沼地
僕もエルドもツキカの地がどこにあるのか分からなかったから、お互いに向かったことがない方角の、神木の地を目指すことにした。
淀んだ空の、点々と輝く澄んだ空を確認しながら、ごつごつとした岩肌の下り坂を、息を切らしながら降りる。
斜め下では、狼姿のエルドが黒い目をこちらに向けて、前足で岩肌を引っ掻いていた。
下り坂を前に、エルドに乗せていくと言われたけど、いくら狼姿だからと言って、エルドは人間なんだから、その背に乗って移動するのは気が引けて断固拒否した。
エルドの目が、呆れを含んでいるようにも見えるけど、嫌なものは嫌だ。
頭上が暗闇に覆われた。
羽ばたき音が聞こえて空を見上げようとした途端。
強い風が体を襲い、足元が滑って、岩を掴んでいた手が宙に浮いた。
「……っわ──!!」
鳥の嗄れた鳴き声が耳をつん裂いていく。
視界に一瞬、赤が通り過ぎ、そのまま下り坂を転がる。
手足が岩に擦れて、胸元の小瓶を握り締めながら、必死に受け身を取る。
そのまま、泥沼に顔面から突っ込みそうになった瞬間。
体が何かに引っ張られ、空中に手足が浮いた。
視界の端に、赤い毛皮が見えた。
目を見開きながら、荒い呼吸をする。
身体中から冷や汗が浮き出していた。
襟首を咥えられたまま、きょろきょろと辺りを見回すと、泥沼の中で溶けかけの魚を両手で掴んでいる、長い髪の幼女と目が合った。
胞子で濁る視界の中、白に近いその目はとても目立っていた。
亜麻色の髪が、泥沼に浸って黒く斑模様になっている。
幼女が口を開いた。
左目の奥に鋭い痛み。
幼女の口から胞子が漂ったように見え、目が丸くなる。
言葉を発しようとした時、頭上がまたも暗く翳り、腐りかけの鳥の足が、魚ごと幼女を釣り上げた。
「……っえ!?」
そのまま、鳥の腐怪は空高く舞い上がって
「ぎゃーー!! ししょーー!?」
混乱したような少女の声が、沼地の奥から辺りに響き渡った。
声が聞こえた方を見ると、沼地の岸辺に泥に塗れた、少年の姿があった。
「どどど、どーしよ!? ししょーが喰われる!?」
少年、いや、少女かもしれない。その子は深紫色の前髪の隙間から覗く布製の額飾りを、くしゃりと握り締めて、尻もち姿から立ち上がり、こちらを見て動きを止めた。
藍色の目が、大きく見開かれ、その子の口が開く。
「狼に人が喰われてるーーッ!?」
その子がこちらを指差して叫ぶ。
「ち、違います! 喰われてません! そ、それより、あの子を助けないと」
慌てて弁明してる間に視界が上下に揺れ、沼地の上から岸辺に勝手に移動して、体が降ろされる。
僕の隣でエルドが人の姿に戻った。
「狼が、人に……。まさか、神木守……って、そうだ! 師匠ーーッ」
短い髪のその子は、僕とエルドを交互に見て眉を寄せた後、はっとしたように空を見上げた。
その子につられて空を見る。
そこには、鳥に掴まえられて、空に浮いている幼女の姿があった。
幼女は体をぶらぶらと揺らし、鳥に体重をかけてるようだった。
でもそれはあまり意味が無さそうで、鳥はそのまま遠くの岩山の方へ飛んで行く。
「エ、エルドやばい、どうしよう……あの子が腐怪に食べられちゃう! 助けに行かないと!」
「……腐臭がした」
「そりゃ、沼地に浸かってたんだから、腐臭もするよ!」
エルドを促して幼女を追おうとすると、彼は目を鋭く細めて、混乱している額飾りの子を見ていた。
「あんたからも腐臭がするんだよ。何者だ?」
エルドの言葉に、その子は少し顔を顰めた。
いや、だから……泥まみれなんだし、腐臭もするんじゃないの……?
「さっき、そこの沼に落ちたんだ。師匠に助けられたから良かったものの……魚に喰われるところだったんだよ!?」
どうしてそんな状況に……?
不運なその子に同情の眼差しを向けると、その子がじっと僕を見て首を傾げた。
なんだろ……。
「……って、こんなことしてる場合じゃ無かった! あのさ、師匠助けるの、手伝ってくれない? ……本当は、他人の手を借りるなって言われてるんだけど、ぼく一人でこの状況は……さすがに無理ッ!!」
その子は両手を拝むように組んで、僕とエルドに向かって頭を下げてきた。
「エルド……僕はあの子を助けたいです」
彼に頼ることしかできない自分が歯痒い。
じっとエルドを見詰めると、彼は乱暴に頭を掻いた。
「……しゃーねーな! 先に行くから死なねーように追ってこい」
エルドは額飾りの子に、一瞬鋭い視線を向けた後、狼の姿になり岩山に向かって疾走して行った。
それを見て、僕も、目の前の子と視線を交わして、エルドのあとを追い始めた。




