真実
ハティ、君が帰ってきたら君にどう声を掛ければいいのか、ずっと迷っていた。
心配する?
怒る?
泣き落とす?
懇願する?
冷静になって問いただす?
けれど、君の姿を見た瞬間、それまでに頭の中で考えていたいろんな言葉はどこかに吹っ飛んでいってしまった。
そして、僕はそれまで抱えてきた、色んなものと対峙することになる。
どんな形であれ、僕とハティの運命の輪が急速に回り始めていた。
──
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開け放たれた扉から月光が差し込んでくる。
ハティがやっと帰ってきてくれた! 僕ことマーニは色んな感情をないまぜにしながらも、無事帰ってきてくれたことに喜んだ。
「おかえりなさい、ハティ。どこ行ってたの? 夜危ないから出歩かないで──って」
僕は言葉を途切れさせてしまう。
何故か?
ハティの体が血まみれだったからだ。
慌てて僕は問いただす。
「ハティ、その血どうしたの? 怪我したの?」
「いいえ、私目の体はどこも障りないですよ」
ハティは僕を安心させるように微笑むけれど、ハティの血でないというのならば一体……。
そこで僕はハッと気づく。新聞の記事。最近ちまたの毎夜ごとの殺人事件。
まさか……。
僕の表情を読んで、ハティは目を細めた。
「……ああ、バレてしまいましたか」
バレたってなにが? けれど、僕は怖くてなにも口にできない。
けれど、ハティは自ずから滔々と語り出した。
「貴方様が綺麗だと言ってくれた髪でしたから黒く染めれなかったのですよね。黒であれば血がついていたとしてもバレなかったでしょうか。ふふっ、本当に私は貴方様のことになるとダメですね」
ハティは残念そうに自らの髪を撫でた。いつもなら月光に煌めく銀の髪が、血に汚れて光を失ってしまっている。
「まあそもそも、貴方に心配をかけさせてしまった時点でダメでしたね。でも、バレたのが貴方ならそれでよいのです。少し早いですけど、ね。
──もう分かっているんでしょう? 貴方の目の前にいるのは、人殺しの大罪人だと」
ハティはこともなげに言う。
なんで。
なんで、そんな平静でいられるんだろう。
血まみれの体を僕に晒している、のに。
「ハティ、お願い。説明して」
震える声で僕は懇願した。
ハティは僕の言葉に頷いた。
「貴方様は他の貴族から狙われているんです。私は彼らが用意した刺客と戦ってきたのです」
血で体を汚しながらもいつもと変わらない調子のハティに、僕は薄寒いものを感じつつ必死にハティの言葉に耳を傾ける。
ハティのことを信じたかった。
ずっと僕のことを守ってくれていた、大切な人だから。
話してくれたことはやはり僕のためのものらしくて、少し安堵する気持ちがありながらも新たに疑問が湧いた。
確かに、僕を含めたコルネリウスの家の者は他家の公爵の者から命を狙われてきた。
けど、それはおかしい。
「僕は、もう公爵でもないのに?」
僕は政争というゲーム盤を降りたのだ。
そうでなければ、僕が爵位を放棄した意味がない。
貴族たちに僕を狙う旨みなんてもうないはずだ。
ハティは僕の反応を想定していたように頷いた。
「では、まず歴史の話をしないといけませんね」
「歴史……?」
「この国の名はご存知ですね? ええ、コーレリア大公国と言います。ですが、この国は本来はコーレリアではなく、コーネリアと発音するのが正しいのですよ。そして、コーネリアというのは派生姓。コルネリウスから来た名です」
「コーレリアはコルネリウス……?」
「ええ。そして、マーニ・コルネリウス様、貴方様は最初にして最後の王、ボゴテンシス・コルネリウス王の直系、言うなればこの国の正統王位継承者です。貴方は王子なのですよ。……この国が王政のままであれば、ですが」
僕が王子? 急に明かされる新事実に頭がついていけない。
いや、まさか。
家系図の最初にボゴテンシスの名はある。
けど、ボゴテンシスが王だったなんて初耳だ。
そもそもこの国は大公国、つまりは貴族が治める国だ。
王がいたなんて聞いたことない。
仮に、その話が本当だとして、だ。
「でも、この国は今は大公が治めてるよね。仮に僕が王子であってもそんなに意味なんか──」
「意味ならありますとも」
ハティは僕の疑念をすかさず掬い取った。
「腐っても、王子は王子。担ぎ上げたいものがいるのですよ。そして、公爵共の手により血族たちが排され病弱な貴方様だけが残った。革命を起こしたい者たちにとって最後のチャンスなのです」
それから、ハティは僕に革命を起こしたい者たちのことを滔々と語った。
革命派の者たちは爵位の位が下であることに不満を持っていること。
けれど、徒に爵位を叙位されることはなく階層が固定されてしまっていること。
それを打破するために王政を復活させる革命の大義として僕が手頃だということ。
なに一つ知らないことばかりだった。
僕が戸惑っていることを察して、ハティは続ける。
「マーニ様が正統王位継承者であると知らされていなかったのは──」
けれど、ハティが言い切る前に僕は悟ってしまった。
僕は公爵であるコルネリウスの家にいながら、貴族として何も期待されていなかった。
それはひとえに──、
「……僕が虚弱児だったから、だね?」
「ええ。お父君もマーニ様に余計な心労をかけさせたくはなかったのでしょうね。マーニ様が無事に成人するまでは内密に、と。ですが、その前にお父君は──」
他家の公爵の者に殺されてしまった。
「そっか、僕はずっとみんなに気を遣わせていたんだね」
「大切なことを隠し続け申し訳なく存じます」
ハティが目を伏せて謝るものだから。「いいよ」と言って、顔を上げさせる。
そんなことはもはや瑣事にもならない。
ハティが血まみれで帰ってきたことに比べたら。
「貴方を祀りあげようとする彼らは、結局は貴方のことなどどうでもいいのです。欲しいのは貴方の血だけ。
そして、現公爵たちにとっても貴方は邪魔なのです。体制が揺らぎますからね。
故に、両派閥とも結局貴方を人として見てはくれません」
それは、きっとそうなのだろうと思う。
僕は革命を望んだりはしていない。
公爵同士の血みどろの政争は如何ともし難いところがあるけれど、この大公国に住む多くの領民は幸福だ。
農業も安定し、武力を蓄え、その余力を自国の政争などに持て余すほどにこの国は強く平和だ。
革命など起こせば、罪もない無辜の民草の血が流れることは免れないだろう。
けれど、話を聞く限りだと僕が革命に乗っかるというのは既定路線のようだった。
僕の意思を無視している革命派も、僕の味方ではない。
「現公爵たちも本来であれば歴史書を読み更けなければ気づかないようなコルネリウスの者のことを一大事とすることもなかったでしょう。ですが、祭り上げようとするものがいるのならばまた話は変わる。公爵たちは事が起きる前にコルネリウスの者をさっさと暗殺したいんです」
ああ、だからか。
だから、コルネリウスの家の者は執拗に他家から狙われていたのか。
そんなことのために、父も母も、他の兄妹も、ハティのお父様も、死ななければならなかったのか。
僕は惨憺たる想いに身を包まれた。
産まれのために本人の意思に関わらず革命の旗にされ標的となり死ななければならないだなんて、どうしようもないじゃないか。
僕が生き残ったのは、たまたま病弱で外に出る機会がなかっただけだ。
「ですが、私が全てに始末をつけます。ですからマーニ様は何も心配しなくてもよいのですよ」
ハティは血まみれの顔でニコリと笑った。
どうやらハティが血まみれで帰ってきたことの説明は終わったようだった。
そして、これからも一人戦うつもりだとハティは言っている。
……正直な話、ハティの言葉をどこまで鵜呑みにしていいのか分からない。
僕が王子だなんて荒唐無稽な話にも思えるから。
けれど、僕だってハティのことがなに一つとして分からないわけじゃない。
ハティは僕に事実とは違うことは絶対に言わない。
だから、僕はハティとのこれまでを信じることにした。
いつもと違ってハティがこの場を誤魔化すための嘘を僕に言っていたのだとしても、それでも構わない。
ハティに裏切られるのならそれまでだ。
僕はゆっくりとハティの語った内容を頭の中で咀嚼する。
呑み込んでしまえば、ハティの猟奇的とも取れる今の風貌も怖くはない。
いつもと変わらない、忠臣であるハティそのものだ。
けれど、僕はハッと気づく。
もうハティの夜の戦いは殺人事件として新聞で報じられてしまっている。
「……君は、大丈夫なの。君が刑吏に捕まったりなりはしないの」
だって、そうだろう。
これまでの新聞の記事が本当であれば、ハティはどれだけの人を殺してきたのか。
仮に僕を守るためであったとしても、法の裁きを受ければ間違いなく死罪だろう。
「…………マーニ様、全てが終わったら貴方様が私を処断なさってください。そして、自分は何も知らなかった、と。事実、マーニ様は何も知らなかったのですから。全ての咎は私が墓に持って行きましょう」
それは全てを悟ったような綺麗な微笑みで。
最初から、ハティは死ぬつもりだった?
自分が死ぬことすら織り込み済みで戦っていた?
ハティが納得していても、そんなの僕は納得できない。
「僕に君を殺せって?」
「私は貴方様に殺されるのであればそれでよいのです。そして、少しでも貴方様の心に私が残ってくださるのならそれだけで」
ハティはもう何もかもを覚悟しているようだった。
そんな覚悟をさせてしまっていたことが、ショックでしょうがなかった。
「ごめんね。ずっと僕の為に手を汚してくれてたんだよね。僕、何も知らなかった」
「いいえ、私はずっと貴方様を勝手に愛していたのですよ」
勝手に愛していた? 僕のことを? ハティが?
思いも寄らない言葉で思考を引っ張られるけど、いまはそんなことよりも大事なことがある。
「それで全部罪を被ろうってつもりなの?」
「そもそも私だけの罪ですよ。貴方が望まないことは知っていましたから、そうでしょう?」
あくまでハティは全て自分が勝手にやったことだと言い張るつもりのようだった。
僕は色んなことを一度に聞かされて、色んな想念が頭の中を駆け巡っていた。
ハティは僕のことを愛していたって言ってくれたのに、僕はハティに何もしてあげないのか?
きっとここで僕が諦めてしまったら、ハティは想定通り死んでしまうんだろう。
だったら、引けない。引くわけにはいかない。
僕の人生の正念場があるとしたら、きっとここだった。
一度大きく息を吸って覚悟を決める。
言うべき言葉はもう決まっていた。
僕は自身の胸に手を当てて、一歩前に出る。
「なら、僕は君と一緒に罪を犯すよ」
「マーニ様、何を──」
「君のことを処断したりなんかしない。君が死ぬつもりだっていうのなら僕も後を追って死ぬ」
初めて僕の言葉にハティの瞳が揺れた。
動揺という言葉は瞳揺とも書けるのかもなんてくだらないことを思っていると、いつも華麗なハティにしては珍しく上擦った声音で捲し立てる。
「でも、それでは私が今までやってきた事が無意味になってしまいます!」
「そんなもの、知ったこっちゃないよ!」
ハティが自分が勝手にやったことだと言い張るのなら、それを逆手に取らせてもらう。
ハティが勝手にやったのなら、ハティの事情なんか知るものか。
「ごめんね。僕がずっと弱かったから、自分のことばっかりだった。自分のこと責めるばっかりで、周りを見ようとしてなかったんだ」
全ては僕の弱さが招いたことだった。
僕がコーレリア大公国の正統王位継承者であることを知らされていなかったことも。
未だコルネリウスの血を狙う者たちが好き放題していることも。
ハティが僕に黙って手を汚し続けていたことも。
確かに、知らされていなかったことばかりだ。
けど、僕も知ろうとしていなかった。
何故か。
僕も自分を諦めていたからだ。
自分を何もできないと責めていたからだ。
けど、
「そんなもの何にもならないのに」
僕はとっくに分かっていたのだ。
昔、僕はノッカーというリスを見捨ててしまったことがある。野狐に襲われるリスのノッカーは僕によく懐いていてくれてたのに、名前もつけてあげたのに。きっと、僕に助けて欲しいとノッカーは思ったはずだ。
けど、僕は助けなかった。
ノッカーを飼ってあげられてるわけじゃないから。野狐だってお腹を減らしているんだから。
そんなことを賢ぶって言った。けど、そうじゃない。
僕はノッカーが喰い殺されてからようやく気づいた。
僕は選択をすることから、衝突をすることから逃げただけだったのだ。
そして、それは傷つけるのが怖いんじゃない。
何かを傷つけることで、僕自身が傷つくのが怖かっただけだ。そんなナイーブで自己中心的な我儘を利他というレトリックで脚色していたに過ぎなかったのだ。
その負債をハティが一人背負うなんて、そんなの絶対に間違っている。
その間違いだけは、正さないといけない。
……ノッカー、君にもこうしてあげられたらよかった。本当にごめん。でも、ありがとう。君のおかげで僕はもう間違えない。
僕はハティの手を取った。
いつも手を取ってくれるのはハティの方からで、僕から手を差し伸べたことは一度だってなかった。
僕はいつだってハティに守られる立場に甘んじてきた。
そんなことで、対等になんてなれるはずもないのに。
「君の罪は、僕の罪だよ」
ハティが僕のために人を殺していたというのなら、それは僕の責任だ。
そして、僕はハティの主君だ。配下の罪は主君が背負うものだ。
領地を捨て、公爵の位を捨てたところで、結局僕はハティと対等になんてなれないのかもしれない。
それは逃げ続けていた僕への罰なのだろう。
けれど、僕が主君であることでハティの手を掬い取れるのならそれでいい。
「ずっと愛してくれてありがとう」
たとえハティのその忠義を踏み躙ることになったとしても。
ハティの誇りを踏み躙ることになったとしても!
僕は君だけを諦めない。
「君が手を血で汚すのなら、僕が君の手を握ろう」
僕はハティの手を強く握る。
血がべたりと僕の手にもつくけれど、気になんかならない。
ハティが僕のために汚れていてくれたなら、僕だってハティのために汚れたい。
「愛してる」
万感の意という言葉がこの世にあるのなら、全てこの時のためのものだった。
ずっとハティに伝えたくてしょうがなかったことを、僕はようやく口にした。
対して、ハティはもういつものように笑顔を取り繕うことができないでいた。
グチャグチャの絶望した顔で、青ざめている。
そんなハティの返り血まみれの体を僕は抱きしめた。
「よいのですか。これから先、ずっとほの暗い世界で生きることになるのですよ」
それはいつものハティの頼もしい声とは違う、掠れた弱々しい声で。
ハティの体は怯えるように震えている。
大丈夫。
君の為ならば僕はどれだけ汚れたって構わない。
ハティだってそうだったんでしょう?
「うん。だって、君のことがずっと好きだったんだ」
ずっと、ずっと。一番、欲しかった。
君が、君の心が。
ハティが息を呑むのが聞こえた。
君が僕のために汚れていてくれたなら、僕は一緒にどこまでだって堕ちていける。
「僕はたとえ血まみれの道でも君と一緒に歩いて行きたい」
それに、きっと暗闇にこそ月は青く輝くのだから。
僕の言葉にハティがおずおずと抱きしめ返してくれる。
僕たちは、そのまま抱きしめあっていた。
ずっと。
ずっと。
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──
ハティは僕が思うような完全無欠の騎士なんかじゃなかった。
当たり前だ。
ハティだって怖かったり、迷いがあったり、それでも僕を想ってずっと行動してくれていた。
なら、僕もそれに応えよう。
君と罪を分かち合うことができて、僕は幸せだよ。




