第10話 夜の会食
坂井と会った日から5日後の夕方。
真人は、藤堂の時に渡されていた以前のスーツを再び着て身だしなみを整える。
真人は出発の20分前に澪の書斎のドアをノックした。
「準備できたか?」
どうぞ、と声がした後にドアを開ければそこにいたのは、完璧な『久世家のご令嬢』だった。
身に纏っているのは、深海のような気品あるミッドナイトブルーのワンピース。
室内灯の下では黒のようにも見えるその生地は、彼女が動くたびに、夜の闇を溶かし込んだような美しい深い青の光沢を放っている。
髪は上品なハーフアップにまとめられ、耳元で揺れる小ぶりなダイヤのイヤリングが光る。
濃紺の生地を背景にして、まるで星のようにきらめいていた。
「真人さんも準備ができたのね」
微笑む澪からは、ここ数日に自室で見せていたガキっぽい面影が全く無い。
ただただ近寄りがたいほどのオーラに圧倒される。
「……あ、あぁ」
「真人さんにスーツを1つ仕立てておいてよかったわ。前回の時も思ったけど、似合っているわ」
満足そうに足元から頭まで澪の目が真人をなぞる。
「……アンタもやっぱり、雰囲気変わるな」
視線をつい逸らしつつ真人なりに褒めてみる。
「そうかしら?」
澪が微笑んだまま首をかしげると、真人はすこしホッとする。
ふとした動作で普段の様子が見えると安心があるのは、急に遠い存在に感じたからかもしれない。
「行くか?」
「そうね、少し早いけれど」
真人がドアを開ければ、ピンヒールのカツ、カツ、と硬質な音を響かせて澪は部屋を出た。
ヒールの分だけ視線が高く、いつも以上に凛として見える。
澪の後ろを付いて行きながら真人は改めて澪の存在というものの遠さを感じた。
この数日は部屋で文句を言いながらも書類を片付けているガキで、少しは近い存在だと思っていたのに――。
外へ出るための服装と佇まいを見ただけで一瞬で引き離され、距離を感じてしまうほど。
(これが、久世家の次期当主の令嬢……)
思わず澪の肩書を見てしまうほど遠い存在だった。
車を玄関まで回せば、運転席に榊が乗り後部座席には澪と真人が乗り込む。
車が移動している中でも澪は書類に目を通していく。
「真人さん、今日の会食にこられるのは3人よ」
「おぅ、わかってる」
護衛としての立ち回り方をこの5日間に嫌というほど榊から叩き込まれている。
立ち位置や歩き方、見るべきポイント……。
「一度お会いしているだけあって、何も起こらないから肩の力は抜いていていいわ」
ふと、前回初めて同行した藤堂とのパーティを思い出す。
「……なぁ、体調はもういいんだよな?」
澪の目が書類から上げられ、真人を見た。
「……ほら、藤堂のあと体調、悪くなってたじゃねぇか」
歯切れが悪くも心配が伝わったのだろう。
「もう問題ないわ。2日も引きずらないから大丈夫よ」
澪は微笑み、ありがとう。と礼を言う。
「……今日も使うのか?」
何を、とは言わない。
異能という言葉をなんとなく使いたくなかった真人は少しぼかしてしまう。
「必要があれば」
そんな真人の気持ちを知っていても、澪はさらりと当たり前に答える。
「……そっか」
何かまだ言いたいが、それ以上は踏み込めない。
それほど、距離を感じる自分がよくわからない真人。
それ以上、2人は会話することなく真人は車窓から外を眺めていた。
澪と榊は最終的な打ち合わせをしている。
真人には2人が何の話をしているのかはさっぱりだった。
◇
榊が車を風格ある門の前で停める。
「お嬢様、着きました」
「ありがとう、榊さん。それじゃあいいお話になるように行ってくるわ」
榊は運転席から降り、澪の横のドアを開ける。
真人も反対から降りて澪が降りる前にはドアの横に立っていた。
「真人さん、お嬢様のことよろしくお願いします」
「おぅ」
澪が車から降りれば雰囲気が一層引き締まる。
風格ある門さえも澪を際立たせる一つの道具にしかならない。
「行ってきますわ、榊さん」
門をくぐる澪の後ろ姿に一礼をする榊。
澪の斜め後ろに控えて真人は一歩、会食の店へと踏み込んだ。
赤坂の路地裏にひっそりと佇む『燈々庵』。
門をくぐると、都会の真ん中とは思えないほどの静寂が真人にまとわりつく。
丁寧に打ち水がされた敷石が夜の明かりを鈍く反射している。
すげぇ、とんでもねぇところだな。
背広の襟を少し正しながら、真人は内心で冷や汗をかいている。
だが、隣を歩く澪は気後れもなく堂々と歩を進めていく。
仲居に案内をされ通された個室は、一幅の掛け軸が飾られただけの、無駄を削ぎ落とした広々とした和室だった。
「坂井さま、お待たせ致しましたわ」
声をかければ、数日前に久世家を訪れていた坂井拓也が立ち上がる。
「久世様、本日はありがとうございます。こちらは社長である父の坂井誠と、専務で叔父の坂井修です」
初老の2人も立ち上がり一礼してくる。
「坂井社長、ご無沙汰しております。一度、パーティでお会いさせていただきましたわ。
実に3年ぶりかと」
「覚えていただいて、光栄でございます。改めて、坂井商事社長の坂井誠と申します」
誠と名乗った社長が、深々と頭を下げる。
「あの頃はまだ父の後ろに隠れていただけでしたが、こうしてお会いできることに嬉しく思いますわ」
微笑む澪に、そうですなと和やかな雰囲気が部屋を満たしていく。
澪が促されて上座の席に着くと、それを見届けてから坂井側の3人が席に着く。
部屋の空気が、自然と澪を中心に回り始めていた。
真人は、事前に榊から指示されていた通り、澪の斜め後ろ、壁を背にした位置へと静かに控える。
「そちらの方も、ぜひお席へ」
坂井社長が不意に真人へと声をかけてきた。
想定外の事態に内心で舌打ちしつつも、この五日間、榊に叩き込まれた言葉を必死に引っ張り出す。
「いえ……自分は護衛ですので。お気になさらず」
お世辞にも流暢とは言えないが、なんとか形にした真人のぶっきらぼうな返事に、澪がすかさずフォローに入った。
「社長、お心遣いありがとうございますわ。
本日はわたくしとの会食ですし、この者は控えさせておくだけですので」
「さようですかな、ご令嬢がそうおっしゃるなら」
社長の視線が真人から外されると、真人は人知れず小さく安堵の息を吐いた。
ちょうどそこへ、仲居が手際よくお酒と最初のお料理を運び込んできた。
坂井商事の三人の前には冷えた日本酒が注がれ、澪の前には、繊細なカットが施された江戸切子のグラスに注がれた炭酸水が置かれる。
「ご令嬢はまだ20歳になっておられませんでしたな、失敬!
つい、お美しい佇まいから成人しておられるかと勘違いしてしまいました」
社長が「しまった」というように大袈裟に身をすくめてみせる。
わざとらしさはあるが、これがこの男の交渉術であり、キャラクターなのだろう。
「わたくしのことはお気になさらず。
美味しい日本酒をご用意していただいたようですので、皆様で楽しんでくださいませ」
澪の言葉を合図に、一同が静かに盃とグラスを掲げ、乾杯を交わす。
社長が楽しそうに笑い声と共に、ついに静かな会食が始まった。




