決別
無言で見上げてくる幼女に、視線を彷徨わせた。
「あ……ミコさん。えっと、ウキハの様子がおかしくて……。ウキハが僕を同じだと。同じってどういうことですか……? 貴女たちは、腐怪になった人ってことですか?」
しどろもどろになりながら、左目を押さえていた。
「何を言っておる。左目だけであろ」
ミコは淡々として、口を閉ざした。
──左目だけ同じ……。やっぱり、左目は腐怪になってるってこと?
「それって、左目の腐敗がどんどん広がって、最後には僕も腐怪みたいに人を襲うようになるんじゃ……」
左目を押さえた手に力が入る。
「なるわけなかろう。自分で浄化し続けておろうが。気付いておらぬとは、阿呆だの」
「……自分で」
──あ、そうか僕の治癒は腐敗を体に溜めて浄化する力だから……。気付かないうちに、腐怪になってる左目をずっと浄化して、抑えてたってこと、かな。
これ以上腐敗が広がらないと分かり、体から力が抜けて、よろりと船縁に寄りかかってしまった。
息をついて、はたと倒れたままのウキハを見る。
「その……ウキハは大丈夫なんですか? なんか、凄く様子がおかしくて」
ミコがウキハの額飾りを傷の位置に直して、すっと顔を上げた。
「お主に心を揺らし過ぎた」
「僕に……心を?」
眉間に皺が寄る。それってどういう意味なんだろう。
「このままだといずれ、心まで腐怪と成り果てるであろうな」
無表情なミコを見詰めて、息を呑んだ。
「……どうやったら治せるんですか」
ミコが倒れているウキハの上から退いて、ウキハを見下ろした。
「知らぬ。それが、お主に近づいたこやつの運命であろ」
僕のせい……? 僕とあの時、出会ったから? ツキカで仲良くなったせいで? 僕はウキハにとって、良くない人間だったってこと?
冷や汗の浮かぶ額を手で覆って俯いた。
僕と出会わなければ、ウキハは普通でいられた。
脳裏にぱっと、テールと古蝶たちの姿が浮かぶ。同時に渡された古蝶の粉のことを思い出す。
『記憶を夢のように忘れさせる』
『危ない人から守ってくれる』
『危ないことがあったら使ってね』
僕はウキハにとって危ない人間だった。ウキハの記憶から僕を消せば、ウキハは元に戻れるかも。
手を退かして勢い良く顔を上げる。
ミコがウキハの体を引き摺ろうとしていた。
気絶しているウキハの顔を見て、夜通し会話したときのことを思い出してしまった。
──忘れられたくない……。
だけど、ウキハが僕のことを覚えている限り、ウキハはウキハじゃなくなってしまう。そんなの嫌だ。
「ミコさん。待って。待ってください」
水進船から降りようとしているミコを、掠れる声で呼び止めた。
「ウキハから、僕の記憶を消します。そうしたら、ウキハは元に戻れますよね……?」
感情の見えないミコの目元が、ぴくりと動いた。
「……馬鹿げたことを申すでない。お主を忘れたとして、こやつが他の物に心を揺らさぬとは限らぬ」
「それは……」
視線が彷徨う。
「それでも! 僕のせいでおかしくなることはなくなる。そうですよね!?」
ウキハを引き摺るのをやめたミコが、僕を見上げて何かを言おうとしてくる。
それを横目に、横たわったウキハに近寄り、鞄から古蝶の粉を取り出した。
ウキハの顔を見下ろして、ぐっと唇を噛み締めた。
「僕のことを……忘れてください」
唇が震えた。ウキハに粉を掛ける手が、とまりそうになる。
──きみが忘れても、僕は覚えているから。だから、大丈夫です。また、元気に旅を続けてください。
「忘れてください……お願いします」
包みに残った粉が、なくなった。
「ミコさん。ご迷惑をおかけしました。僕のせいで──」
「お主のせいではない。何度も言わせるなと言うたであろう。阿呆が……」
言葉に詰まった。乾いた笑いが出そうになる。
「こやつには妾が付いておる。お主はお主の道を行け」
返事をしようとして、声が出なかった。
軽く頭を下げて、ウキハが目覚める前に物陰に移動する。
本当は近くで見送りたかったけど、ウキハに見られる訳にはいかなかったから。
物陰からしばらく様子を見ていると、ウキハが呻きながら上体を起こした。
「ものすっごく、体が痛いんだけど!? なんで? というか……ここどこ? うぅ、なんか吐きそう……つら」
ウキハは口を押さえながらよろよろと立ち上がり、船縁に手を置いて、上体を乗り出し少しの間えずいていた。
「……ってここ、浄化されてる場所じゃん。……水が青い……あれ? ぼく……誰かを忘れている気がする」
顔を上げたウキハが、遠くの水面に視線を向けて動きをとめた。
ウキハの頬に一粒の雫が流れて、落ちた。
その姿を見ていられなくて目を逸らした。
──ウキハから記憶を奪ったのは僕だ。
震える唇を噛み締めた。
ウキハの様子が元に戻ったんだから、喜ばないと。
きつく目を閉じて、物陰に寄りかかった。




