1話 十二夜の再会
運命のサバト、その数か月前の魔界の深部。
七十二柱の若き魔王であり、すでに隠居した父・ハデス公の爵位を継いだ貴公子ルシエル卿が治める、魔界でも最も暗い場所にある広大な領地。
その闇の向こうから、少女たちの呼び声がかすかに聞こえてきた。
ルシエルの愛玩動物である双子の淫魔、リリアとソフィアは、小さなコウモリの翼で飛び回り、細かな霧雨の降る夜の森に怯えながら、主人の姿を探していた。
「ルシエル様! どこにいらっしゃいますか…! お返事してください――!」
「ルシエルさまぁ~!どこぉ~?」
空気は甘く湿り、媚薬のような匂いが漂う。
古い木々が空を覆い、葉から絶え間なく細かな雨が滴るこの暗い森は、どこまでも続くルシエルの領地だった。
「ねぇリリア……もうお屋敷に帰ろ。こんな真っ暗で広い森の中で、どうやってルシエルさまを探せばいいのよぉ」
道半ば、そんなに飛行しないうちからすっかり疲れてしまったソフィアは、もう帰りたくてたまらない様子だった。
「そんなこと言ったって、ルシエルさまが念話を飛ばして私を呼んだんだもの。いちばん北の東屋まで、すぐ来いって」
「東屋なんてちっとも見えないじゃん。もうずーっと、森の端っこまでぐるぐる飛び回って来たのにぃ」
すっかりやる気を失って、大きな古い木の下に座り込んだソフィアは、ぷいっとそっぽを向いて不貞腐れてしまう。
もう一歩も動きたくない妹の姿を見て、リリアは深いため息をついた。
とにかく、この森のどこかにいる主人を探さなければ。
暗い森の中を彷徨い続け、文句ばかりのソフィアを追い立てながら、リリアはやっと求める相手を視界に捉えた。
「ルシエルさま……!」
喜びと安堵から駆け寄ろうとして、リリアは歩みを止めた。
――ルシエルは、霧雨の降る森の木影から、ひとりの少女を眺めていた。
黒いマントを長身に纏ったこの若き魔界の公爵は、彼の左右に散らした短い黒髪と共に、ほぼ周囲の闇と同化している。
ただ、その美貌を象徴する美しい紫の瞳だけが、冷たく彼の”獲物”を捉えていた。
「あの娘……にんげん?! 一体どうやってルシエルさまの領地に入ってきたのぉ……?!」
驚いて素っ頓狂な声を上げるソフィアに気づき、ルシエルは人差し指を立てて静かに、という合図を送った。
双子は顔を見合わせて、そろそろと主人に近づき、影のようにぴったりと寄り添った。
「何か空気がおかしいと思った。今宵は十二夜のせいで、魔界と人間界を遮る帳が淡くなっている。ほら、見てみろ」
ルシエルが足元を示すと、少女のいる東屋の周りだけ、ぼうっと真珠色の霞が漂っていた。
「あの光の向こうは、この少女の“夢の中”だ。足を踏み入れれば、気づかれてしまう」
「気づかれないように、ここでずっと彼女をご覧になっていたのですね」
と、リリア。
「そう――ずっと見ていた。だが、俺の姿は見られたくない。だからお前たちを念話で呼んだ」
「悔しいけどぉ……あの子、とっても美人さん~。手も足もすらっとして、お肌もとっても白くて……きれい。」
いつも他人の悪口しか言わないソフィアが、思わず素直にそう漏らすのも無理はなかった。
その少女の姿は、暗い霧雨の中に際立って、光輝いて見えた。
白いナイトガウンは雨に濡れ、金色の髪が頬に張りついていた。
儚げなその姿は、霧雨の森の中で幻想のように見えた。
その少女――リーザは、蔦の絡まる古ぼけた東屋のベンチに腰掛け、ただ寂しげに、雨音に耳を傾けていた。
「俺は一度、あの夢の中に入り込んで、彼女……リーザに出逢ってる」
どこか寂しげな声で、美しい貴公子は呟いた。
「――彼女の記憶には残っていないはずだ」
「ルシエルさま、何だか悲しいお顔……」
ソフィアが顎の下から顔をのぞかせ、甘ったるい声で囁く。
そのまま雨に冷えきった体で、ルシエルにぴったりとくっついた。
「でも、お体はすっごく熱い♡ ……ここからあの子をのぞき見ながら、めちゃくちゃ魔性の本能めざめちゃってるぅ」
「――お前はバカだが、目ざといな」
ルシエルは低く笑い、ソフィアの頭を軽く撫でる。
だがその手は、どこか苛立っているようにも見えた。
ソフィアは嬉しそうに目を細め、さらに追い討ちをかける。
「ルシエルさま♡。 あのきれいな女の子は恋人?
昔なにかひどいことして、泣かせちゃったのかな♡
だから、こそこそ木の陰に隠れてんだぁ……?」
「ソフィア、いい加減になさい!」
リリアが慌てて妹の口を押さえようとするが、ルシエルは片手でそれを制した。
「リーザには、ほんのちょっと触れただけだ。俺も少年だったから、幼くとも高貴な御身には多少無作法だったかもしれないがな。まぁ……嫌われていても仕方がない」
はぐらかすような言い回し。
リリアは心の中でため息をついた。
ルシエルの言う「ほんのちょっと」なんて、信用できるわけがない。
この美しい貴公子の欲望が、「ちょっと」だけで済ますはずがないのだから。
ソフィアはくすくす笑いながら、ペット特有の馴れ馴れしさで、主人であるルシエルの胸に遠慮なく頰を寄せる。
「ふーん……♡ルシエルさま、嫌われるようなコトした自覚はあるんだ♡」
「いずれにせよ、彼女が眠りから覚めれば、この森と人間界との帳が降りてしまう。俺はもうしばらく彼女の姿を見ていたい。ただし“俺の姿は見られたくない”。わかるな?」
双子の淫魔は、お互いの顔を見合わせた。
「お前が行って来い、リリア。リーザはいま、悲しんでいるのだろう。あの時もそうだった。行って彼女を”なぐさめて”来るんだ。お前の可愛い温もりを使ってな」
「ええっ……わたしが、ですか?――そもそも、なんてお声がけすればいいのか」
「ときどき、お前は賢いのかバカなのかわからんな。まぁサキュバスとしては賢いほうだが……。俺は、とにかくリーザを”じっくり”と見たいんだ」
人間界の時間と魔界の時の流れはまったく違う。
リーザの夢の中に踏み込み、強引に抱き寄せた華奢な体……そのあまりの軽さに驚いたことを、今もはっきりと覚えている。
小さな赤い唇の温かさ、細い彼女の首筋の震えも、何もかも。
(――もうずいぶんと大人になっているはずだ。)
――もしかしたら、まだ俺のことを覚えているだろうか。
しかし、十二夜の月はすでに傾き始めていた。
時間がない。
リーザの夢の扉が、夜明けとともに閉ざされる――。
「おいリリア、何をしてる、早く行け!」
強い口調で叱られ、リリアはびくんっと肩を震わせた。
おずおずと、何度も不安そうに振り返りながら、リーザのいる東屋へ歩いていく。
(――ルシエル様は、前からずっとあの子のことが好きなんだわ……)
リリアの“声”が不意に聞こえてきて、ルシエルは苦く笑った。
悪魔が人間の女に向ける欲望は二つしかない。
貪ってから殺すか、殺してから貪るか。
あの時、リーザを殺そうとしなかったのは、ただの少年だった自分の未熟さだと、己に言い聞かせてきた。
だが今、十二夜の月あかりに垣間見た、美しいリーザの姿に、あの日の記憶が猛り狂う。
淫魔の仔……ソフィアが彼の欲望に反応したかのように、伸ばした白い手で彼の黒髪ごと引き寄せた。
甘えるように唇を重ね、念話でルシエルに囁きかけた。
(ねーねー♡ルシエルさま♡)
(馬鹿め。俺は昂っていても、お前の相手をしている暇はないぞ)
しかし、この若き魔王は目線だけはリーザ姫から動かさなかった。
唇を離し、すがりつく淫魔の仔を冷たく押しのけた。
「――熱い」
霧の中でじっとりと汗をかいている襟元を開いて、ルシエルは東屋の少女たちを見た。
今まさに――彼の支配下淫魔であるリリアが、そっと麗しのリーザの肩に触れようとしている。
そう、十二夜が終わる前に――少女はゆっくりと振り返った。




