見えない腐怪
テールに付いて草花の上を歩くと、腐敗の森との境界でテールが動きをとめた。
腐敗の森に向かって、テールが右前足で地面を踏み締める。
すると、蹄から湧き上がった緑の光が、森を一直線に照らし出し、ざわりと木々が揺れて一本の獣道が目の前に現れた。
テールの横でサラサが歓声を上げた。
腐った木々の幹に緑の蔦が絡まり、獣道を守るように小さな腐怪を捕らえているのが遠目に見える。
緑の蔦は獣道の上空にも広がり、その所々に緑や白の花を咲かせていた。
森のざわめきが収まると、テールが体の向きを変え、僕たちの顔を見てくる。
『では、無事を祈ろう。そなたらが戻るまで、道は残しておく』
エルドが腰に片手を当て、気怠げに頷き森に向かって歩き出す。
彼の腕から逃れていたコハクと顔を見合せたあと、テールに視線を向けて口を開く。
「ありがとうございます。行ってきます」
森を見て嫌そうな顔をしているコハクを促して、テールとサラサの横を通り、エルドのあとについて獣道に足を踏み入れた。
「……近くで腐怪見んの、耐えらんないんだけど」
しばらく獣道を歩いていたとき、ぼそりとした呟きが聞こえ、隣のコハクに視線を向ける。
「それなら、僕と一緒に隠れてますか? 遠くからでもコハクさんが力を使えるなら……」
下を向いていたコハクが、こちらに頭を巡らせてくる。
「そうする……」
彼の表情はまだ暗かったけど、足取りは少しだけ軽くなったみたいだった。
そんなに歩かないうちに、前を進んでいたエルドが立ち止まった。
「ここだな」
彼の背後から前方を覗き込む。
森の出口の先に、胞子が立ち込めた灰色の世界が広がっていた。
目を凝らしても、胞子ばかりで何も見えない。
神木の地からとても近かった。
エルドが徐に懐から胞子を吸う草を取り出し、森の外に放り投げる。
「投げんの!?」
「地面に植えるんじゃないんですか!?」
エルドの横顔がうるさそうに顰められた。
どうなるのかと投げられた草を目で追うと、左目が微かに疼き、胞子が揺らいで草が空中で消えた。
──何か……何かに、食べられた……?
「草が消えたんだけど」
右目だと胞子が揺らいでるだけなのに、左目には胞子の奥に透明な影みたいな、風景が揺らいだ。
濁った呻き声がそこから響いて、草が空中に現れ地面に落ちた。
──草を、吐き出した、のかな。
「……腐怪か……見えねー」
エルドが乱暴に髪を掻いて舌打ちをする。
草が胞子を吸ったのか、徐々に視界が晴れ、濁った川とぬめりを帯びた崖が広がっているのが見え始めた。
けれど、腐怪の姿はそこになかった。
でも、さっきは確かに見えた気がしたのに。
目を凝らして風景を見渡す。
地面に落ちた草のそば、風景が少しだけズレた。
「動いた……。エルド、そこに、います」
その方向を指差したとき、風景が崩れて一匹の腐怪が姿を現した。
大きな岩のような腐怪が地面を這っている。
口のような場所から舌らしき物が見え隠れしていた。
「……どっから出てきやがった……コハク、力を貸せ」
隣にいたコハクが強張った表情で頷き、懐から笛を取り出し、力強い音色を奏で始めた。
音が辺りに響くと、渓谷のそこかしこから新しい胞子が立ち上るのが見えた。
左目が痛い。
狼の姿になったエルドが地面を這っている腐怪に向かって疾走し、炎を纏った前足でその腐怪を切り裂き、浄化する。
左目に見える崖の風景がズレる。
「エルドッ……そっちにも、います!」
エルドが浄化した腐怪と同じ姿の腐怪が、姿を現しながらエルドに向かって舌を伸ばす。
エルドはそれをギリギリで避けたように見えたけど、前足の動きが少しおかしい。怪我をしたのかもしれない。
とっさにエルドの方へ駆け出そうとして、彼の鋭い目が僕を止めるようにちらりとこちらを見てきた。
ぐっと唇を噛んで、手を握り締める。
「……いた」
隣からコハクの呟きのあと、笛の音色が哀愁漂う音に変わり、エルドと対峙している腐怪の動きが鈍った。
その瞬間、エルドが腐怪に噛み付き、口からの炎で浄化した。
でも、左目に見える風景が、次々とズレていく。
右目では胞子が揺らいでいるだけなのに!
両目で見える風景が違って、気持ち悪い。
無意識に右目を片手で押さえて、左目だけで風景を凝視していた。
泥の川に二匹、いや、三? 対岸の崖に……何匹?
エルドの一番近くにいる腐怪は──。
「エルド! そこの川に三匹です!」
姿を現した腐怪の動きが、コハクの笛で鈍る。
その後、笛の音色が力強い音に変わり、崖からエルドが飛び、川の腐怪を切り裂き噛み付いて、炎で浄化していく。
崖にいた腐怪が川に集まってくる。
何匹いるのか、分からない。
「崖からきてます! 少なくとも、五匹はいます!」
風景が赤く染まる。頭が痛い。叫んでいるせいか、声まで枯れてきた。
五匹の腐怪が姿を現した。エルドが川から崖に駆け上がる。
渓谷に腐怪の鳴き声と、コハクの笛の音が響き渡っていた。
姿を現した腐怪の動きが鈍ったお陰で、ズレる風景の場所が分かった。
「もう三匹! 合わせて八匹!」
笛の音が哀愁漂うものから、力強い曲調に。
コハクの方から立ち上った蛍花がエルドの体に吸い込まれ、エルドが崖から地面に飛び降りた。
炎を纏った前足が地面を割り、地面から炎花が噴き上がる。
ひび割れた地面から八匹の腐怪に向かって炎花が咲き乱れていき、一匹一匹に当たって爆発した。
──終わった……?
赤くて灰色の視界に、ズレる景色はもうなかった。
右目から手を離して、両目で渓谷を見る。
立ち上る胞子も、もうなかった。
「……もう、いません」
ぼやける視界の中、エルドの姿が人の姿に戻った。
右腕から血が滴っているように見えた。
その腕で髪を掻き上げ、額の汗を拭って。
「……多すぎんだろ」
彼のその言葉が、薄れる意識の中響いて、体がぐらりと傾いた。
──さすが……エルド……。
「ちょっ、ロラン? だいじょう──」
慌てたようなコハクの声が耳を打つのを感じながら、意識が落ちた。




