お花摘み③
マーニ様が十才になる頃には、幸いなことに喘息はなりをひそめてくれたようでした。
その頃の私はと言えば、マーニ様をお連れして療養のために花畑へと通じる屋敷裏の小さな森をお散歩するのが日課となっておりました。
森といっても人の踏み固めた道のある整備された森です。
マーニ様は読書やら学業はとても得意なようでしたが運動はやはり苦手で、歩いていてもすぐに息を切らしてしまうのですが、そのまま引き篭もっていては体も弱りきってしまいますから。
そうして歩き疲れて息を切らしてしまったマーニ様をおぶると、マーニ様は大層喜ぶものでした。
「ハティの髪はいつ見ても綺麗だね」
マーニ様は私の髪をよく気に入っているようで、普段三つ編みにしている髪を持ち上げては手で愛おしそうに撫でるのです。
「私の髪がそんなにもお気に召すのでしたら、一房切って差し上げましょうか」
髪などすぐ伸びるのですし、マーニ様が喜ぶのであれば差し上げてもよかったのです。
ですが、思いの外マーニ様の表情は難色を示していました。
「うんとね。その申し出は嬉しいけどハティの髪が綺麗に見えるのは、ハティの立ち振る舞いもあると思うから」
「そうなんですか?」
「うん。ハティがカッコいいから、ハティの髪も綺麗なんだと思う」
どうやらマーニ様は私によく懐いてくれていたようでした。
一種の異母兄弟のように思ってくれていたのかもしれません。
マーニ様にもご兄弟はいたのですが、貴族の間の兄弟というのは血で血を洗う関係性と言いますか。普通、後継を争う間柄ですから。
ただ、マーニ様に至っては末の末、その上大層体が弱いということで、他の兄弟からは唯一利害を外れて可愛がれる弟としての立ち位置だったとは思うのですが……。
それはそれでマーニ様にとってはお辛いようで、私にしか心を預けられなかったのかもしれません。
そんなご兄弟たちも相次ぐ事故死に見舞われるのですが……、話を戻しましょうか。
マーニ様が森のお散歩をする際、私におぶられる以外に楽しみがあるのです。
森を越えた先にある花畑で花冠や押し花を作ったりすることもそうですが、何よりこの森にはお友達がいるのです。大体、お散歩の数回に一度は会えます。
その日もそのお友達は私たちの前に姿を現しました。
マーニ様がその名前を呼びます。
「ノッカー!」
マーニ様の森の小さなお友達。
それは森に住む小さなリスでした。灰色のリスです。
ノッカーは私たちが森を歩いてると自ずから姿を見せて来るのです。
好奇心が高いのかもしれません。
その上で人懐こい性格をしているのでしょう。
いつもノッカーはマーニ様を見つけるや否や、体を登ってその肩に乗るのです。
マーニ様も喜んでノッカーの背中を撫でるのでした。
その日はノッカーが現れたことで元気が出たのか、マーニ様は私のおんぶからゆっくりと降りてノッカーを迎え入れました。
なぜノッカーと名づけたのですかとマーニ様に聞いたことがあります。
どんぐりを手に持ちコンコンと木に叩きつけて音を立てる癖があるからノッカーなのだそうです。
私としてもノッカーには助かっておりました。
マーニ様がお散歩に励む動機となってくれたからです。
それに、たとえ言葉の交わせない小動物だったとしても心開ける存在がいてくれることは、きっとマーニ様にとっても良いことですから。
マーニ様に撫でられ一頻り構ってもらって満足したのか、ノッカーはマーニ様の肩から足を伝って降りて行きました。
「ばいばい」
マーニ様はノッカーの去っていく姿に手を振ります。
ここまでが、いつものことです。
いつもならそのまま私とマーニ様は森を抜けて花畑に着いて、一休みしてまた森の道を戻っていくのですが、けれど、その日はいつもと違いました。
その日は、森に野狐がいたのです。
「あ、狐だ!」
マーニ様が喜色ばんだ声をあげるものですから、またマーニ様に新しい森のお友達ができるといいな、と期待して私は気づいてしまいました。
姿勢を低く保った野狐の、その視線の先にいるのは──、先ほど私たちから離れたばかりのノッカーでした。
あ、いけない。
私はマーニ様のお友達であるノッカーを狙う野狐を追い払うために前に出ようとして、その行手をマーニ様の手が遮りました。
マーニ様も気づいたようでした。
「待って」
「ですが」
このままでは、ノッカーが。
焦る私に、けれど、マーニ様は静かに首を横に振りました。
「ノッカーは友達だけど、飼ってあげられてるわけじゃないから。それに野狐だってお腹を減らしてるんだから、責任も取れないのに徒らに手を出しちゃいけない」
私はビックリしてしまいました。
それはつまりノッカーを見殺しにすることとほぼ同義で、心優しいマーニ様がそんなことを言うとは、その時の私は露ほども思わなかったのです。
理屈としては、正しいかもしれません。
しかし、幼いマーニ様が下す判断としては冷酷なのではないか、と私は思ってしまいました。
そして。
私たちの見てる目の前で、小動物らしい小さな悲鳴が上がりました。
野狐が地面に向かって、なにかを咀嚼し続けていました。
ややもして。
咀嚼を終えた野狐がその場を立ち去るまで、その様子を私とマーニ様はじっと見つめていました。
これで本当に良かったのでしょうか? と隣を伺うと、マーニ様の肩が震えていました。
ああ、違う。
マーニ様は冷酷なのではない。
本当はノッカーを助けたかったのに必死に自分を律していたのだと、私が気づいた時にはもうマーニ様はノッカーが元いたはずのところへ駆け寄っていて、私も遅れてそれに続きました。
けれど、そこにはもうノッカー姿はどこにもなくて、ただ、落ち葉の上に微かに血の痕が遺されているばかりでした。
マーニ様はその落ち葉を震える手で掬い取り、そして、胸に抱いて嗚咽をあげて泣き出しました。
友達ならば、私に頼んで野狐を追い払ってもよかったのに。
野狐も腹を空かしているのだから、ノッカーを飼ってあげられてるわけではないのだから、と私を止め、自然の成り行きを見守ることに決めたのです。
その結果がこれです。
私は、マーニ様ほど賢くも優しくもありません。
気にかけた存在を救いたいのなら、正しくなくても、責任など取れなくても、そして、それ以外を蹴落とすことになったとしても、救えばいいと思うのです。
自分の善意に雁字搦めになって、泣きじゃくるマーニ様を前に私は立ち尽くして見ていることしかできませんでした。
この世界を生きていくには、マーニ様は心根が優し過ぎる。
生き物として大切な何かが欠落しているようにも私には思えたのです。
けれど、それと同時に美しくもあると私は思ったものでした。
その日は、そのまま泣きじゃくるマーニ様を負ぶって家に帰りました。
それからというもの。
マーニ様は私と森のお散歩に行くことはなくなってしまいました。
私は困ってしまいました。
森のお散歩はマーニ様の療養のために必要なことで。
けれど、マーニ様があの森に寄りつきたくないと思うのも自然なことで。
どうしたものか、と思って悶々とした日々を過ごしていました。
ある日のことです。
朝、剣の鍛錬を終えた私がマーニ様の部屋を訪ねると、マーニ様はどこかに出かけているようでした。
おトイレか、と待っていると、それにしては長い。
そのまま待っていると、マーニ様がやっともどって来るものですから、
「どこかに出かけていたのですか?」
と問いただすと、マーニ様は「ちょっとね」とだけ返すばかりで、どこに行ってきたかは教えてくださりませんでした。
そんなことが何度かありました。
またある日のことです。
朝、私が鍛錬を始める前のまだ朝靄がかかる頃、私が鍛錬の準備をしていると、マーニ様が屋敷からどこかに出かけて行くところを見かけました。
私はこっそりと後を尾けました。
本当はマーニ様が私に隠しているのですから、そのことを尊重するべきではあるのですが、マーニ様一人では何かあっては大変ですから。
マーニ様は一人で花畑へと通じる森に入って行きました。
マーニ様は何度も息を切らし立ち止まりながらも、途中で帰ろうとはしません。
そうして花畑にまでたどり着いたマーニ様はしゃがみ込んで、一輪の花を手折りました。
花が欲しかったのでしょうか? と私が首を傾げていると、マーニ様が道を引き返して来るものですから、慌てて木の影に身を隠します。
そのままマーニ様の様子を伺っていると、マーニ様が立ち止まったのはノッカーが死んだ場所で。
そこにはちょこんと盛られた土と石。マーニ様はそこに花を添えました。
ノッカーのお墓でした。
「ノッカー、ごめんね。ごめんね……」
マーニ様は私に隠れて一人でノッカーのお墓を作り、お祈りをしているようでした。
それからもマーニ様は度々お墓参りに励んでいました。
その習慣はマーニ様が公爵の位を捨て領地を離れるまでずっと続いていました。
その度に私はいつもこっそり木の陰に身を潜め、木の幹に背を預けながらマーニ様の謝罪をノッカーの代わりに聞いて。それが森のお散歩に変わる新たな日課になったのです。
もしも本当に他者を思い誰かの悲しみを心の底から憂うことのできる優しい方というのがこの世にいるのならば、それはきっとマーニ様のことでした。
だから、マーニ様にならば命を賭してお仕えしてもいいという気になったのです。
だから。
マーニ様が気づく。その前に、マーニ様の敵は私が全て排除すると心に決めたのです。
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──
私は優しくないのです。
弱者を守ることが正しいこと? まさか。
弱者を導くこと見守ることこそが正しいのであって、ただ守ることは正しくはない。
そんなもの、とうに知っておりますとも。
私はマーニ様を導かない。
だから、私もマーニ様の敵と同じだ。
マーニ様がいつか私のしてきたことを知って、私を糾弾しても構わない。
だけど、その前にマーニ様のしがらみは全て断ち切ろう。
マーニ様が私を糾弾した時、全ては終わるのだから。




