いていった。
――キィン。
最後の一音。
地蔵から伸びていた無数の線が、一斉に、しかし静かに、地蔵の中へと吸い込まれるように消えていく。板橋区一帯に広がっていた歪みの気配が、潮が引くように収まっていった。
一如の放った最後の矢が、遠い先端で歪みの残滓を撃ち抜く。
――ビィン。
それきり、あの重苦しさは掻き消え、心地よい静寂だけが残った。
苔むした地蔵は、もう何も語らない。ただの石に戻ったように、夕闇の中でひっそりと佇んでいる。
えるまは音叉をしまい、軽く息を吐いた。
「終わった」
「……ああ」
一如は梓弓を下ろし、地蔵をしばらく見つめていたが、やがてぽつりと言った。
「今日は僕の負けでいい」
えるまが目を瞬かせる。一如はそれ以上の説明をせず、懐から一枚のチケットを取り出した。
「くれるの?」
「勝負の約束だったからな」
えるまはチケットを見つめ、それから一如を見て、また特に何も考えていなさそうな顔で頷いた。
「ありがとう、久米さんも喜ぶと思う」
言うが早いか、えるまはそのチケットをパッと受け取ると、久米に電話をかけ始めた。
「あ」
一如の声に、電話を耳に当てたまま、えるまが振り返る。
「?」
「……なんでもない」
彷徨わせていた手を下ろし、力なく呟く一如。
成り行きを見守っていた丸木が、額に手を当て、静かに首を振った。




