39話 血と涙
転移魔法の陣を切り開いてルシエルがたどり着いた森は、ほんの少しの間に、まったく様相を変えていた。
静かすぎるほどに、変わり果てていた。
そこには、穴だらけになった火喰鳥の親子の死骸が転がっていた。
親鳥の巨体は、無数の小隕石の貫通痕で蜂の巣にされ、巨大な翼は引きちぎられ、地面に血まみれの羽が散らばっていた。
子鳥も同様に体を貫かれ、小さな体が地面に叩きつけられたように横たわっていた。
その小さな翼は折れ曲がり、羽は焦げ、首は不自然にねじれ、まだ幼い瞳は虚ろに空を映していた。
ルシエルは周囲を見回した。
焼けこげて、まだぶすぶすと燻っている樹の下に、見知らぬ魔族の少年が倒れている。
一見、どこかの若い従者か小姓といった風情で、花嫁狩りの参加者には見えない。
何かの偶然で、不運にも戦闘に巻き込まれたのか――彼も全身に小隕石の直撃を受けて、身体のあちこちが挫滅していた。
レジナルドとリリアの姿は、見当たらなかった。
地面には、高位魔術の痕跡が残っている。
小隕石の軌跡は精密に制御されており、下級悪魔であることを条件づけられた"花嫁狩り"競争の参加者で、扱えるような術ではない。
明らかに高位の魔術者による、意図的な襲撃だった。
サタンの嫡子であるアスモデールが臨席すると知って、演出を最優先した男爵が、"花嫁狩り"競争のルールを完全に反故にしたのは明らかだった。
サバト会場である古城から、ルシエルは何とかもう一度、リリアの肉体に意識を飛ばそうとした。
しかし、リリアの肉体は主の精神波を受け入れなかった。
いや――すでに受け入れる器を失っていた。
接続は、完全に切断されていた。
そして、再び森に立ち、リーザの馬車のすぐ近くに倒れているリリアを見下ろして、彼はその理由をはっきりと知った。
無慈悲に額を撃ち抜かれた淫魔の仔の遺骸は、もう冷たくなっていた。
「リリア……」
可愛らしい顔の半分だけを残して、リリアの瞳はぼんやりと遠く、はるか天を仰ぎ見ていた。
レジナルドは――リリアをかばおうとしたのだろう、彼女に片腕を掛けたまま、うつぶせに倒れていた。
背中から太ももまで連続して貫通した小隕石の痕。
彼の肌は、すでに青白く変わっていた。夥しい出血。
しかし、レジナルドには、まだかろうじて……息があった。
「しっかりしろ、レジナルド! 何があった……!」
ルシエルは歯を食いしばり、必死で彼を抱き起す。
レジナルドの腹から、どくどくと鮮血が溢れだす。これでは動かせない。
眼鏡はひび割れ、蔓が外れて片方の耳にかかっているだけだった。
治癒魔法で止血を試みるが、出血量に治癒速度が追い付かない。これではもう、助からない……
「レジナルド……!!」
血を絡めた、苦しい呼吸を漏らしながら、レジナルドが片目だけを見開いて、ルシエルを見た。
「……あきません……俺、死にますわ……」
薄く微笑みを浮かべて、言った。
「肉体のほろぶ時が来ました……これで閣下との盟約、終わらしてもらいます……」
「馬鹿を言うな、必ず助ける……!」
忠実な第一従者はじっと、その薄い灰色の瞳でルシエルを見つめた。
その眼差しは、危なっかしい弟を見守る"兄"のそれのように、ただひたすらに優しかった。
「閣下のお傍に……最後までおれませんでした……。中途半端になってもて……すんませんでした……」
涙をにじませたレジナルドの瞳から、光が少しずつ消えていく。
双子たちに続いて、彼までもが、ルシエルの元から去ろうとしている。
人間であるレジナルドを、彼の能力を見込んで第一従者とした時から、彼の定められた寿命がいずれ、あっけなく尽きることは理解していた。
それでも今、死にゆくレジナルドをかき抱いて、ルシエルはその命を諦めることができなかった。
「駄目だ! 死ぬな、レジナルド!死なないでくれ……!!」
彼の頭を抱いて、ルシエルはその耳元で叫んだ。
レジナルドだけは死なせないと、彼を"花嫁狩り"に出す時に、固く自分に誓っていた。
次の瞬間、ルシエルは躊躇わず、爪でおのれの舌を切り裂いていた。
激痛と共に、口の中に熱い体液が溢れだす。
自分の喉に溢れ落ちる魔族の血――レジナルドの顔を両手で掴み、必死に口移しでそれを飲ませた。
レジナルドの中に、舌を深く差し入れ、必死に念話で呼びかける。
(吸え! 俺の血を吸え、レジナルド!)
レジナルドは応えなかった。
(吸え! 吸うんだ!)
ルシエルの口の中で、かすかにレジナルドが反応を返した。
力なく、彼の舌を吸った。
(そうだ、吸え! 強く、もっと!)
ルシエルは、恋人を抱くように強く、そして固く彼の従者を抱いた。
レジナルドに彼の生命を分け与えようと、血にまみれた舌を絡めながら、必死に生温かい血を注ぎ込む。
彼の父であるハデス公が、ほんの数日の延命のために、人間である母に飲ませたという魔族の血――
たとえわずかな時間であっても、人間であるレジナルドの命を繋ぐことが出来れば、まだ希望はある。
ただ、そう信じたかった。
ごぶっと音を立てて、レジナルドが呑み切れなくなった血を吐いた。
喉元まで血で濡らして、がくりと頭を倒している。
これ以上は入らない――しかし、治癒魔法が少しずつ、効果を表し始めているのが判った。
今なら、まだ間に合うかもしれない――。
魔界で待機させている、女中頭のミス・アルマ。
彼女はルシエルの幼少期から世話を焼き、彼が信頼を置く、数少ない中位魔術の使い手だった。
そして、ルシエルの古代詠唱、転移受け入れの術式もこなせる唯一の女性だった。
「ミス・アルマ!」
ルシエルは、必死で魔界に呼び掛けた。
(ルシエル様、聞こえますわ。ご指示を!)
「レジナルドが死にかけている! これから陣を張って、彼だけをそちらへ転移させる!
まだ生きているが、出血がひどくて、治癒魔法でなんとかもたせている状態なんだ。頼む、……彼を助けてくれ!!
俺は、レジナルドを失いたくない!!」
パリパリと音を立てて、ルシエルの前に弾ける電光とともに、複雑な文様が回転しながら転移の陣を刻む。
「ミス・アルマ! 受け止めてくれ、いま送る……!!」
魔界と人間界。二つの世界を繋ぎ、術を切る――
瞬間、空間をゆがめながら円陣が滑り、血まみれのレジナルドを小さな粒子に変えながら削り取った。
レジナルドの存在していた場所には、ただどす黒い彼の大量の血痕だけが残っている。
彼を貫き、地面にめり込んだ小隕石が、まだ水蒸気を発しながらくすぶっていた。
「ミス・アルマ!」
反応がない。
(……ルシエル様、ご安心ください。彼を”受領”しました。
酷いわ、顔も真っ青で穴だらけ。でも、かならず生かします。
……双子たちは無事ですか? もし彼女たちも――)
「いや、双子は送らない……。ありがとう、ミス・アルマ。……レジナルドを頼む」
ルシエルは、静かにそれだけ言って、念話を切った。
ルシエルは、リリアの小さな体がゆっくりと透明になり、粒子のように散りゆくのを、ただ見つめていた。
彼女のまだ形をとどめている片側の頬に触れると、そこにはまだ、少女らしい肌の柔らかさを残していた。
だが、もう二度と、その瞳が彼を映すことはない。
「お前には、さよならも言えなかったな、リリア。――お前は、いつも俺を思いやってくれた」
声は低く、乾いていた。
感情を押し殺すように、言葉だけが零れる。
「お前は、俺の傍にいてくれるのが当たり前だった。
俺がどれだけ冷たくしても、どれだけ突き放しても、お前はただ、そこにいてくれた。
俺の醜い部分を全部見て、黙って受け止めてくれた。」
せめて彼女の小さな肉体が、この世界から消え去る瞬間までを見送ってやりたかった。
――胸が締め付けられて、息が出来ない。
しかし、リーザはすでに、フォルネウス男爵に確保されている。
リーザがこれから迎える運命――
魔界全土に張り巡らされた魔力網に晒され、サバトの生贄台に載せられる。
サタン帝王の嫡子、アスモデール殿下の手によって蹂躙され尽くされ、生贄として残酷に屠られるその刻が、リーザ姫に迫っていた。
だからこそ、ルシエルには双子たちのために涙を流す、わずかな時間すら許されなかった。
そして、そうわかってはいても、ルシエルは嗚咽を止めることが出来ない。
声を上げることなく、彼は肩を震わせて泣いた。
*
司会者の甲高い声がマイクを通じて、何度も興奮で裏返りながら響き渡る。
「さぁ皆様! 美しきプリンセス・ルイーゼが到着しました!!
さぁ今こそ!!無惨に散りゆく処女の為に、なお一層大きな拍手をお送りください――!!」
歓声と口笛が、爆発的に沸き起こる。
巨大スクリーンに映し出されるのは、生贄台に引きずり出されたリーザの姿だった。
鎖で繋がれた両手は力なく垂れ下がり、雪のような白い肌が無防備に晒されている。
金色の髪は乱れ、頰や首筋には赤く腫れた打撲痕が痛々しく残り、汗と涙で濡れた顔は、完全に意識を失っている。
会場はすでに熱狂の渦に包まれていた。
数千の悪魔たちが、階級も種族も超えて詰めかけ、生贄台を取り囲むように立ち並び、興奮と欲望に濁った目でリーザを見つめている。
興奮と殺意に満ちた目という目が、リーザを貪るように舐め回す。
アスモデール殿下がゆっくりとステージに上がり、冷たい笑みを浮かべながらリーザの顎を掴んで顔を上げる。
気を失っているリーザの唇を親指でなぞり、ゆっくりと囁くように声を落とす。
「さぁ、はじめようか……美しい姫君」
その声は低く、甘く、しかし底知れぬ冷たさを帯びていた。
会場が一瞬静まり返り、次の瞬間、狂乱の歓声が天井を突き破るように爆発した。
「さぁ、始めよう!――この生贄の、甘い悲鳴を、全魔界に響かせてやる!」
サバトは、今、異様な熱狂の最高潮へと突き進もうとしていた。




