第32話 目まぐるしい色
「兄のことをお気に召しましたか?」
慎也はそう言って、澪を見てきた。
さっきから向けられている赤い苛立ちの色は、兄よりもあとに話しかけられたことによるものなのかもしれない。
「ええ、とても博識な方でしたわ」
澪のその一言で、慎也の瞳を流れる色が激しく揺らいだ。
緑、黄色、そして時折赤。
罪悪感と自尊心――相反する感情が、互いを押しのけるように渦巻いている。
なんて重たい感情なのだろう。
「私の自慢の兄です」
その言葉は平坦で、心が籠もっていない。
「それでもお兄様からは弟である慎也さまのほうが優秀だと伺いましたわ」
淡い水色が差したかと思えば、すぐに別の色へ塗り替わる。
――読みにくい。
「ははっ、それは兄の謙遜でしょう。まぁ事実でもあります」
人当たりの良い笑顔で、レモンのスパークリングを渡してくる。
澪は受け取り、グラスを軽く掲げる。
「とても自信がおありなのですね」
「もちろんです、私がいなくてはうちの旅館は成り立ちませんから」
シャンパンを一息で煽り、グラスを空にする。
オレンジと紫色の皮肉めいた感情がゆらりと揺れた。
こんなにも感情が動き続ける人とは相性が悪すぎる。
目の奥にチクリと痛みが走った。
「壮一郎さまも、弟である慎也さまを大変評価されていましたし、将来安泰ですわね」
「そう、ですね。旅館をより大きくすれば多くの方に来ていただけますから」
「あら、お兄様の考えとはまた違うのですね」
「……兄はなんと?」
一拍、不意を突かれたのか間があった。
「古き良き伝統を守るほうが大切、と。旅館を大きくすることはお考えではないようでしたわ」
慎也から深い青色の悲しみが静かに広がる。
その奥から、淡い緑の不安がゆっくりと滲み出した。
「……兄らしいです。しかし、それでは今の社会に合わず生き残れません」
青色と緑色が一瞬で消える。
次に見えるのは淡い赤色の苛立ち。
それでいて口調は柔らかく敵意を感じない。
「だからこそ、私がやらなくてはいけないのです」
にっこりと自信にあふれる顔で笑う慎也からは黄色と緑色の強い罪悪感が見える。
そこからは差し障りのない話へと移っていく。それでも感情の色が大きく変化し続ける。赤色、黄色、緑……。
目の奥がまた鈍く痛んだ。話を切り上げなければ。
しかし慎也は絶妙な間で話題を繋ぎ、会話が途切れない。
「おい……」
どうしたものかと考えあぐねているところに、澪の後ろから低い声がした。
声だけでわかる、紫色の嫌悪感丸出しの不機嫌な真人だ。
「あら、真人さん」
澪は声をかけられた方へと振り返る。真人の目が何か言いたげに少しだけ細められる。
「こちらは?」
慎也が紹介を求めるように声をかけてきた。真人からは相変わらず紫色の嫌悪感しか見えない。
「こちらは私のエスコートをお願いしている方ですの。お待たせしすぎたようですわ」
「そうでしたか、私は旅館・玄翠館の橘慎也と申します、以後お見知りおきを」
慎也が人当たりのいい笑顔で頭を下げるのに倣い、真人も頭を下げていた。
「飲み物を取りに行くだけだったんじゃねえのかよ」
慎也に一礼しただけで、すぐに澪に向き直ってくる真人。
「そのつもりでしたのだけど、慎也さまとのお話がとても楽しくて」
ね? と慎也に対してにっこりと微笑む。慎也からはオレンジの期待、真人からはさらに濃い嫌悪の紫が澪にまとわりついてくる。
「慎也さまもお話、ありがとうございました。この後もお楽しみくださいませ」
澪は慎也に一礼すれば、慎也も別れの挨拶を返してきた。
慎也の礼に応えつつ、真人の腕を取る。真人のたくましい腕に手を添えるだけで少し心に余裕が生まれたのか、慎也に背を向けると細く息を吐いた。
真人は何も言わずに大股で歩き出した。ガーデンパーティーが始まって初めて真人が澪を連れ歩いた。
「ま、真人さん少し早いわ……」
ピンヒールに慣れているとはいえ、真人のペースについていくのが一苦労だ。
「わり」
我に返ったように、ペースを落とし、ガーデンパーティーの休憩スペースにあるベンチへと澪はエスコートされた。
「……限界だったろ」
澪をベンチに座らせると、真人がペットボトルのミネラルウォーターを手渡してきた。
「……どうして?」
「顔色、悪くなってる」
そんなにあからさまだったのだろうか。こめかみに手を添えると、真人がしゃがみ顔を覗き込んでくる。
「追憶、じゃないんだよな?」
「ええ、慎也さまの感情が目まぐるしく変わって、負担になったみたいだわ」
「ならいい」
真人も安堵の息を吐いて立ち上がる。
「後で文句言わせてもらうからな」
ドカッとベンチに足を投げ出すように座る真人。澪は思わず口元を緩めた。
他の令嬢たちに捕まって、散々な目に遭ったのだろう。
「楽しんでもらえたかしら?」
真人は何も答えなかった。
ただ紫の嫌悪感をまとい、文句を言いたげな視線を向けてきて、思わずクスッと笑ってしまった。




