35話 貴賓席からの眺め
最上段の貴賓席は、他の観客席とは段違いに広く、豪奢だった。
黒と深紅の絨毯が敷かれ、背もたれの高い漆黒の玉座のような椅子が中央に鎮座している。
その両脇には、魔界でも名の通った貴族の姫君たちが、甘い吐息を漏らしながらルシエルを取り囲んでいた。
魔界の高貴な女性に求められる美徳とは、人間界の淑女たちのそれとはまったく違っている。
すなわち淫蕩さや、肉体の性的な魅力、男を蕩かす本能――。
ルシエルの周りで、嬌声をあげながらまとわりついてくる貴族の姫君たちは、まさにそういう種族の女としての”最高級品”ばかりだった。
肌の露出が多い華美なドレスをまとい、歩くたびに金の装飾が揺れる。
首には宝石の首輪、腰には金の鎖が巻かれ、まるで生きた装飾品のようにルシエルに寄り添う。
「ルシエルさま……♡ こちらの葡萄、いかがですか?」
右側に座る紫髪の美女が、艶やかな指先で一粒の黒葡萄をつまみ、ルシエルの唇に近づける。
「あーん♡」
ルシエルは面倒くさそうに、しかし拒否はせず、口を開けた。
甘酸っぱい果実が舌の上に落ち、噛むと果汁が弾ける。
「ん……悪くない」
その一言で、姫君たちは一斉にキャアッと小さく歓声を上げた。
「本当ですかっ♡ 嬉しい……!」
今度は左側の赤髪の美女が、膝の上へ遠慮なく手を伸ばし、距離を詰めて甘く身を寄せる。
「ルシエルさま……今日は随分お優しいお顔ですわ♡いつもはもっと……厳しいお顔でいらっしゃるのに♡」
ルシエルは冷たく笑った。
「そうだろうか?」
彼は軽く首を傾げ、紫の瞳を細める。
姫君たちは、さらに熱っぽく身を寄せてくる。
身体を寄せ、甘い吐息を漏らす。
(ああ、息苦しい――)
全てが面倒になりふと見やったルシエルの視線の先に、奇妙な生き物が、音もなく飛び回っていた。
その大きな目玉で、魔界の有名人たるルシエルの一挙手一投足を捉えようと、執拗に蠢いている。
このサバトの現場となる古城、そして花嫁狩りの現場となる森を、無数に飛び回っている小型飛行魔獣の一つだ。
(……ふん)
会場に拡大していく大きなスクリーンに、ルシエルが葡萄をあーん♡されている映像が、数十秒遅れで映っている。
サバト会場に占める女性魔族たちのキャアアアアアアアという悲鳴、絶叫が響き、そのたびにくどいほど、この若く美しい公爵の口元がアップになる。
(なんなんだ、この雰囲気は――)
とにかくすごい数の小型飛行魔獣が会場を浮遊している。
魔界の欲望をすべて映し出し、魔力網に載せて、どす黒く拡散していく。
サバトの現場となった、黒い結界に守られた古城は、人間界にありながら、まさに邪悪な中継基地と化していた。
軽薄な司会者の声が、けたたましい音楽とともに、古城全体に響き渡った。
「さぁさぁ皆様!これより最後の目玉——オルヴェス王国の第一王女、ルイーゼ・ディノクタス・オルヴェスの花嫁行列襲撃を、ライブでお届けいたしますぅ!」
歓声が沸き起こる。
「それでは、ここまでの"花嫁狩り"の光景を、リプレイで振り返ってみましょう〜!」
瞬間、巨大スクリーンが切り替わる。
これまでの花嫁狩りの「珍プレー好プレー集」が、華麗なBGM、軽快なナレーションとともに流れ始めた。
最初に映ったのは、火炎の渦に包まれた銀髪の令嬢だった。
下級悪魔が炎の鞭を振り回し、彼女のドレスを一瞬で焼き払う。
「あーあ、死んじゃったぁ~」と軽薄なナレーションに、会場がどっと沸く。
次のシーン。
引きずられていく、黒髪の姫君。
悪魔が彼女の髪を掴むと、髪飾りがこぼれる。
悪魔が笑いながら、彼女の首を掴んで生贄台に捧げようとした時。
下級悪魔が興奮のあまり、力を入れすぎたのだ。
「大チョンボ~!首が飛んじゃったよぉ」と、また軽い調子のナレーション。
さらに軽快な音楽と共に、生贄の美女たちの断末魔の叫びが響き渡り、BGMが最高潮に達する。
「だめだよぉ~!だーれも生贄を生きて連れてこないじゃーん」と、オチをつけると、会場は一斉に大爆笑する。
スクリーンの下には、欲望と残虐さが入り混じった、狂気のメッセージが乱打されていく。
貴賓席のルシエルは、静かにスクリーンを見つめていた。
姫君たちが彼の膝に頰を寄せ、内腿をさすり続ける中、彼の表情は変わらない。
(もう少し、意識の配分をリリアに移すとしよう)
紫の瞳の色が、少しだけぼんやりと薄くなっていく。
しかし、残された意識の中で、彼の一番根元にあるもの――激しい怒りの感情が、確かに燃えていた。
レジナルドの報告書にあった、魔界の下級悪魔が書き込むという下劣な掲示板。
リーザのプライベートを盗撮した画像に付けられた、下卑た、卑猥なコメントの連投。
怒りに駆られて――ネット初心者のルシエルが、「お前たち下賤の悪魔が汚い妄想書き込むな」などと書き込んだ瞬間から、匿名の下級悪魔どもに寄ってたかってボコボコにされた記憶が、今のスクリーンに溢れるチャットと完全にリンクしている。
「ルシエル卿(偽)あぼーん」
「こんなキモい奴がいるから姫スレ荒れるんだよな」
「マジで消えろ」
あの時も、身分も何も関係なく、ただの文字の羅列として、ルシエルは”叩かれ”まくった。
公爵の威光も、魔界の血筋も、通信世界の向こう側では通用しない。
匿名という仮面の下で、下賤な欲望だけが剥き出しになる。
今、スクリーンに流れ続けるチャットも、まさに同じだ。
身分も階級も、魔界の貴族だろうが下級悪魔だろうが、誰も関係ない。
ただの「欲望の塊」として、リーザを玩具のように扱う言葉が洪水のように溢れている。
ルシエルは貴賓席に深く腰を沈め、静かにスクリーンを見つめていた。
リーザを連れてきたとしても、果たして彼女はこの狂った"魔界"という環境を、生きていく場所として受け入れられるだろうか?
同じく人間であった自分の母は、この魔界をどのように思っていたのだろうか?
姫君たちが甘く囁き、内腿をさすり続ける中、彼の表情は変わらない。
だが、紫の瞳の奥で、燃えていた怒りの炎が、今、一層強く揺らめいている。
あの時の屈辱が、鮮明に蘇る。
今、目の前のチャットは、それを何倍にも増幅させたものだ。
リーザの名を呼び、彼女の身体を穢し、命を玩具にする——
それが、ただの文字として、魔界中に拡散されている。
(あの時と同じだ。いや……それ以上だ)
ルシエルはゆっくりと息を吐き、指先で貴賓席の肘掛けを強く握り締めた。
姫君の一人が、その変化に気づいて甘く囁く。
「ルシエルさま……どうかなさいました?」
彼は答えず、ただ静かに呟いた。
「いや、特には……」
その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
(お前たち下賤の悪魔ごときが、汚い欲望をリーザに向ける資格があると思うなよ。クズどもめ)




