Transmutation
ガモットたちが去り、セネは一人で事務室の留守を預かっていた。
「収支報告は完了、次は勤怠の締めですね……」
背後の机には処理された書類が山積されていた。セネは一人で事務室の業務を行っているようだ。
「また調達のほうに手が回らないですね……」
左の空席になっている机には、セネの本業の書類が控えていた。手付かずのまま、背後の山より高く聳えている。
「経理のパートさんは隔日出勤だし、室長はバカンス……帰ってきても戦力になりませんし、私がやるしかありませんね」
事務といえど、単調な作業が長時間に及ぶと体力をじわじわと奪う。セネは本日何杯目か分からないコーヒーに口をつけた。
「全く、分隊の人事はどうなっているのやら……調達は私だけ、物流が止まっても知りませんよ」
セネの調達が行軍に必要な物資を調達して発注し、ヴァーラたち資材がそれを管理する。有事の際には閑職なれど、平時は激務になるポジションだ。日頃の備蓄や管理が仕事になっている。
「輸送のほうに人ばかり増やして……事務方に派遣でもいいから欲しいものです」
事実、分隊の人事を司る本隊の人事部は現場を知らない。視察にすらたまにしか訪れず、内部監査もない。
「それにしても……」
ふと、セネは床に視線を遣る。その先には、灰色の塊があった。
「あれは衝撃的でしたね……まさか、ヴォルフさん」
灰色の塊はヴォルフだった毛皮だ。数時間前の、朝一番の出来事だった。狼隊長の中から人間が出てきたのである。
「忙しくて、深く考えないようにしてましたが……」
歩み寄り、灰色の塊を拾い上げるセネ。塊は上半身と下半身に分かれた厚手の毛皮と、暗い眼窩と緩んだ口でセネを見つめる頭部に分かれていた。
「……………………」
頭部を己と見つめるように、自らの目線の高さまで持ち上げるセネ。空洞の眼と対峙すること数十秒、自信の脈拍が早くなっていくのを感じた。
「ヴォ、ヴォルフさん……」
戦慄きだした指がシャツのボタンに触れる。淀みなく、シャツが脱衣の行程を踏襲すれば、自ずと指はスラックスに及ぶ。
「着て、みたい……被ってみたい……」
休日出勤で誰もいない事務室で、セネは一糸纏わぬ姿になった。女性と見間違うほどの華奢な印象なれど、元はスピアーズナイトであった杵柄が裸体の各所に見て取れる。セネは男性である。
「……っはう!」
興奮で熱を帯だした体一面で灰色の毛皮を抱き締めた。抱擁は暫し続き、セネは毛皮に頬擦りをする。
「獣、狼の匂い……!」
幼少期を共にした飼い犬を思い出してか、抱き締める腕の力も強くなっていく。
「はっ、はぁはぁ……」
獣の感触を一頻り堪能して、毛皮から顔を離す。セネの表情は、普段は見せない恍惚に満ちていた。
「獣……なってみたい、かも」
数時間前のショッキングな出来事からほんの少し後のやり取りを、セネは忘れているようだ。衝動に突き動かされるがまま、毛皮の下半身に足を通す。
「あっ……!」
毛皮の内側のひんやりとした感触が足を包む。下半身は爪先から臍までを覆う構造をしていて、爪先は少し大きめな靴下のような履き心地だった。
「意外と、足の指まで窮屈じゃないですね……」
くいくいと、足首を動かしてみる。ごわついて、ぎこちない動きながらもセネのサイズには合っているようだ。
「次は……」
臍から上、タートルネックのように首を覆い、指先は鋭い爪が付いた手袋が一体化している。長袖の衣類を着るようにして、セネは上半身の毛皮を纏う。
「見た目は私より大きいかと思いましたが、着てみると少しキツいですかね……」
胸部と腹部は鍛えられた筋肉が誂えられていて、毛皮の内側はタイトな構造のようだ。肉襦袢とコルセットが一緒になったようで、着心地はゆったりとしていない。
「それでも、私に合っていますね……」
手袋状の指先に全ての指を通し、何回か曲げてみる。厚手のグローブを嵌めたように、指の動作に違和感がある。
「最後は……」
暗い眼の怖い顔で睨む、狼の頭だ。常人なら狼を見ただけで怖じ気付きそうなものだ。しかし、セネは寧ろ、それを被ってみたい衝動を抑えられないでいた。
「んっ……!」
勢いよく、狼の頭を自らに被せた。
「ん……?」
恐る恐る、セネは目を開ける。見慣れた世界の端が楕円に切り取られ、ぐらぐらと頭が大きくなった感覚が伴う。それらと同時に、自らを身悶えさせる香りが立ち込めた。
「獣の香り、それと……」
獣臭ともう一つ、自身もよく知る匂いが狼の頭の中で鼻孔を擽った。
「これは、ハセガワさんの……?」
長谷川の、男性の汗の臭いだ。セネ自身も男性だし、現役のスピアーズナイト時代に親しんだ臭いだった。
「よく考えれば、ハセガワさんは長いこと毛皮を着てヴォルフさんだったんですよね……」
いとおしく、グローブの感触の手で頬を撫でる。他人の汗臭さで、被った頭を反射的に脱ぎ捨てたくなるようなものだが、自身が狼と一体になれた喜びのほうがセネには大きいようだ。窓や棚のガラスが写す姿を目にして上機嫌になった。
「何でしょう、激務の疲れが癒されていくようです……でも」
狼人間に一点の違和感を覚えた。
「……当たりますね」
自身の生殖器だった。動くたびに、毛皮の内側でヒタヒタと触れて違和感を生むのだ。
「あ、切れ目が……もしかして」
スラックスのファスナーのように、毛皮の股間に小さなスリットがある。恥ずかしさと嫌悪感を覚えながら、セネは自らの生殖器をスリットから通した。
「……………………」
実はセネ、男性不在の家庭で青年期まで育ったせいで、姉や母と違う生殖器を持つことにコンプレックスを抱いていた。今の歳に至るまで、自慰ですら数回しか経験していない。自身の生殖器に嫌悪感を覚えて興味すら遠ざけていた。
「……仕方ないとはいえ、恥ずかしいですね」
陰茎の先まで皮に包まれた生殖器を隠そうと、セネはスラックスと一緒に脱ぎ捨てた下着を履こうとした。下着は綿製の、黒猫と呼ばれる褌に似たものだ。実戦部隊はその黒猫式の褌と、布一枚で股間を覆うものが主流だ。激しい動きと武具で生殖器が安定するもの、脱着が容易で吸水性が高いものが好まれるので戦闘員は専ら褌を愛好する。事務方に転属になっても、そのときの履き心地を忘れられないのが多いのだ。セネもそのご多分に漏れず、顔に似合わずに褌派だった。
「毛皮の上からだと、付けづらいですね……」
褌の前部に生殖器を収めようとして、毛皮の尻尾に紐を巻き込んでしまった。
「痛いっ!」
尾てい骨に痛みが走った。痛みが走った場所を擦ろうと手を伸ばし、セネは尻尾を退かす。捻った紐をきつく結んで装着が完了したときに異変に気付いた。
「尻尾を挟んで、痛い……?変ですね、毛皮の尻尾のはずなのに……」
身を捻って尻尾を確認したセネは言葉を失った。
「うっ、動いている!尻尾が動いている!?」
ふさふさとした大きな尻尾が大きく上下に揺れているのだ。
「えっ、け、毛皮ですよね、尻尾?何で?えっ、えっ!?」
尻尾の動きに驚くや否や、次の瞬間、セネの全身を強い締め付けが襲った。
「いっ……!?」
足と腕との隙間を埋めるように、毛皮がひとりでに収縮し、セネの体をぴったりと覆う。
「い、痛いっ……!」
締め付けはギリギリと肉を絞り、骨を軋ませる。窒息寸前だ。足をばたつかせ、下半身の毛皮を払おうとするも時すでに遅し。臍の上にあった上半身との境目が無くなっていた。
「あっ、熱いっ!熱いっ!」
毛皮の内側が炎のように熱を持ち、セネの皮膚を熔かして焼け付く。
「ぬっ、脱げない……!」
焼ける痛みが顔にも及んだ。狼の頭を脱ごうとするも首の部分が上半身の毛皮と一体化し、脱ぐことができなくなっていた。
「んっ、んんっ……!」
懸命に頭や身体中を掻き毟り、毛皮と格闘するセネ。しかし、毛皮はセネの身体を覆ったまま剥がれる気配がない。
「ああっ……」
全身を襲う激痛に耐えきれず、ついにセネは膝から崩れ落ちてしまった。
「誰か………………」
肉が焦げる臭いを漂わせ、セネは気を失った。




