第五話 そうだ、京都行こう
桶狭間の戦いから、しばらくが経った。
今川義元を討ち取ったことで、尾張に迫っていた脅威はひとまず去った。
……ひとまず、だ。
俺は教科書を開いた。
歴史の授業で習ったことは、決して多くない。細かい戦の経緯や、武将たちの考えまでは覚えていない。
それでも、教科書には大まかな流れが書いてある。
俺が生き延びるための、ほとんど唯一の手がかりだ。
次は……美濃か。
斎藤義龍。
俺の義父を討った男だ。
その義龍が死に、息子の斎藤龍興が家督を継ぐ。
教科書の記述を追いながら、俺はうなずいた。
そうだった。
桶狭間で勝ったからといって、すぐに天下が平和になるわけではない。
むしろ、ここからが本番なのだろう。
……嫌だなあ。
俺は天下を取りたいわけではない。
ただ、できるだけ長く生きていたいだけなのに。
教科書をさらに読み進める。
すると、次の記述が目に入った。
足利義昭を奉じて上洛。
この足利義昭さんって人を連れて、京都へ行けばいいのか?
いや、そもそも「奉じる」って具体的に何をすればいいんだ?
……誰かに聞けば分かるだろうか。
いや、駄目だ。
そんなことを聞いたら、無知だと思われる。
俺は織田信長なのだ。教科書に書いてある言葉の意味も分からないなんて、さすがに格好がつかない。
……頭に浮かんだどこかで聞いたキャッチフレーズが口から出てしまった。
「そうだ、京都行こう」
「の、信長様……!?」
近くにいた藤吉郎が、目を見開いた。
え、何?
俺は教科書を見つめたまま、考え込んだ。
ヨッシーにそれとなく聞いてみるか。
「奉じる……ってさ──」
「……なるほど!」
藤吉郎が、勢いよく顔を上げた。
えっ、何が? まだ聞けてないのに!
「畏まりました。手配の段、藤吉郎にお任せくだされ!」
……何か分かったらしい。
まあ、本人がそう言うなら任せよう。
俺は教科書を閉じた。
これで、次のイベントも乗り切れるはずだ。
ついでに、あそこも見ておくか。
「そういえば、本能寺にも寄れるかな」
「……本能寺、でございますか?」
「ああ。ちょっと気になってな」
藤吉郎は、わずかに目を見開いた。
……まあ、寺の名前を口にしただけだし、そんなに驚くことでもないだろう。
*
その後、俺は足利義昭さんを奉じて上洛した。
教科書に書いてあったとおりだ。
京都へ向かい、義昭さんは将軍に就任した。
……よし。
これで、ひとまず一つのイベントを乗り越えた。
俺はひそかに安堵した。
ただ、京都に入ったからといって、すべてが片づいたわけではなかった。
むしろ、面倒ごとは増えていった。
*
将軍家を支える織田信長。
将軍を奉じて上洛を果たした男。
そんな言葉が、あちこちから聞こえてくる。
……え?
そんなに大変なことだったのか?
いや、教科書には確かに書いてあった。
でも、俺はただ、歴史を変えないように書いてあるとおりにしただけだ。
この足利義昭さんって人を連れて、京都へ行く。
それが、そんなに大きな意味を持つなんて。
……知らなかった。
気づけば、俺の周囲には、俺の動きを警戒する者が増えていた。
将軍家を頼りにする者がいる。
将軍家の権威を利用しようとする者もいる。
そして、将軍を支える俺の存在を恐れる者もいる。
誰かが俺に従えば、それを面白く思わない者が出てくる。
誰かと手を組めば、別の誰かとの関係が悪くなる。
……何だ、この面倒な仕組みは。
俺はただ、歴史を変えないようにしているだけなのに。
教科書には、上洛したことも、義昭が将軍になったことも書いてある。
だが、そのあとに誰が何を考え、誰が誰を警戒したのか。
そんなことまでは、いちいち書いていない。
俺は教科書を開き直した。
何か見落としているのだろうか。
……いや、書いていないものは仕方がない。
とにかく、分かる範囲で歴史をなぞるしかないのだ。
*
藤吉郎は、殿の言葉を思い返していた。
桶狭間では、殿が口にした雨が本当に降った。
そして今度は、突然の上洛。
殿は「京都行こう」と、まるで思いつきのように仰せになった。
だが、その結果、将軍家を支える立場を得た。
偶然なのだろうか。
それとも、俺たちには見えない何かを、殿は見通しておられるのだろうか。
……いや。
それよりも、気になることがある。
先日、殿は何気ない調子で、こう仰った。
――本能寺にも寄れるかな。
本能寺。
寺の名だということは分かる。
だが、なぜ本能寺なのだろう。
本能寺に、何があるというのか。
殿は、何を確かめようとしておられるのか。
聞いてみたい気持ちはあった。
しかし、今はまだ、尋ねるべきではない気がした。
藤吉郎は、その名を胸の内に留めた。
いつか、その意味が分かる日が来るのだろうか。
*
……それにしても、面倒だ。
俺は、机の上に広げた教科書を眺めていた。
上洛した。
義昭も将軍になった。
なのに、安心できるどころか、敵が増えている気がする。
歴史を変えないように動いているだけなのに、どうしてこうなるんだ。
この先、教科書に書かれている出来事が起きるたびに、こんな思いをするのだろうか。
考えただけで、気が重くなった。
俺は次のページをめくった。
……金ヶ崎。
その文字を見て、少しだけ記憶がよみがえった。
確か、ここで撤退することになる。
でも、信長は生き延びる。
教科書にそう書いてあったはずだ。
なら、何とかなるだろう。
俺は、あまり深く考えずに教科書を閉じた。
「……次は金ヶ崎か」
まだ、俺は知らなかった。
教科書に結末が書いてあることと、そこまで無事にたどり着けることは、同じではないのだ。




