2話 高貴な御身の姫君を…
夢の空間は、魔界の森の奥深く、東屋の周りを薄い霧が包む。
リーザは白いドレスを纏い、一枚の姿絵のように静かに座っていた。
月光が彼女の金糸のように細い髪を照らし、冷たい霧がしっとりと重く濡らしている。
「あ、あのっ、恐れながら、リーザ様とお見受けいたします!」
突然、可愛らしい女の子の声で話しかけられて、リーザは驚いた。
振り返ると、不思議な少女が立っていた。
薄い灰色がかった青い髪が、柔らかな月光の下でかすかに銀色に輝いていた。
そしてその背にある小さなコウモリの翼。
尻の後ろで恥ずかしげにうねっている細い悪魔の尾が、彼女の属する世界をはっきりと現わしていた。
この少女は、人間ではない。
「貴女は、どなた?」
臆せず、リーザは問い正した。
少女は少し首を傾げ、丁寧に言葉を続けた。
「こっ…高貴な御身の姫君に名乗るような者ではございませんが、この領地はわが主人のもの。勝手にお立ち入りいただくことは出来ません」
その言葉遣いは、魔界で最も低位とされる淫魔の仔に相応しくないほど、驚くほど洗練されていた。
まるで古い宮廷の侍女のように礼節をわきまえ、高貴な姫に対する畏敬と、微かな緊張を湛えている。
リーザは少女の瞳を静かに見つめ返した。
人間の姫として、魔族の少女の言葉に一瞬の違和感を覚えた。
「あなたの主人のご領地だとおっしゃるけれど……ここは私の夢の中だわ。それをご存じで、主人の名を出さずに私を非難するのは、やはりおかしいのではありませんか?」
(……この場所が夢だと気づいているの?)
少女——リリアは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
尾の動きがわずかに止まり、小さな角が月光に影を落とす。
「それは……」
突然、リリアの耳元でルシエルの叱責が飛んだ。
木の陰にいるはずの主人の精神観応だ。
(リリア、このバカ! 領地をどうのこうの、何をモタモタしてるんだ!これじゃ夜が明けてしまう。何を馬鹿丁寧にやってるんだ!)
ルシエルのいらだちが頂点に達しているのが、ぴりぴりと静電気のように伝わってくる。
(そうは仰ったって……! わたしだって、一人でにんげんと喋ったことなんて有りませんよぅ……)
(嘘をつけ、お前たち理由をつけては人間界で男を漁って回ってるだろうが!)
(あれはソフィアが無理やり……わたしはほんとは嫌なんですっ……)
リーザの見ている前で、淫魔の少女の顔つきが変わる。
小さな角がぴくりと震え、尾の動きが止まり、瞳がどこか遠くを見るように揺れる。
まるで、誰かと頭の中で激しく言い争っているかのように。
(……?)
リーザは眉をわずかに寄せ、少女が一人でぶつぶつ呟き、時折首を振ったり尾をくるくる巻いたりする様子を、完全に「???」という顔で見つめていた。
淫魔の仔は口を動かさず、明らかに誰かと会話をしている。
時折、耳元でピリピリとした空気が伝わってくるような……
(いいか、お前の主人であるルシエルが、淫魔の仔、お前に命ずる。リーザのすべてを、お前の”呪われた部分”、その魔性の力で支配しろ。十二夜が終わる前に、いますぐ)
双子の淫魔の片割れであるリリアだけが持つ特異な魔性。その力で姫君を魅了し、夢の深みへ誘うこと。
冷酷な主人、暗い渇望に滾ったルシエルからの、これは最後通牒だ。
できそこないとは言え、リリアも淫魔の血を受け継ぐれっきとした魔性。
ただそれしきのことが、出来ないわけもない。
(わたしだって、吸精淫魔よ。ご主人様を失望させることは出来ないわ)
決意を固めて、姫君を見据えたリリアを、リーザは不審そうに見つめなおした。
「どうなさったの?」
リリアは慌てて姿勢を正し、赤くなった小さな角を震わせながら、
「え、えっと……その……わたくしは……主人の命にて……姫君には…大変ご無礼を……つかまつりますっ!」
淫魔の仔が二・三度、バサバサッというその不吉な羽音を立てたかと、突然リーザの後ろに回り込んで姿を現し、姫君をきりきりと羽交い絞めにした。
「姫様を、魔性の蜜の世界へお連れ致します!」
その瞳に、妖魔のもつ本性…凄まじい渇望の光がみなぎっている。
「やったぁリリアが捕まえたぁ~! いっぽぉーん! それ、堕っとっせ♡ 堕っとっせ♡」
大はしゃぎのソフィアを横目に、ルシエルもその光景に目が離せなかった。
「何をするの…!」
リーザがその眉をしかめ、逃れようと身をよじってもがく。
そして——
リーザの体は、まるで水のように滑らかに動いた。
城で幼い頃から身につけた、最小限の護身術の心得だ。
それは、華麗なものではない。
リーザが淑女として生きる上で、婚礼の日までその純潔を守り抜くための、簡素で実践的な動きだ。
彼女は肘を軽く引き、
リリアの腕を内側から押し開くように捻り、
同時にドレスから白い足を素早く振り上げて、
——淫魔の仔の体をぱあん! と鋭く払った。
「きゃああっ……!」
リリアは小さな悲鳴を上げ、華奢な体がくるりと宙を舞う。
尾がびゅん! と巻きつき、小さな翼がバタバタと羽音を立ててバランスを取ろうとするが、そのまま凍えた小鳥が落ちるように、あっけなく地面に転がった。
「……え……?」
リリアは目を丸くして、地面に尻餅をついたまま固まる。
尾が情けなくぴくぴくと痙攣し、しょんぼりと垂れ下がる。
完全に歯が立たない。
リーザは静かに息を整え、倒れた少女を見下ろす。
そ
の瞳に、わずかな驚きと、ほんの少しの——呆れが浮かんでいた。
(……この悪魔の娘…ぜんぜん強くない――)
そして完全に勝ち目を失っている、哀れなリリアの唇がわなわなと震え、突然大きく開いたかと思うと――
「お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛……お前わぁぁぁぁぁ……!!l」
狂ったように鳴り響く鐘楼の鐘のように、突然の怒号が空間に張り詰めた
「リリアァァァ……!!おまえは何をやってるんだ――この役立たずめ――!!!!」
その声はルシエルのものではない。
彼の命令にただ従うだけの哀れな淫魔の仔。
リリア自身の口から発して、主人であるルシエルからの厳しい叱責が彼女に向けられているのだった。
「おまえは……!お前は人間ひとり、まともに捉えることも出来ないのか――!!
馬鹿……!見ろ、もう月があんなに傾いて…」
自分の唇が、激高した主人の念話に完全に乗っ取られている。
そのことに気づいて、リリアはおろおろと掌で口元を押さえようとするが、罵倒の言葉は止まらない。
「このグズ!――のろま!何をやっている、さっさと片付けるんだ――!!!!」
あーあ、と情けなさでいっぱいになりながら、ソフィアは天を仰いだ。
そして、木の陰から役に立たないリリアへの怒りの発露が止まらないルシエル卿の脇腹をつついてやる。
「ルシエルさまぁ――、駄目ですよ…!念がつよすぎて、全部リリアが口から喋っちゃってますぅ!お姫さまにもぜーんぶ聞こえちゃったじゃないですかぁっ」
この時になってようやく、ルシエルも我に返った。
「見てくださいよぉ、お姫さまもびっくり意味わかんなすぎて、完全にドン引きしてるじゃないですかぁ――」
魔界の公爵である自分が、こんな木陰に隠れて声を荒げるとは…。
「それに淫魔は弱っちくて、能力ったって飛行するとか誘惑することしか出来ないんですぅ~、腕力なんて普通の女の子とほとんど変わらないんですからっ」
「それにしたって――リリアが弱すぎるだろう」
「ルシエル様もだけどぉ~…魔界のオトコって、いっつも魔力の腕力づくで女の子抑えつけて寄り添っちゃうのが当たり前だから、そーゆとこ判ってないんですよねぇ~」
流石に主人に対して無礼すぎるだろう、とルシエルは睨みつけたが、淫魔の仔は叱られることなどお構いなしで、目の前の光景を指さした。
「ほらぁ~もう見てくださいぃ……あれじゃ姫君とリリアの追いかけっこで、十二夜が終わっちゃいますぅー」
もう終わりだ。
さすがのルシエルも頭を抱えたくなる。
臆することなく、最初から堂々とリーザ姫の前に姿を現せばよかったのだ。
なぜそうしなかったのか――
もうすぐ、リーザの夢が閉じる――。
「あー、もう見てらんない。9回無死満塁の大ピンチで打者ペタジーニって感じ~!」
「お前が何をいってるのかわからんが、この状況がどうにかなるなら行ってくれソフィア。もう俺はとても立っていられない」
「もーお、ルシエルさまったら。こういう時だけボンボン育ちなんだからぁ~!困ったお方ぁ♡」
「はやく行け」
ルシエルは頭を抱え、力なく古い苔むした樹に身を預ける。
「よーし、ルシエルさまの大ピンチに、抑えの切り札!圧倒的クローザー、ソフィアが、マウンドに降臨~~っ♡淫獄の大魔神ソフィア様の、キレッキレの変幻自在がお姫様にストラァァァイク~~っ♡ 完全篭絡!!」
ソフィアの背中の小さな翼がバサバサッと羽音を立て、ルシエルの霧に濡れた髪を無遠慮に払いながら、凄まじい勢いで急上昇していく。
「ここはソフィアにお任せっ♡ どんな気位の高いお姫様だって、この魔性の力で、甘い夢に堕としちゃうんだからっ♡」
ソフィアの豊かな編み込み髪が、重力にふわっと一瞬もちあがり、そのまま二人の美少女たちに向かって降下していく。
彼女の瞳は、渇望の光を湛え、赤い舌をぺろりと舐めて、獲物を前にした獣のような笑みを浮かべていた。
リーザはリリアの腕を振り払った余韻で息を整えていたが、上空から迫る新たな影に気づき、わずかに瞳を細めた。
(……もう一人?)
ソフィアの急降下は、まるで空を裂く黒い矢のように速く、リーザの前に着地する寸前で、ふわりと翼を広げて減速した。
その勢いで白い霧がうずを巻き、甘い香りが一瞬にして辺りを満たす。
「こんばんわぁ~、姫様~♡ !っていっても、十二夜がおわったらもうすぐ朝になっちゃうんでぇ~。ちゃっちゃっと私、ソフィアがお相手しますぅ……♡」
ソフィアはゆっくりと立ち上がり、小さな赤い舌をぺろっと出したあと、リーザの白いドレスに視線を這わせた。
その目は、獲物を味わう前の獣のように、期待と欲望で輝いている。
リリアは地面に転がったまま、尻尾を丸めて縮こまり、
「ソ、ソフィア……! 来てくれたの……!」
哀れな声で口をわななかせた。
(ほーんと、リリアってば、”できそこない”なんだからっ)
ソフィアは聞く耳持たず、リーザに向かって一歩踏み出した。
いまにも消え去りそうだった夢の空間が甘く、重く、熱を帯びていく。
白い霧が二人の間を漂い、月光が彼女たちの肌を照らす中、ソフィアの指が、ゆっくりと、リーザの青ざめた頬にむかって伸びていく——。
(……さぁ、いらっしゃい♡……かわいいお姫さまッ♡)
リーザの瞳に、わずかな警戒と、ふしぎな困惑の光が宿る。
この少女の肢体からは、不思議な甘い芳香が漂っている。
魔に、魅入られる――。
気づいた時には片腕を取られ、リーザの唇に、ソフィアのそれがそっと重ねられていた。
その瞬間、夢の景色が揺らいだ
「あっ……」
ソフィアは、震えるリーザの手首をつかむと、姫君をそっと東屋の奥へ誘っていく。
(さぁ、夢の奥の、またさらに奥にようこそ…♡)
いままさに終わろうとする夢のなかへ、魔性の蜜が浸食していく――。




