第一話 はじめまして、織田吉法師です
燃えていた。
天井が燃えている。柱も燃えている。障子の向こうで、誰かが叫んでいた。
熱い。煙い。息ができない。
「ちょっと待て! 待ってくれ! 俺、まだ死にたくないんだけど!」
誰に向かって叫んでいるのか、自分でもわからない。
ただ、目の前で炎が踊っている。
いや、踊っている場合じゃない。こっちは命がかかっているんだ。
俺は床を這い、出口を探した。
しかし、煙で何も見えない。
どうしてこうなった。
俺はただ、普通に生きていたかっただけなのに。
――天正十年、本能寺の変。
織田信長は明智光秀の謀反によって命を落とす。
小学生でも知っている、日本史の有名な出来事だ。
そして俺は今、その歴史の真っただ中にいる。
「知ってたよ! 知ってたけどさあ! 今日だったっけ!?」
いや、ちゃんと教科書に書いてあった。
だからこそ、俺はずっと気をつけてきたはずだった。
死なないように。
痛い思いをしないように。
歴史を変えて面倒なことにならないように。
そのために、俺は――。
*
いつものように目を覚ます。
今日は目覚ましアラームより前に目覚めたようだ。
しかし──
見知らぬ天井を見上げていた。
畳。木の柱。障子。
そして、やたらと重たい着物。
「……どこだ、ここ?」
起き上がろうとして、手元にあった本を落としかけた。
分厚い本だった。
表紙には、こう書いてある。
『詳説 日本史』
「……なんだこれ」
いや、知っている。日本史の教科書だ。
でも、なんでこんなところに?
ページをめくろうとして、俺はようやく自分の手に気づいた。
小さい。
子供の手だ。
慌てて自分の体を見下ろす。どう見ても大人の体ではない。
夢か?
そう思って頬をつねった。
「痛っ!」
夢じゃなかった。
そのとき、部屋の外から声がした。
「吉法師様、お目覚めですか?」
「……はい?」
吉法師?
誰だっけ、それ。
いや、なんか聞いたことがあるような気もする。
考えているうちに、襖が開いた。
入ってきたのは、見知らぬ男だった。男は俺を見るなり、ほっとしたように頭を下げた。
「そろそろ、お祈りの時間です」
「あ、うん」
とりあえず返事をする。
男の視線が、俺の手元に落ちた。
教科書。
現代の日本史の教科書。
戦国時代の部屋に、どう考えても場違いな本がある。
俺は反射的に本を布団の下へ滑り込ませた。
「……何かございましたか?」
「いや、何でもない」
男は不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
助かった。
こんな本を見られて説明を求められても、答えようがない。
横書き、カラー、写真、この時代に存在していい物体のはずがない。
それから俺は、少しずつ事情を知ることになった。
ここは織田という苗字の家だ。弾正忠家とも言われてる。
周りの人間は俺を吉法師と呼ぶ。
父親は織田三郎信秀という人物で、家臣からは「弾正忠様」と呼ばれてる。
さっぱり仕組みがわからない。
そしてなんと、「虎」の異名を持っているらしい。
マジ震える。
つまり、俺は織田家の子供として、この時代にいるらしい。
……いや、転生なのか、タイムスリップなのかはわからない。
そんなことより、問題はこれからだ。
戦国時代。
戦国時代だぞ。
現代なら、ちょっと仕事で失敗したって命までは取られない。嫌な上司がいても、最悪、会社を辞めればいい。
でも、この時代は違う。
戦に負ければ死ぬ。
主君に逆らえば死ぬ。
運が悪ければ、何もしていなくても死ぬ。
しかも、医療も衛生環境も現代とは比べものにならない。
ちょっとした傷が悪化しただけで命取りになるかもしれない。
「……これ、詰んでない?」
俺は布団の下から教科書を引っ張り出した。
とにかく、情報が必要だ。
この時代のことを知らないと、生き残る方法も考えられない。
教科書をめくる。
平安時代。鎌倉時代。室町時代。
そして、戦国時代。
織田信長。豊臣秀吉。徳川家康。
歴史が苦手な俺ですら知っている名前が並んでいる。
天下統一。
本能寺の変。
関ヶ原の戦い。
江戸幕府。
大まかな歴史なら知っている。学校で習ったし、ゲームや漫画でも見たことがある。
でも、細かいことは知らない。
誰がどこで何をしたとか、どの戦でどんな作戦を使ったとか、そんなものまで覚えているわけがない。
テストが終わったら忘れる程度の知識だ。
「……まあ、何とかなるか」
いや、何とかならない気もする。
とりあえず、俺が今いる時代について考えよう。
この時代、周囲には敵がたくさんいる。
今川家。斎藤家。その他にも、あちこちに大名やら武将やらがいる。
誰が勝つかは、教科書に書いてある。
でも、そこに至るまでの道筋は、俺にはよくわからない。
なら、どうするか。
俺が天下を取る?
無理。
歴史を変える?
もっと無理。
そもそも、俺は歴史を変えたいわけじゃない。
長生きしたい。
できれば、戦場に行かず、偉い人の機嫌を損ねず、食べるものに困らず、静かに暮らしたい。
そのためには、勝ち馬に乗るのがいいだろう。
誰が勝つかの答えは教科書に書いてある。
この時代で、最終的に天下を取るのは誰だったか。
織田信長。
豊臣秀吉。
徳川家康。
この三人が天下統一に関わることは知っている。
ただ、誰がいつ、どんな理由で勝つのかまではわからない。
秀吉は農民から出世した人なんだっけ? 家康は江戸幕府を開く。
どちらもすごい人だが、今の俺には、コネがない。
ここはひとつ、「織田」という姓を利用できないだろうか。
同じ姓なんだから、仕官すれば親戚扱いしてくれるかもしれない。
偉い人の親戚なら、最前線に放り込まれることもないだろう。
……たぶん。
よし。決めた。
「俺は、信長様に仕えよう」
うん。それがいい。
余計なことはしない。目立たない。偉い人に逆らわない。
信長様が天下を取るなら、その下で平穏に暮らせばいい。
俺は歴史を変えない。
教科書に書いてある通りに進めば、きっと安泰だ。
*
それからしばらくして、俺は父上――織田三郎信秀のいる部屋に呼ばれた。
部屋には何人かの家臣が集まっていた。
どうやら、揉め事らしい。
俺は端のほうに座り、なるべく気配を消した。
偉い人たちの話し合いに、子供が口を出すものじゃない。
そう思っていたのだが、話の中に聞き覚えのある名前が出てきた。
「柴田 権六(勝家)の処遇について、いかがいたしましょう」
「命に背いたことは事実。厳しく処分すべきかと」
「しかし、あの者がいなければ、こちらの兵も戻れなかったのでは」
権六。
柴田勝家って権六って呼ばれてたんだ。
確か、後々まで活躍する人だったはず。
なのに、処分?
俺は思わず口を挟んでしまった。
「……ゴンちゃん、何か悪いことしたの?」
部屋が静かになった。
「ご、ゴンちゃん……?」
誰かが聞き返した。
しまった。
あだ名をつける癖が出た。
俺は人の名前をそのまま呼ぶのが、どうにも苦手だった。偉い人だろうが、年上だろうが、名前を少し崩して呼ぶと、なんとなく話しかけやすくなる。
敵を作りたくない。
たぶん、そういう気持ちがどこかにあるのだと思う。
まあ、自分でもよくわからないけど。
「権六は、織田のことを思って行動したのではありませんか?」
俺は虎と呼ばれる父上に向き直った。
正直、少し漏らしてたかもしれない。
「命令に背いたのは、よくなかったのかもしれません。ですが、織田のためにならないと思っていたなら、わざわざ危ないところに残ったりはしないのではないでしょうか」
大人たちは顔を見合わせた。
俺としては、ただ疑問に思ったことを口にしただけだ。
権六が何を考えていたかなんて、俺にはわからない。
ただ、織田家のために動いていたつもりなら、いきなり追い出すのはもったいない気がした。
信秀はしばらく黙っていた。
やがて、家臣たちに問いかけた。
「権六が命に背いた事情を、詳しく聞いたか?」
「いえ、まだ十分には」
「ならば、まず話を聞こう。働きまで無にすることはあるまい」
話し合いの結果、柴田権六は処分を免れた。
俺はほっとした。
よかった。
偉い人たちが勝手に揉めて、勝手に解決してくれた。
これで俺が巻き込まれることもないだろう。
そう思っていたら、部屋を出るときに、廊下の向こうから大柄な男がやってきた。
厳つい顔。鋭い目つき。いかにも武将という雰囲気だ。
権六だった。
柴田は俺の前で足を止め、深々と頭を下げた。
「若君。このたびは、お言葉を賜り、かたじけなく存じます」
「えっ? あ、うん……ゴンちゃん、頑張ってね」
柴田の顔が、ほんの少しだけ引きつった。
後ろにいた家臣が、慌てて咳払いをする。
……あれ?
もしかして、ゴンちゃんって呼んじゃ駄目だった?
まあ、いいか。
怒られなかったし。
その日以来、柴田は俺に対して、以前より丁寧に接するようになった。
俺には理由がわからなかった。
*
月日は流れた。
俺は相変わらず、なるべく目立たず、揉め事に巻き込まれずに過ごしていた。
家臣たちの名前には、いつの間にかあだ名が増えていた。
丹羽 五郎左衛門(長秀)はゴロちゃん。
滝川 彦右衛門(一益)はイチマス。
佐久間 右衛門(信盛)はさくまん。
このあたりは、顔を合わせる機会が増えるにつれて自然に呼ぶようになった。
もう少し後になるが、若い小姓だった前田犬千代(利家)は、いぬっちと呼ぶことにした。
本人は一瞬きょとんとしていたが、特に文句は言わなかった。
……いや、言えなかっただけかもしれない。
どちらにしても、俺はそのほうが話しやすかった。
偉い人に対しても、偉そうな呼び方をしない。
そうしておけば、少しは嫌われにくいんじゃないかと思ったのだ。
もっとも、家臣たちは最初こそ戸惑っていたが、やがて誰も何も言わなくなった。
俺はそれを、受け入れてもらえたのだと思っていた。
そして、ついにその日が来た。
元服。
大人としての名前を与えられる日だ。
儀式は滞りなく進んだ。
俺は緊張していた。
この時代の作法なんて、ほとんど知らない。
余計なことをして怒られたらどうしよう。
そんなことばかり考えていた。
やがて、父上から新しい名を告げられた。
「これより、そなたは織田三郎信長と名乗るがよい」
……ん?
信長?
織田三郎信長?
俺は頭の中で、その名前を繰り返した。
教科書のページが、脳裏に浮かぶ。
織田信長。
尾張の戦国大名。
桶狭間の戦い。
天下布武。
本能寺の変。
日本史の教科書に、何度も出てきた名前。
俺はゆっくりと顔を上げた。
「の……信長!? 俺が?」
部屋にいた家臣たちが、怪訝そうな顔をした。
そりゃそうだ。
今さら何を驚いているのか、という話だろう。
でも、俺にとっては大問題だった。
俺は信長様に仕えて、安全に暮らすつもりだったのだ。
信長様が天下を取るなら、その下で平穏に生きればいい。
そう考えていた。
なのに。
俺が信長?
天下統一?
桶狭間?
そして、本能寺の変?
「……嘘だろ」
俺は膝から崩れ落ちそうになった。
今までの人生設計が、音を立てて崩れていく。
俺、信長様に仕えるつもりだったんだけど。




