第三話 是非もなし……と言ってみる
ついにこの日が来た。来てしまった。
永禄三年。西暦で言えば、一五六〇年六月十二日。
桶狭間の戦いの当日だ。
俺が織田信長になってから、十四年。
その間に嫁を娶ってリア充の仲間入りもした。
父上が亡くなって家督も継いだ。
柴田ゴンちゃんと、ちょっと揉めたりもした。
そして……十四年もあったのに、桶狭間問題は何も解決していない。
地形を調べた。道も覚えた。川や山の位置も、逃げ込めそうな場所も、少しずつ頭に入れた。
いつか役に立つかもしれないと思っていた。
その「いつか」が、今日だった。
「……今川義元が、尾張に攻め込んできたんだよな」
俺は手元の教科書を開いた。
何度も読んだ箇所だ。
永禄三年、今川義元、尾張へ侵攻。
そして、桶狭間の戦い。
織田信長、勝利。
今川義元、討死。
結果は知っている。
問題は、その間だ。
どうやって勝ったんだっけ。
いや、勝つことは知っている。知っているけど、俺がどうやって生き残るのかは書いていない。
勝利と書いてあっても、戦場で痛い目に遭わない保証にはならない。
そもそも、教科書どおりに進む保証だってない。
俺がここにいる時点で、何かが変わっている可能性はある。
いや、変わっていないと思いたい。
変わっていたら困る。
ものすごく困る。
「殿……」
声をかけられ、俺は慌てて教科書を閉じた。
目の前にいたのは、柴田権六――ゴンちゃんだった。
「今川の軍勢は、我らを大きく上回っております。籠城して敵の動きを見るべきではないか、という声もございます」
そうだよな。
普通はそうするよな。
相手のほうが大軍なんだから、城にこもっていたほうが安全だ。
俺だってそうしたい。
「……籠城、か」
「はっ。殿のお考えをお聞かせください」
俺の考え。
そんなものがあったら、今ごろこんなに悩んでいない。
教科書には勝つと書いてある。
でも、もし籠城したせいで、教科書に書かれた歴史から外れてしまったら?
桶狭間の戦いが起きなかったら?
今川義元が生き残ったら?
その後の歴史が、俺の知っているものと違ってしまったら?
……いやいやいや。
そんなことになったら、俺はこの先どうすればいいんだ。
歴史を変えたくない。
できることなら、教科書に書いてあるとおりに進んでほしい。
それなら、少なくとも結果だけは分かっている。
俺は死にたくない。
だからこそ、勝つと分かっている戦いを、勝つ前にやめるわけにはいかないのではないか。
「殿?」
「いや。何でもない」
勝つと分かっているから戦う。
そう思っていても、まったく納得できない。
そして、戦えば死ぬかもしれない。
何だ、この詰んでいる感じは。
そのとき、ふと別の記憶がよみがえった。
── 雨。
そうだ。昔遊んだ戦国時代のゲームで、桶狭間ミッションは雨が降っていた。
どんな展開だったか、細かいところまでは覚えていない。
でも、たしか――。
「……たしか、田楽狭間にすごい雨が降る」
「殿?」
しまった。
声に出ていた。
振り返ると、少し離れたところに一人の若い男が立っていた。
木下藤吉郎。
のちの豊臣秀吉。
歴史に詳しくない俺でも、それくらいは知っている。農民から身を起こし、天下人にまで出世する人物だ。
まさか、こんな近くにいるとは思わなかった。
「今、すごい雨が降ると仰せられましたか?」
「え? ああ……たしか、そうだったような」
「たしか、ですか」
「うん。いや、違うかもしれないけど」
ゲームの記憶だからな。
そもそも、ゲームはただの演出かもしれない。
俺はただ、思い出したことを口にしただけだ。
藤吉郎は、じっと俺を見ていた。
……何だろう。
何か変なことを言っただろうか。
「ところで、藤吉郎」
「はっ」
「藤吉郎って、ちょっと呼びにくいな」
「は?」
「藤吉郎の吉を取って……ヨッシーでいいか」
「よ、ヨッシー……?」
「うん。ヨッシー」
俺は満足した。
こういうのは、距離を縮めるのが大事だ。
偉い人間だろうと家臣だろうと、嫌われたら面倒なことになる。呼びやすい名前で呼んで、少しでも仲良くなっておけば、いざというとき助けてもらえるかもしれない。
俺だって、好きでこんなことをしているわけじゃない。
長生きのためだ。
「嫌だったか?」
「い、いえ! そのようなことは!」
藤吉郎は慌てて頭を下げた。
どうやら、気に入ってくれたらしい。
よかった。
これで少なくとも、俺の味方が一人増えた……と思いたい。
「殿、いかがなさいますか」
ゴンちゃんが、改めて口を開いた。
「勝てる見込みがあるのですか」
俺は言葉に詰まった。
分かるわけがない。
俺は軍略家でもなければ、歴史の専門家でもない。ただの普通の人間だ。
けれど、ここで「分からない」と答えるわけにもいかない。
家臣たちは、俺の判断を待っている。
どうする。
こういうとき、信長なら何と言うんだ。
ふと、さきほどの戦国時代のゲームで聞いた台詞が頭に浮かんだ。
俺は、できるだけそれらしく、低い声で言った。
「是非もなし」
……決まった。
いや、何が決まったのかは分からない。
とにかく、今の俺にはこれが限界だった。
ゴンちゃんは黙って頭を下げた。
藤吉郎も、じっと俺を見つめている。
……え、何?
そんなに深い意味がある台詞だったのか?
俺はただ、ゲームで聞いたことがあるから言ってみただけなんだけど。
*
――藤吉郎
殿は、不思議なお方だ。
今川の大軍が迫っているというのに、時折、こちらが思いもよらない言葉を口にされる。
先ほどの雨の話もそうだった。
殿は、田楽狭間にすごい雨が降ると仰せられた。
だが、空を見上げても、雨が降りそうな気配はない。
初夏の空は晴れ渡り、雨雲ひとつ見当たらなかった。
殿のお言葉だからといって、何もかも信じられるわけではない。
そもそも、なぜ雨の話をされたのかも分からない。
それから、あの呼び名。
ヨッシー。
主君にそんなふうに呼ばれたのは初めてだった。
軽い調子で、まるで昔から知っている者に声をかけるように。
あのお方は、俺をどう見ておられるのだろう。
分からない。
だが、嫌ではなかった。
「藤吉郎様」
部下の声に、俺は我に返った。
「今川の本陣を探すのですか」
「ああ。田楽狭間を中心に探してみよう」
殿が口にされた地名だ。
そこに本陣があると決まったわけではない。
それでも、手がかりがあるなら探す価値はある。
俺は部下たちを率い、敵の動きを探った。
木々の間を進み、物音を立てないように気を配る。
敵の姿が見えれば身を隠し、旗の動きから本陣の位置を探る。
何度も足を止め、何度も道を確かめた。
殿の言葉を、深く考え続けていたわけではない。
今は敵を探すことが先だ。
やがて、先を行く兵が足を止めた。
「藤吉郎様……あれを」
木々の向こうに、旗が見えた。
今川の旗。
その数は、こちらとは比べものにならない。
さらに奥には、ひときわ目立つ本陣が見える。
見間違いではない。
今川義元の本陣だ。
ついに、見つけた。
だが――。
「あんなの相手にできるわけない……」
毛利新介が、思わず声を漏らした。
俺も、すぐには答えられなかった。
敵の数は多い。
こちらが少人数で攻め込んだところで、返り討ちに遭うだけではないのか。
殿は、何をお考えなのだろう。
あの「是非もなし」という言葉が、ふと頭をよぎった。
そして、雨の話。
俺は敵本陣から目を離せなかった。
目の前にあるのは、圧倒的な数の敵。
この先に何が待っているのか、まだ誰にも分からなかった。




