ニライ
枯れた草原を踏み締め、薄暗い澱みが漂う草原を避けながら、明るい道を歩く。
澄んだ空気を吸っているのに、横目で見える腐敗の地のせいで鼻の奥がツンとして、呼吸が浅くなる。
踏み出す足が重くなり、視界がフードで陰った。
首元で揺れていた小瓶の紐が、首筋に張り付く。
服の隙間から、小瓶の姿が覗いた。
……父さん。
胸元にある小瓶を、服ごと右手で覆う。
温かい風が吹いて、フードの端が翻る。
瞬きを繰り返して、息を飲む。
左手でフードが脱げないように頭を押さえると、晴れ渡った空が見えた。
父に背中を押された気がした。
「……そうだね。行こう。ニライはどんな場所かな……」
胸元の僅かな重さを感じながら、前を向いた。
◆◆◆
歩き続けて、アレースの地の柵と似たような柵が見えた頃には、陽が翳ってきていた。
柵の内側の、遠目には緑と桃色の一本の神木が、静かに根付いていた。
あれが、ニライ様なんだ……。
「綺麗だね、父さん」
小瓶の揺れを感じながら、目を細めた。
「おーい! そこの人ー!」
低く通る声が、斜め上から聞こえて視線を向ける。
柵の内側の物見櫓から、身を乗り出している男性がいた。
「アレースから来た人だよねー? 神木守ー?」
「あ、アレースから来ました! 神木守ですー!」
フードを脱いで、身元を明かす。
「神木守堂に行くことを勧めるよー! 今は宿屋満員ー」
「ありがとうございます!」
礼をすると、頭上から
「場所はー! ニライ様のお膝元だからー!」
親切に案内された。
僕はもう一度お礼を言って、柵の間からニライに足を踏み入れた。
◆◆◆
どこからか漂ってくる香草の匂いと、人々の騒めき。
肩がぶつかりそうな距離で人が通り過ぎていく雑路。
「街だ……」
生まれ故郷も、こんな感じだったかもしれない。
朧気な母の、柔らかな微笑みが脳裏を過ぎった。
美味しそうな匂いに釣られ、ふらっと寄り道をする。
街の中心地、ニライの神木まで歩く頃には、小腹が満たされていた。
◆◆◆
しめ縄で囲われたニライの神木。
その間近に、アレースの神木守堂より大きな堂が建っていた。
出入口の扉は閉じないように、外開きに固定されている。
中から出てきた二人が、僕の横を通り過ぎて行く。
「──アレースの特産……」
「地図からして──」
二人の会話が聞こえ、堂内に足を踏み入れながら、なんとはなしに横目で見てしまった。
アレースに行くのかな。あの地もこれから先、人が増えるのかも。神木が弱まったりしなければ。
無意識に胸元を握り締めていた。
気もそぞろに、行き交う人の間を縫って、帳場らしき所に向かう。
長テーブルを隔てて、気難しげな表情をした女性が、帳面と睨めっこしている。
「あの、すみません」
「はい?」
彼女は顔を上げず、ちらりと目線だけ僕を見て、二三度瞬きをし、きょろりと周囲を見渡した。
「……一人? ぁあ、アレースから?」
「そうです。何日かここで滞在させて貰いたくて」
「……え? 移住じゃなく?」
「はい。移住ではなくて、調べたい事と、護衛が必要で」
沈黙が落ちた。彼女が眉間を揉んで首を傾げる。
「とりあえず、名前と身分を教えて。後は……空いてる部屋があるから、これ、部屋の鍵。調べ物は明日にしてくれる? 今日はもう遅いから」
彼女は帳面を捲りながら、どこからか鍵を取り出しテーブルの上に置いた。
抑揚の少ない声音に、背筋が伸びる。
「ティエラの地の神木守、ロランです」
「……ん? ティ……なんて?」
帳面に筆を走らせかけていた彼女が、手を止めてじっとこちらを凝視してきた。
「ティエラ、です」
故郷は遠い。きっと彼女は、僕の生まれ故郷の名を知らない。僕も、アレースで知るまで、ニライを知らなかったから。
彼女は再び帳面に視線を落とすと、サラサラと筆を走らせ呟く。
「……そう。ティエラ……ね。その地の地図はあるの?」
「ありますが、繋がらないと思います。それに、地形も」
変わってるかもしれないし。
筆を置いた彼女が、頬杖を突いて見上げてくる。
指で目元を軽く叩きながら口を開く。
「……差し支えなければ、明日にでもその地図、写させてくれる? 繋がらなくても、意味はあるから」
少し目を見開いて、彼女を見詰めた。
彼女の言う通りだ。いつか、誰かがティエラを目指す可能性だってある。地図があるだけでも、それは希望だよね。僕だって、海を探すためにニライの地図を求めてるんだから。
「分かりました。部屋の鍵、借りて行きます。また明日、よろしくお願いします」
テーブルの上から鍵を持ち上げ、彼女に軽く頭を下げる。
「ええ。お休みなさい」
温かみの籠った声に顔を上げると、彼女の口角が心做しか上がっているように見えた。
鍵に書かれた部屋の名前を読みながら歩き出す。
「……あっ、ちょっと! ……力は何系? ……明日で──」
何だか慌てたような声が聞こえた気もするけど、僕は半分夢見心地で、その声は背後の人波に掻き消された。
欠伸が出る口元を押さえて、ふらふらと部屋に向かった。




