第28話 黄緑色に染まる夜
時刻は22時を回ったところだ。
澪は眠れず、部屋をこっそりと抜け出し、庭園まで出てベンチに腰掛けている。
屋敷からの光が漏れるだけで静かなこの場所が好きだった。
立秋もすぎ、夜が少し肌寒くなってきた。
上着を持ってくるのを忘れてしまったことを少し後悔する。
くるぶし近くまであるネグリジェが夜の風に少し動く。
空を見上げれば今夜は月がほっそりと瞬いている。
三日月だ。
次の満月の日に合わせたガーデンパーティーが迫っていると実感する。
「本当にいた」
不意に後ろから低い声が掛けられた。
びっくりして振り返ると真人がこっちへ向かって歩いてきている。
普段の護衛のキッチリした格好ではなく、黒のTシャツに薄手のジャージ素材の上着を羽織っているのもまた新鮮だ。
「真人さん、まだ寝てなかったの?」
「それはこっちのセリフだ。アンタ、昼間ぶっ倒れてるクセに何してんだ」
真人が近づいてきて、ベンチに腰を下ろす。
背もたれに深く体を預けると、長い脚を投げ出し、夜空を見上げた。
「結構、星が見えるんだな」
おー、と空を見上げる真人に澪もつられて空を見る。
さっきは三日月しか見ていなかったが、確かに星もよく見える。
「ほら、これ」
真人が手に持っていたバスケットを渡してくる。
「榊さんから」
受け取って中を見れば、部屋に置いてきていたサンドイッチとペットボトルが入っていた。
「……真人さん、あげるわ」
ペットボトルだけ取り出し、バスケットを真人に返す。
「……アンタ、また食べない気だろ?」
「これだけでいいもの」
ペットボトルの蓋を開け、口をつける。
流れ込んできたのはミネラルウォーターだ。
「1つぐらい食え」
「いらないわ」
「だから、ぶっ倒れるんだろ」
「目を使った後は食べたくないもの」
「ほら」
澪の言葉を聞くことなく、サンドイッチを差し出してくる。
食べるまで諦めそうにない。
澪は仕方なく受け取る。
口をつけるつもりはないが、受け取るだけ受け取っておく。
「んで、何してんだこんなところで。風邪引くだろ」
「眠れなくて、ちょっと外に出てみたの」
横目で真人を見れば、普段の紫の嫌悪感は見えない。
見えるのは黄緑色の容認。
どうやら、連れ戻しに来たわけじゃないみたいだ。
「真人さん、護衛はどう?」
眠れないことに話を持っていかれたくなくて、澪は話をそらした。
「どうって言われてもな」
護衛を始めて3カ月になろうとしている。
「悪くねぇ」
「ふふっ、よかったわ」
心の底からそう思う。
「毎日飽きねぇし」
それはそうかもしれない。
毎日何かしらの仕事で真人を連れ回しているのだ。
「でも、お休みがなかなか取れてないわね」
「好きでやってることだ。気にすんな」
横に座ってからずっと真人からは黄緑色の容認の感情が変わることがない。
本当に嫌ではないことに安心する。
ヒュー……と涼しい風が2人の間を抜ける。
涼しさに肩を軽くすぼめると、フワリと肩に布が乗った。
「着とけ」
真人が上着を脱いで肩にかけてくれた。
「でも真人さん寒くないの?」
上着の下は半袖のTシャツだ。
「アンタほどヤワじゃねぇし、風邪で倒れられたらこっちが困る」
少し照れているのか、口元を手で覆いそっぽ向く。
「ふふっ。じゃあお借りするわ」
澪は袖を通す。
やはり真人は大きい。
袖から指先が少し出るくらいだ。
真人の温もりが残る上着で、背中がほんのりと温かい。
そして微かにシャワー後の石鹸の香りもするのは、シャワーを浴びたあとにわざわざ来てくれたのだろう。
「……酒、ダメなの榊さんから聞いた」
ポツリと真人はそっぽ向いたまま言葉をこぼす。
「ごめんなさい、迷惑をかけてしまったわ」
次のガーデンパーティーでも酒に注意をしてもらう必要が出てきた。
エスコートだけで終わらない仕事量に申し訳なくなる。
「それは別に。それよりも制御できなくなるんだろ?」
「……そう、ね。普段は無意識に調整しているのだと思うの。でも、アルコールが入ると、調整ができなくて普段5で見ているものを最大で見ている感じだと思うわ」
テレビの音量のほうがわかりやすいかもしれない。
通常は5で聞いていたのに、アルコールが入ると一瞬で最大まで上げられるようなもの。
感情が一気に流れ込んできてしまう。
「それと、ごめんなさい。真人さんの過去を少しだけ見てしまったわ」
あの時、意図せずして追憶まで使ったようだ。
不安の感情の追憶。
真人が誰かに対して手を伸ばす映像と、失うことへの不安が流れ込んできていた。
「何を見たか知らねえけど、過去のことだ。気にすんな」
それより、と真人が澪の顔を見る。
「9年前ってなんだよ?」
「過去のことよ?気にしないで?」
ちょっと意地悪したくなって、真人の言葉を真似て言う。
「……ッフ。ふざけんな、護衛として知っておくことだろうがよ」
2人して少しの可笑しさに笑いが漏れる。
「9年前にね、お酒と知らずカクテルを3口ぐらい飲んだことがあったらしいの」
事故よ?と付け加える。
「私は覚えていないのだけれど。感情流入の影響で記憶の混濁と2週間ほど眠ったままだったらしいわ」
真人が澪へと顔を向ける。
「……絶対に酒飲むな。いや、俺が止める」
「ふふっ、頼もしいわ」
真人がいると大丈夫な気になってくるから不思議だ。
それでも今回の自分の行動は軽率だった。
手土産でお酒が入っている可能性を考えずに口にしてしまったのは失敗だった。
目が覚めてから口に出すことはないが、自己嫌悪で嫌な感情が自分にまとわりついているのがわかる。
手に持たされているサンドイッチを触りながらまた自己嫌悪の沼に落ちていく。
「……体調悪いのか?」
「違うわ、昼間のことを考えていたの」
2人の間に静かな沈黙が流れる。
決して重たくない、沈黙。
真人は会えて何も言わないし、澪は視線を手元に落とすだけ。
「……今日は失敗してしまったわ」
ポツリと言葉が出たのは何でだろうか。
一度言葉にしてしまえば、次の言葉を止めることができない。
サンドイッチを持つ手に力が入る。
「手土産をその場で食べるなんて浅はかだったわ。
来栖さまの異様な感情にも気づけていなかったのかもしれないし」
こんなにも自分は何もできなかったのだろうか、目の前のサンドイッチが滲む。
唇をかむ。
ここで泣くなんてことは許されない。
「……あんな失敗、許されないのに」
「前から思ってたけど、頼らねえの?」
今、顔を上げてしまえば、涙がこぼれそうになる。
再び、夜風が2人の頬を撫でた。
真人の視線を感じる。
「榊さんだっている。俺だって……」
真人が一回言葉を切った。
それでも滲む目の前に顔を上げることができない。
「別に久世とか興味ねえから。
……なんつーか、俺を頼れ。一応、護衛だしな。これでも」
澪の頭に柔らかく、やさしい大きな手が乗った。
なんて大きいんだろう。
顔は上げられない、でも、小さく頷くことができた。
ポロリと瞳から一つ涙が落ちる。
サンドイッチが静かにその雫を吸い込んだ。




