第二話 俺、これから何回死にかけるんだ?
信長。
織田三郎信長。
俺が、あの織田信長。
……いや、待ってくれ。
落ち着こう。まずは落ち着くんだ。
元服したばかりの俺は、部屋の中でひとり、頭を抱えていた。
ついさっきまで、俺は織田信長に仕えて長生きするつもりだった。
織田家の人間なら、親戚筋ということで少しは大目に見てもらえるかもしれない。戦場に出るような仕事を避けて、できるだけ安全な場所で暮らす。そういう人生設計だった。
ところが、俺自身が信長だった。
どうしてこうなった。
いや、理由はわかっている。わかっているけど、納得できるかどうかは別の話だ。
俺は手元の教科書を開いた。
『詳説 日本史』。
現代から持ってきた、唯一の頼みの綱だ。
ここに書いてあることが本当なら、俺はこれから戦国時代を生き抜かなければならない。
そして、最後には――。
本能寺の変。
天正十年、一五八二年。
織田信長、死去。
……死去じゃない。
焼死だ。
燃えさかる本能寺で死ぬ。
痛い。熱い。苦しい。
嫌だ。
絶対に嫌だ。
俺は教科書を閉じた。
いや、閉じてどうする。見なかったことにしても、歴史は変わらない。
もう一度開く。
信長の生年は一五三四年。死んだのは一五八二年。
四十九歳。
四十九歳まで生きられる、と考えるべきなのか。
それとも、四十九歳で死ぬ、と考えるべきなのか。
……どっちにしても、死ぬのは確定なのか?
いやいやいや。
教科書に書いてあるのは、歴史上の信長の話だ。俺がその信長になってしまった以上、同じ人生を歩むとは限らない。
でも、違う人生になる保証もない。
むしろ、俺が余計なことをして歴史を変えたら、もっとひどい目に遭う可能性だってある。
どうすればいいんだ。
歴史を変えないように生きるべきか。
それとも、歴史を変えてでも死を回避するべきか。
……いや、そもそも俺に歴史を変えるようなことができるのか?
俺はただの一般人だ。
戦国時代の知識だって、学校で習った程度。信長や秀吉や家康の名前と、有名な出来事を知っているくらいだ。
軍隊を動かす方法なんて知らない。城を攻める方法も知らない。天下統一のやり方なんて、もっと知らない。
そんな俺が、歴史を変える?
無理だろ。
だったら、せめて教科書に書いてあることを頼りにするしかない。
俺はページをめくった。
桶狭間の戦い。
一五六〇年。
今川義元を討ち取る。
織田信長の名を天下に知らしめた戦い。
……桶狭間。
知っている。
これは知っているぞ。
織田軍が圧倒的に不利な状況で、今川義元を討ち取る。学校でも習ったし、テレビやゲームでも何度も見た。
信長の有名な勝利だ。
つまり、勝つことはわかっている。
よし。
……よくない。
全然よくない。
勝つのは歴史上の信長だ。
俺は、戦場に出た経験なんてない。刀を振り回したことだってない。そもそも、人を斬るなんて考えただけでも嫌だ。
勝ったとしても、俺が死なないとは限らない。
歴史に残る勝利を収めても、俺だけ死んだら意味がない。
しかも、桶狭間は一五六〇年。
今は一五四六年。
あと十四年もある。
十四年。
……十四年もあるのか。
いや、十四年しかないのか。
俺は教科書を見つめた。
ここに書かれている未来を、どこまで信じていいのだろう。
歴史の結果は書いてある。
でも、そのとき何が起きたのか。なぜ勝てたのか。どんな判断をしたのか。細かいところまではわからない。
仮に教科書どおりに桶狭間で勝ったとしても、そこに至る過程が少し違えば、俺が死ぬ可能性はある。
それに、俺がここにいる時点で、すでに歴史は変わっているのかもしれない。
……教科書、信用していいのか?
唯一の頼みの綱なのに、肝心なところで信用しきれない。
困った。
だが、考えているだけでは何も変わらない。
俺は教科書を閉じ、深く息を吐いた。
まずは、できることから始めよう。
桶狭間まで十四年ある。
その間に、少しでも生き残る確率を上げる。
戦場に出ることになっても、逃げ道を知っていれば違うかもしれない。危険な場所を知っていれば、近づかずに済むかもしれない。いざというときに身を隠せる場所があれば、助かるかもしれない。
城や砦。
道や川。
山や谷。
教科書に出てくる地名を、実際に見ておこう。
もちろん、俺ひとりで勝手に動き回るわけにはいかない。今の俺は織田家の若君だ。行ける場所にも、できることにも限りがある。
それでも、現地を見ておくだけなら、少しずつできるはずだ。
築城だの軍備だの、そんな大それたことは今すぐできない。家督を継ぐまでは、父上の許しも必要だろう。
だが、調べることならできる。
そして、いつか家督を継いだら。
既存の城や砦を見直し、必要なところを補強する。足りない場所があれば、そこを整える。
戦に勝つためというより、まずは自分が逃げ延びるために。
……うん。
これなら、俺にもできそうな気がする。
俺は教科書を抱え直した。
天下統一なんて知らない。
歴史に名を残したいわけでもない。
ただ、痛い思いをせずに長生きしたい。
そのために、できることをやる。
まずは、十四年後の桶狭間に備えよう。
……本当に、教科書どおりに進むんだろうな?




