第八話 梓弓と占術
「気になることがあるので、少し歩いてきます」
えるまはふらりと一如たちの輪から離れていった。その後を久米が慌ててついていく。
「……は?」
「ではまた後で」
勝負を蔑ろにするかのような態度に、苛立ちを覚えた一如は顔を顰めた。
(けっこう。好都合だ)
相手の考えがどうだろうと勝負は勝負。むしろ、好都合だ。
「丸木、地図を」
「はっ」
広げられた板橋区の地図に向けて、6mほど離れたところから念矢を放った。
――ヒュン。
小さな風切り音とともに、地図にいくつか小さな穴が開く。オビシャ占術。律の乱れが強く滲む場所を、矢自身に選ばせる御弓流の秘術。
「……ここか」
地図に刻まれた現場まで到着すると、確かに歪みの気配を感じた。
一如は懐から梓弓を取り出す。漆黒の弓身に幾何学的な紋様が浮かぶ、御弓流に代々伝わる儀式専用の一張り。弦を引き絞り、指の腹で弾く。
——ビィン。
空気を裂くような一音が響く。一如の耳が、いや耳というより存在全体が、その振動の返り——反響として跳ね返ってくる律の乱れを聴き取る。
御弓流の技は、音叉流のように目の前で歪みと直接せめぎ合うものではない。遠く、広く、正確に。這うように伸びた律の乱れの先端を、弦の一音で撃ち抜く。
弦を引き絞る。もう一度。
乱れが震え、収縮していくのが分かる。祖父から幾度となく叩き込まれた間合い。狙った的を外したことは、これまで一度もない。
「終わりだ」
歪みが完全に鎮まったのを確認し、一如は弓を下ろした。
「お疲れ様です、一如様」
「ああ」
丸木の声に、口元だけで応える。
これで全て片付いた。律は正された。あとは、あの音叉遣いがどれだけ無駄足を踏んで帰ってくるか、それを眺めて笑ってやるだけだ。
一如は弓を丸木に渡し、空を仰いだ。
「勝負はついた。今夜は祝杯といこうじゃないか」
◇
「一如様の業前、本日も見事なものでした」
丸木の言葉に鷹揚に答えを返す一如。
「当然だ。この程度、造作もない」
注がれた杯を一息に呷る。喉を焼く感触すら、今日は心地よかった。
「あの音叉遣いは、今頃何をしているんだか」
「さあ。まだ戻られていないようです」
「戻ってきた頃には、全部終わっているというわけだ。せいぜい悔しがるといい」
これで僕の昇級も間違いないだろう。
二杯目、三杯目と杯が重なっていく。丸木を含め、黒服たちは甲斐甲斐しく酌をしている。
――そのとき、懐のスマホが鳴った。
画面に浮かんだ表示は、自分の別域担当官のものだった。
(今更なんだ)
結果を出した以上、文句は言わせない。一如は上機嫌のまま画面をスワイプした。
「何の用だ? 全てこの僕が解決してやったぞ」
「その件ですが」
電話越しの声が硬い。
「板橋区内で、新たに原因不明の怪我人が出ました」
「そんなはずはない、歪みは全て整えた」
「ですが現に被害が出ております」
一如は、丸木に梓弓を持ってこさせると、地図に向かって念矢を放つ。
「馬鹿な……」
地図には新たな無数の黒点が刻まれていた。




