渓谷
頬に当たる水滴の冷たさで、目が覚めた。
蓮の葉から落ちてきた朝露だったらしい。
上体を起こして辺りを見回すと、古蝶たちが小さな葉を器に朝露を集めていた。
どこに向かうのか見ていたら、切り株の上に木の実などを並べて、朝食の支度をしているらしかった。
自然と古蝶に混じって朝食の支度をしていると、他の場所からみんなが戻ってきて、テールや動物たちと切り株を囲んで、食事をすることになった。
「それで、テールさん。僕たちをこの地に連れてきた事情って、何ですか?」
木の実を食べながら、芝生に座っているテールに視線を向ける。
前脚に頭を預けて目を閉じていたテールの目が開き、僕たちを順に見回してきた。
『森を抜けた先に、人の子らがよく通っていた渓谷がある。されど、いつの頃からか、その渓谷に胞子が満ち、何らかの腐った物が縄張りとして住み着いてしまったようでな……』
「……え? それって」
コハクが何かを思い出したように鞄を漁り、カンナへの地図を取り出した。
「やっぱり。その渓谷、俺たちが森から抜けたら通るはずの場所なんだけど」
コハクが地図にじっと視線を落としたあと、僕たちを見回して、最後にテールへと問いかけるような眼差しを向けた。
『そうであろう。森を通る人の子らは、渓谷を行き来する者たちだけであったからな』
──あれ……? それなら、テールさんは僕たちをここに連れてくる必要なかったんじゃないのかな。
「テールさん。どうして僕たちをここに連れてきたんですか? 僕たちが渓谷に行くって分かってたなら、わざわざこの地に誘導する必要なんて、ないですよね……」
テールは僕を見て、少しの間沈黙した。
そして、森の方へと頭を向けて、口を開く。
『……何も知らずに腐った物と行き合い、悪戯に命を落とすのを見るのは、忍びなかろう。……あとは、我の都合もある。渓谷の腐った物を、どうにかして欲しいのだ』
エルドとコハクが、それぞれ違う種類のため息をついた。
「テールさん優しい! 私たちに危険だって教えてくれるために、ここに呼んでくれたんだ! それって、普段は人間をここに呼ばないってことでもあるでしょ?」
『優しい……? そうだな、普段はこの地を閉ざしておる。良からぬことを企む人の子もいるのでな』
テールが首を傾げたあと、サラサの方を見て頷いた。
──それって、僕たちがこの地をあとにしたら、またこの地は閉ざされるってこと? ……せっかく出会えたのに、もう会えなくなるの、残念だな……。
「……まあ、忠告してくれただけ、テールは良い奴だと思うよ」
コハクが地図を片付けながら、考え込むように呟いた。
「……あんたに言われなくても、浄化できる腐怪なら浄化するっつーの。……仕方ねぇ、コハクと俺で行ってくっから、ロランとサラサは待ってろ」
エルドが目を見開いているコハクの肩を掴んで、倒木から立ち上がる。
「……ちょっと待ってよ! なんで俺まで!?」
引き摺られるように立ち上がったコハクが、エルドの手を振り解こうと暴れた。
「待ってください! 僕も行きます!」
「私も私も!」
エルドの行く手を遮って、僕とサラサが彼を見上げると、彼は眉間に皺を寄せて立ち止まった。
「何がいるか分かんねーんだ。そんなとこに連れてけるか!」
「だけど! 僕だってカンナに向かうのに、何もしないでいるなんてできません!」
エルドが僕をじっと見て、眉間を揉んでため息をつく。
「……めんどくせぇ。付いてくんなら、危なくねー場所で隠れてろ」
胸元の小瓶を握り締めて、ほっと息をついた。
──近くにいることができれば、もし二人が腐怪にやられたとしても、すぐに治すことができる。
「ありがとうございます」
「やったー! ……腐った物って何がいるんだろー」
隣で目を輝かせて、ぼそりと不穏な言葉を呟いたサラサに、何とも言えない視線を向けてしまう。
エルドの手から抜け出そうとしていたコハクや、芝生の上に座っているテール、舌打ちしそうな表情のエルド、皆の目がサラサに向いた。
「……サラサ。お前は駄目だ。残ってろ」
森に向かおうとしていた彼女の動きがとまる。
「えっ……浮遊輪あるよ? 危なくないよ? それに私、胞子を吸い取る草も持ってるんだよ?! 私も行かないと!」
「……えっじゃねー! んな欠陥品、信じられっか! その草を出せ。有効活用してやる! けどサラサ、てめーは駄目だっ。おいテールッ。こいつ見張ってろ! それで今回のことは目を瞑ってやる」
コハクが肩を掴まれたまま、耳を塞いだ。
古蝶や他の動物たちが驚いたようにエルドを見て、さっと遠ざかる。
テールは動じた様子もなく、ゆっくりと起き上がってサラサの隣まで移動してきた。
『見張るのは良いが、もう一度聞いておこう。そなたの名は? 折角なのだから知っておきたい』
テールがエルドを見て首を傾げた。
「……は?」
険しい表情のままエルドが沈黙して、その後髪を乱暴に掻き上げた。
「カイだ。呼ぶ時はエルドって呼べ」
テールはしばらく黙ったあと頷いて、サラサとコハクはそれぞれ困惑したような表情で首を傾げた。
──あれ? 二人とも、エルドの名前、知らないんだっけ……。それとも、忘れてるだけかな。
「ねえねえ、私って、絶対ここに置いてかれるの……? 胞子吸う草……残り少ないのにっ」
サラサが往生際悪く、鞄から小さな袋を取り出して、エルドに渡しながら彼を見上げた。
「あとで戻ってくるっつーの。それまでうさぎと遊んでろ!」
草を受け取ったエルドがサラサからそっぽを向くと、彼女は肩を落としてテールに慰められていた。
その姿を横目に、胸元から小瓶を取り出して、首から組紐を外した。
じっと手のひらの小瓶を見詰めて、そっと両手で握り締める。
「サラサ。僕の父さん……この小瓶を預かっていてくれませんか? 絶対戻ってくるので、それまでお願いしたいんです」
テールの体に顔を埋めていたサラサが、僕の手元を見て息を呑んだ。
「……こんな大切な物……私が? えっ、ロランはそれでいいの!? やばい私、責任重大では?」
サラサは僕の手元と顔を交互に見て、戸惑ったように小瓶を受け取ってくれたあと、ぎゅっと小瓶を胸元で抱き抱えた。
『……もう良いか? 渓谷まで、我が道をつくろう』
こちらを見ていたテールが、森の方に顔を向けて、蹄を踏み出した。




