第二十一話 木々と忍び寄る気配
登山道は、思ったよりも緩やかに始まった。
舗装はされていないが、踏み固められた土の道が続いている。木漏れ日が足元に揺れる模様を落とし、鳥の声があちこちから聞こえた。
「意外と歩きやすいですね」
あきらが軽い足取りで進みながら言う。まだ息も上がっていない様子だった。
「最初のうちは」
久米が答える。地図を片手に、ペースを確認しながら先頭を歩いていた。
えるまは列の最後尾で、周囲の気配を探りながら歩を進めていた。今のところ、律の乱れらしきものは感じない。ただの、静かな山道だった。
一時間ほど歩くと、道が徐々に険しくなってきた。木の根が地面を這うように張り出し、傾斜もきつくなる。あきらの息が、少しずつ荒くなり始めた。
「はぁ……思ったより、キツいです……」
「大丈夫?」
「だい、じょうぶ、です……ぽっぷんきゃんでぃで、糖分補給、しますから……」
あきらは息を切らしながらも、トートバッグから一粒取り出して口に放り込んだ。すぐに顔をしかめる。
「げほっ……これ、ジンジャー味……失敗した……」
久米が振り返り、小さく笑った。
「休憩にする?」
「い、いえ……大丈夫です……頑張ります……」
あきらは涙目になりながらも、歩みを止めなかった。えるまはその様子を横目に見ながら、ふとポケットの中のキャンディーに手を伸ばした。メロンソーダ味は、まだ残っている。ひとつ口に含むと、甘さが疲労を少しだけ紛らわせてくれた。
登山道の脇に、木製の道標が立っていた。文字はほとんど消えかけている。この先、道なき道になる——久米の言葉を思い出しながら、えるまは道標を通り過ぎた。
◇
道が完全に途切れたのは、それから三十分ほど歩いた頃だった。
目印になるようなものは何もない。ただ、木々の密度がわずかに変わり、足元の地面も湿り気を帯びてきた。
久米がスマホのGPSと座標を照らし合わせる。
「ここから先は、コンパスと勘が頼りね」
「任せて」
えるまは短く答えると、先頭に立った。律の乱れの気配というものは、目に見えるものではない。だが、感じることはできる。空気の密度が、ほんのわずかに違う。肌を撫でる風の質感が、どこか不自然に淀んでいる。
しばらく無言で歩を進めるうち、えるまの足が自然と止まった。
「……えるま?」
久米が怪訝そうに声をかける。えるまは答えず、目を細めて周囲を見渡した。
――違う。
微かな違和感だった。木々のざわめきに紛れて聞こえる、風とは違う何か。人間の呼吸のような、それでいて呼吸とは思えないほど静かな気配。
「久米さん。あきら。少し離れて」
「え?」
あきらが不安そうな声を上げる。えるまはポケットから音叉を取り出した。まだ鳴らしはしない。ただ、指先で感触を確かめるように握る。
(律の乱れ、じゃない)
えるまの感覚が捉えているのは、歪みそのものではなかった。もっと生々しい、人の気配。それも、こちらを窺うようにじっと動かない何か。
「――誰?」
えるまは木々の奥へ向かって、静かに問いかけた。
答えはない。だが、確かに、木の陰の向こう側で、何かが微動だにせず息を潜めているのが分かった。
久米がホルスターに手をかける。あきらは思わず、久米の後ろに半歩下がった。
「えるま、これって——」
「わからない。でも」
えるまは音叉を握る手に、僅かに力を込めた。
「何かが、いる」
風が止んだ。木々のざわめきさえも、一瞬だけ遠のいたように感じられた。
次の瞬間、木の上から、鋭い風切り音が降ってきた。




