38話 不意の客
馬車の扉が勢いよく開き、血と泥に塗れたリリアの姿をしたルシエルが、転がり込むように飛び込んできた。
外の炎と断末魔が一瞬だけ馬車内に吹き込む。
血を焼く匂いと熱風が、外の世界の地獄を伝えていた。
リーザは隅に体を寄せ、膝を抱えていた。
金色の髪は乱れて頰に張り付き、細い腕や肩に赤く腫れた打撲痕がいくつも浮かんでいる。
それでも大きな裂傷や骨折はなく、唇を強く噛みしめ、飛び込んできた血まみれの魔性の仔を見上げた。
その紫の瞳——間違いなくルシエルだった。
「……ルシエル?」
リーザの声は小さく震えていた。
リリアの姿をしたルシエルは、息を切らしながら体を起こし、血まみれのままリーザの前に膝をついた。
返り血で全身を赤く染め、細い尻尾は弱々しく床に垂れ下がっている。
「リーザ……俺だ。無事でよかった」
小さな、弱々しい女の子の姿。
リーザの瞳には、ルシエルその人の姿がそのまま映っていた。涙が溢れ、そのまま、少女の姿をした恋人に固くしがみついた。
「……怖かった。とても怖かったわ……」
声は途切れ途切れで、感情が溢れて止まらなかった。
泣きじゃくるリーザのこれまでの不安を思って、やるせない気持ちでルシエルもまた、彼女を強く抱きしめた。
「外は血と炎で……護衛の人たちはみんな……。あなたがなぜここにいるの。なぜこんなことに……」
ルシエルはリリアの小さな手で、リーザの手をそっと包み込んだ。
「怖がらせてすまない。だが、必ず救う。俺がお前を守る」
リーザは震えながらも、ルシエルの瞳をじっと見つめた。
ルシエルは低く、しかし確かな声で続けた。
「お前を助けるために、俺は今までよりも、もっと残酷な苦しみをお前に与えるかもしれない。
最善を尽くす。何があっても俺を信じて、心を折らないでくれ。
今はとにかく、お前の命を守りたい。ただそれだけなんだ」
花嫁狩り競争に負け、レジナルドが命を落としたならば、リーザはサバトの犠牲者として会場に引きずり出される運命だった。
そうなった時、ルシエルは冷酷な魔王として、――サバトの最も高位な賓客として、彼女を衆目の前で犯し、彼女を”合法的な”所有物とすることを、すでに彼は決めていた。
清らかな花よりも、残酷な果実を選ぶ――
とても言葉に出しては伝えられない”最後の保険”であり、彼自身の苦汁の決断だった。
そして、そんな運命は絶対に選びたくなかった。
リーザとの愛を、そしてレジナルドの生命を守るために、彼はまだ闘わなければいけなかった。
「信じてくれ、お願いだ」
リーザは一瞬息を呑み、頷いた。
「……わかった、信じるわ。だから、貴方も死なないで。私を守り抜いて」
リリアの姿をしたルシエルは、両手で姫君の頬を包み、紫の瞳を閉じて固く接吻した。
これは夢の中ではない、ただ一度だけの"本物"の接吻だった。
リリアはそのまま振り返ることなく、また森の中へ飛び出していった。
追手はしつこく、サバトの生贄を求めてひたすらに馬車を追う。
火喰鳥の業火に焼かれ、ルシエルの繰り出す衝撃波に五体を引きちぎられても、ただ欲望と殺戮の快感を求めてすがりついてきた。
馬車は、森の抜け道を猛スピードで駆け抜けていた。
泥濘んだ道が車輪を軋ませ、木々の枝が屋根を叩き、土煙が後方を覆う。
レジナルドは御者台で手綱を握りしめ、馬を叱咤する。
息が上がる中、彼は後方から迫るドローンの羽音に気づき、舌打ちした。
「お前らほんま、しつこいねん……!」
殿で、親の火喰鳥がドローン魔獣の群れを焼き払っているが、それらは次から次へと雲霞のように湧いてきて止まらない。
しかし、突然——少年の声がした。
「あっちだ」
御者台の横に、ほの白いオーラに包まれた魔族の少年が、音もなく浮かんでいる。
高速で疾走する馬車の隣に並び、その髪を風にゆらめかせながら、まったくの無表情でその方角を指さしていた。
15歳ほどの年齢にしか見えないが、別の家門の従者らしい、控えめな黒の衣装を纏っている。
「この道を左へ。森の抜け道がある」
レジナルドは一瞬驚いたが、子ヒクイドリは少年を攻撃しない。
むしろ並んで飛んでいる——妖鳥が、この不思議な少年を、敵と認識していないことを示していた。
少年の態度には、年齢に似合わぬ落ち着きと、冷静さがあった。
白いオーラが淡く揺らめく。
レジナルドは、同じ従者としての振る舞いから、自然と彼に対して信頼を寄せられると感じた。
「わかった……!」
馬車は少年の指示通り左へ急旋回する。細い獣道を抜け、木々が密集した暗闇へ突入する。
ドローンの羽音が徐々に遠ざかり、赤い単眼の光が森の闇に飲み込まれていく。
「……見失ったか」
馬車は森の抜け道を抜け、一時的な安全圏に滑り込んだ。
レジナルドは御者台で手綱を緩め、息を吐いた。
——ひとまず、追跡を振り切った。
気が付いたときにはすでに、魔族の少年は霧のように森の中に姿を消していた。
火喰鳥の親子は警戒を緩めず、ゆっくりとレジナルドの周囲を見守ってくれている。
馬車の中のリーザに声をかけていると、追手を巻いたリリアが戻って来た。
「よくやった、レジナルド。――大成功だ。
これからお前とリーザを古代詠唱で、無理やり魔界へ転送する。
女中頭のミス・アルマが、向こうでお前たちを”受領”する。すぐにリーザを、俺の私邸に隠すんだ。そのあとの事は、……なんとかするしかない。」
早口で、興奮を隠しきれないまま一気に言った。
未契約の人間を、魔界に持ち込む……
これが発覚すれば、かろうじて持ちこたえてきた公爵家を破滅させるであろう、大変な掟違反だということは十分すぎるほど理解っていた。
しかしもう、他に手段は残っていなかった。
「……ただもう、精神波の消耗が激しい。ここにあるリリアの肉体だけでは、陣を描くだけの魔力が足りない。俺の”本体”を持ってくる。戻るまで、ここに隠れていろ」
レジナルドが答える前に、ルシエルの意識は淫魔の仔から離れた。
レジナルドはふらふらと倒れかかる彼女を支え、血まみれの小さな体を抱きしめた。
「レジナルドさん……良かった」
リリアの中に吸収された、ソフィアの心が安堵にゆらめくのを感じた。
(おっしゃあー♡勝ったでぇー♡)と、彼の口真似をしてはしゃぐ、ソフィアの甘ったるい声が聞こえるようだった。
「――よぉ頑張ったな。お前らのおかげや。ありがとう……」
リリアの中の二つのぬくもりが、レジナルドの心を締め上げ、とめどなく涙が溢れた。
*
サバト会場では、実況中継が混乱に陥っていた。
「え――映像が一時的に途切れているようです。繋がり次第、最新のリーザ姫追跡の状況をお伝えいたします……注目の展開は、CMのあとで!!」
司会者の声が上ずり、明らかに動揺の色を隠しきれていなかったが、実況中継はまた、当然のようにスクリーン上で広告映像を垂れ流し始めた。そしてなかなか再開しないまま、時間だけが過ぎていく。
「おい、どうなってんだよ?」
「ドローンなにやってんの!?」
「逃げられたwww」
「ヒクイドリチートすぎだろ」
「ルイーゼ姫どこ!? おい早く探せよ!!」
コメント欄が爆発的に流れる。
貴賓席でほとんど眠りかけていたルシエルは、少しずつ意識を取り戻していた。
森の中で、爆裂的な魔力の放射を続け、破壊の限りを尽くしたリリアの肉体から、少しずつ精神波を取り戻していく。
魔族の姫君たちに弄ばれ、衣装は乱れ、からだ中に淫らな口づけの痕をつけられた姿で、はっきりと彼の中に思考が戻っていた。
纏わりつく女体の白い腕の隙間から、冷たい水を取って口を漱いだ。
この陰惨な”花嫁狩り”競争に、ルシエルは勝利した。
ドローン魔獣の追手を振り切り、下級悪魔を焼き払って、リーザを安全な場所に確保している。
もう、このサバト会場に残っている必要はなかった。
魔界の公爵としてのルシエルは、フォルネウス男爵の世紀の大失態イベント――生贄のささげられない空虚な饗宴に留まるのは飽き飽きだというような風情で、早々に退席するだけでよかった。
音もなく、フォルネウス男爵が貴賓席に入ってきた。
慇懃なにこやかさの下に、生まれながらの卑しさを含んで微笑んでいる。
「残念ながら、饗宴の捧げものは届かないようだ。私はもう失礼させていただくとする。大変に興味深いイベントだった、フォルネウス男爵」
乱れた襟を直しながら、ルシエルは冷たく言い放った。一刻も早く、この場所を立ち去りたかった。
「ルシエル公爵閣下。ここまでの私の拙い演出にご満足いただけず、大変に恐縮至極でございます。ご家中の方をお呼びいたしますので、それまで別室にてお寛ぎくださいませ」
貴賓席からの、速やかな退出を強いる口調だった。
「図らずも帝王サタン様のご嫡子様、アスモデール殿下がこちらにご臨席いただけることになりました。もう間もなくのお越しでございます……いえ、お早いことだ。もういらっしゃいましたな」
フォルネウス男爵の眼が、爛々と輝いていた。
男爵は興行師として、王族の登場に卑屈な喜びを隠しきれなかった。
「ここからが饗宴の最高潮となります。美しい花嫁、プリンセス・ルイーゼももう間もなく、この会場に運ばれてくる予定です。まったく良いところでお帰りとは、わたくしも残念でなりません。ルシエル公爵閣下」
花嫁狩りは、終わっていなかった――。
(馬鹿な……何が起きている)
ルシエルは混乱していた。ついさっきまで、彼はリリアの姿を借りて、リーザと共にいたはずだ。
「もし宜しければ、別室で最後までご覧になられては?
アスモデール殿下が、美しい生贄・ルイーゼ姫を犯し、むごたらしく屠る瞬間が待ちきれない――過去最高の盛り上がりになること間違いございません」
貴賓席に、賑やかしく配下に囲まれたアスモデールが現れた。
男爵は慌てて頭を下げ、
「殿下……お早いご来臨、誠に恐悦至極に存じます……!」
と媚びを丸出しにしてすりよった。
美しき生贄は、その場の最上位の悪魔に捧げられる……
フォルネウス男爵が催す”饗宴”、その最上席の賓客が、差し替えられた瞬間だった。
アスモデールが、冷たくルシエルを見下す。
ニヤリと歪む唇を開いて、「ああ、卿はまだいたのか」とだけ言った。
「ここは俺の桟敷だと聞いていたが、まだ違うのかな?」
と、フォルネウス男爵に尋ねた。




