第四話 教科書は正しい。……イベント多すぎだが
木下藤吉郎の部隊は、目の前の光景に息を呑んだ。
今川義元の本陣だ。
ようやく見つけた。見つけたのだが……。
「信長様の言った通りでしたね。でも……あんなの相手にできるわけない……」
隣で毛利新介が呆然と呟いた。
まったくだ。
周囲には今川の兵が大勢いる。旗指物がいくつも立ち並び、どこを見ても敵、敵、敵。
こちらの人数とは比べものにならない。
見つけたのはいいが、これでは近づくことすら難しい。
敵に気づかれれば、たちまち囲まれて終わりだろう。
俺だって、死にたくはない。
できることなら、今すぐ引き返したい。
そもそも、俺たちの役目は偵察だ。今川義元の本陣を見つけたのだから、信長様には「お言葉どおりの場所で本陣を見つけました」と報告すればいい。
これ以上、危険を冒す必要はない。
そう考え、引き返そうとした、そのときだった。
頬に冷たいものが当たった。
ぽつり。
「……雨?」
もう一滴。
さらに一滴。
次の瞬間、雨粒が一気に増えた。
ざああああっ!
叩きつけるような雨が、あたりを包み込む。
視界が白く霞んだ。
人影も、旗も、敵の動きも、雨の向こうにぼやけていく。
――すごい雨が降る。
信長様の言葉が、頭の中によみがえった。
あの日、空は晴れ渡っていた。
雨雲など、どこにもなかった。
それなのに。
――すごい雨が降る。
――すごい雨が降る。
――すごい雨が降る。
雷鳴のように、その言葉が頭の中で繰り返される。
……本当に、降った。
どうして、あの方には分かったのだろう。
偶然なのか。それとも、俺たちには分からない何かを見ているのか。
考えても、答えは出ない。
ただ、ひとつだけ分かった。
信長様は、自分の想像が及ばないお方なのかもしれない。
そのとき、俺は走り出していた。
「藤吉郎様!?」
毛利新介の声が聞こえた。
自分でも、なぜ走り出したのか分からなかった。
勝てると思ったわけではない。
ただ、信長様の言葉が頭から離れなかった。
「推して参る!」
俺は叫びながら雨の中を駆け抜ける。
部隊も俺の気に押され、突撃する。
足元はぬかるみ、雨が顔を叩く。
敵の声が聞こえる。
何かを叫んでいるが、雨音にかき消されてよく分からない。
前へ。
ただ前へ。
目の前にいた敵兵を押しのけ、さらに奥へ進む。
ここで止まれば、全員が飲み込まれる。
何より、俺たち自身が生き残れない。
雨の向こうに、ひときわ目立つ一団が見えた。
今川の旗。
その中心にいるのは――。
「今川義元!」
毛利新介が叫んだ。
敵兵がこちらを振り返る。
遅い。
もう、目の前だ。
乱戦になった。
刀がぶつかり、怒号が飛び交う。
何が起きているのか、すべてを把握する余裕などなかった。
ただ、目の前の敵を押しのけ、進む。
そして――。
今川義元が、倒れた。
雨の音が、耳を覆い尽くす。
その瞬間だけ、時間が止まったように感じた。
……本当に、討ち取ったのか?
俺たちが?
あの今川義元を?
信じられなかった。
けれど、目の前の光景は消えない。
俺は、返り血と雨に濡れた顔を拭うことも忘れて、ただ立ち尽くしていた。
*
織田信長は、城の中で窓の外を眺めていた。
雨が降ってきた。
いや、降ってきたどころじゃない。
ものすごい雨だ。
……ゲームの記憶は、正しかったらしい。
俺は無意識に膝の上で固く固く握っていた拳を開いた。
頼む。
勝ってくれ。
俺を死なせないでくれ。
しばらくすると、外が騒がしくなった。
廊下を走る足音。
慌ただしい声。
そして、勢いよく開く襖。
「信長様!」
家臣が息を切らして駆け込んできた。
「今川義元、討ち取ったとのこと!」
その報せに、家臣たちが沸き立った。
勝った。
本当に勝ったのだ。
俺は、ようやく息を吐いた。
よかった。
これで死なずに済んだ。
……いや、待て。
「義元を討ち取ったのは、誰だ?」
「木下藤吉郎の隊、毛利新介とのこと!」
……ヨッシー?
俺は目を瞬かせた。
ヨッシーは、俺のあいまいな発言を信じてくれたのか。
いや、あいつがどう考えて動いたのか、俺には分からない。
けれど、結果として今川義元は討ち取られた。
教科書は正しかった。
……正しかったんだけど。
イベント、多すぎないか?
俺は、ようやく一つの危機を乗り越えたばかりだ。
この先も、教科書に書かれている出来事が次々と起きるのだろうか。
考えただけで、気が重くなる。
そのとき、家臣たちの話し声が耳に入った。
「今川を退けたとなれば、次は美濃との関係も考えねばなりませぬな」
「斎藤家か……」
俺は思わず呟いた。
義父を討った男。美濃の斎藤義龍。
そして、次に家督を継ぐ斎藤龍興。
……そうだった。
桶狭間を乗り越えたからといって、安心する暇もない。
俺が長生きするためには、まだまだ乗り越えなければならない問題がある。
どうしてこう、次から次へと面倒ごとがやってくるんだ。
せっかく生き延びたのに。
一難去って、また一難。
……頼むから、もう少し平和に生きさせてくれ。




