白い蝶
腐敗の臭い。飛び交う胞子と、腐怪の咆哮。視界一杯に広がった血飛沫。
倒れる父の姿。血まみれの顔。
「嫌だ! 父さんッ!!」
手を伸ばして
「やめ……なさい! ロラン……ッ!」
父の制止を振り切り、力を使った。
左目に灼熱の痛み。
ぽたりぽたりと左目から落ちてきた雫は赤かった。
赤い視界の中、傷が消えた父の顔だけが鮮明に見えた。
良かった……父さん……。ごめん……なさい。
世界が色を失って、父の叫びだけが耳の奥に木霊した。
暗闇。
一筋の白が揺れる。ひらひらと暗闇を飛び交う白い蝶。
左目が痛い。
白い蝶が離れて行く。ゆっくりと。
その姿に誘われるように目が覚めた。
無意識に胸元の小瓶を手で確認し、その存在を確かめ浅く息をついた。
左目を押さえて、瞬きをする。
天井の木目が見えた。
ここ、どこなんだろう……。あれ、そう言えば僕は……。
風が頬を撫で、朝露の香りが鼻を掠める。
視線を動かすと、太い木の幹が目に飛び込んできた。
……えっ? 神木!?
目を見開いて、勢い良く上体を起こす。
途端に腹部が微かに痛み、乱れた掛け布団の上から、その部分を手で押さえた。
そうだ。力を使ったんだった。あんな大怪我、絶対もっと痛みがあるはずなのに。……まさか、痛みが薄らぐほど日にちが経ってるとか!?
服を捲って肌を見る。
腹部から脇腹にかけて、黒々とした痣が、生々しく刻まれていた。
……そんなに経ってないみたい……。じゃあ何でほとんど痛くないんだろう。
首を傾げて、もう一度外を見た。
ひらり、と、視界の端で白い蝶が舞ったように見えて、ふらりと立ち上がる。
縁側の外は、薄く霧が立ち込め、柔らかな光がその隙間を縫うように、シオンの神木を照らし出していた。
侵し難い静けさに、しばらく見詰め続けた。
風が吹き、白い花が空から落ちてきて、地面の装飾になるのを眺めて、縁側から外に出る。
あの花は……何だか見覚えがあるような。
冷んやりとした空気が体を取り巻く。
遠くの方から微かに水が流れる音が響いてくる。
地面に落ちている花に近寄り、屈み込もうとした時、またも視界の端を白い蝶が掠めて、訳も分からず、その姿を追うように歩き出す。
しばらく歩くと、澄んだ水の匂いが辺りに満ち、目の前の霧が徐々に薄まった。
ひらひらと、白い蝶の軌跡が視界に広がり、すうっと消えた。
代わりに、白い服を纏った一人の少女の姿がそこにあった。
「……蝶が……人に?」
長い黒髪に飾られた紫の花が揺れた。
石の腰掛けに座っている少女の横顔が見えた。
「蝶……ですか?」
空気に溶けそうな声だった。
「お茶、飲みますか?」
彼女は首を小さく傾げた後、石造りのテーブルに細い手を指し示した。
そこには、手のつけられた形跡のある、細かな細工が施された淡い色の甘菓子と、まだ手のつけられていない湯呑みが置かれていた。
少女の手元を見ると、小皿に食べ掛けの甘菓子があり、手には飲みかけの湯呑みを持っていた。
「……どうぞ? お座りください」
状況が呑み込めない中、彼女に対面の腰掛けへと促され、断りを入れながら座る。
真横の湧水から、清涼な空気を感じ肩の力が抜けた。
「あの、貴女はどなたですか……?」
湧水の色が反射しているような彼女の目が、ゆっくりと瞬く。
「……すみません。名前を聞かれたのは始めてで、少し……」
短い沈黙のあと、彼女は頬に片手を添えて首を傾げた。
「私はシオン。シオンと申します。皆からは祭祀長と呼ばれております」
姿勢を正して、彼女は薄らと唇に笑みを履いた。




