33話 月光
魔界のルシエル公爵邸、最奥の私室。
十二夜の月が、巨大なアーチ窓から冷たく青白い光を投げかけていた。
ルシエルは寝台に腰掛け、黒いローブを羽織ったまま、膝の上に広げた古い詩集を無意味に眺めていた。
紫の瞳は、いつもより深く沈み、苛立ちと渇望と、抑えきれない不安が混じり合って、静かに燃えていた。
今夜は、十二夜だった。
今ではその魔力を借りなくても、ルシエルとリーザの夢の世界は、分かち難く強く、固く結びついていて、夜毎にはかない愛を交わし続けていた。
明日、リーザは他国への花嫁行列の輿に乗り、森に入る。
そこでフォルネウス男爵の罠が待ち受け、彼女は悪魔の饗宴の生贄として晒され、無惨に屠られる運命だ。
レジナルドはすでに覚悟を決めて、人間の身ながら命を賭けた特攻を申し出た。
ルシエルはそれを了承した。
だが、今夜だけは、何も考えたくなかった。
ルシエルは指先を震わせ、詩集のページを強く握りつぶした。
不安で、不安でたまらなく、吐き気がする。
彼女に迫るあまりにも大きな危機を伝え、何も出来ることはなくとも、せめて警告するべきなのかもしれない。
しかし、今夜だけは、リーザにそれを悟らせたくなかった。
(……リーザ……お前を、失いたくない)
夢の扉が、音もなく開く――。
*
リーザの寝室。
オルヴェス王国の王宮、最上階の王女私室。
嫁入り前夜の静けさの中、深い青のネグリジェを纏ったリーザは、ベッドに横たわり、目を閉じていた。
明日、彼女は他国の王子のもとへ輿入れする。
政略結婚の道具として、「ルイーゼ」ではなく「一国の王女」として。
心は重く、胸の奥に、ルシエルの影がまだ消えずに残っている。
愛を乞い、嘆き、怒り、そして苦しむであろう、彼に会うのが辛かった。
それでもリーザは、十二夜の訪れを待っていた。
夢の扉が、静かに開く――。
*
リーザは、霧に包まれた森の東屋に立っていた。ルシエルと初めて出会ったあの場所だった。
「ここは……」
月光が白いドレスを透かし、金色の髪を銀色に染める。
そこに、黒いマントを纏った姿で、ルシエルが静かに、ゆっくりと近づいてきた。
リーザの心臓が、激しく高鳴った。
「……ルシエル……」
ルシエルは、答えず、ただ、彼女の前に跪いた。
膝をつき、リーザのドレスの裾に、そっと額を寄せる。
「リーザ……」
声が、いつもより低く、震えていた。
「今夜だけは、お前を怖がらせたくない。ただ、お前と一緒にいたい」
いつもなら、激しく押し倒され、心ごとすべてを抱きすくめられた。
お前は俺のものだと吠え、唸り、リーザのすべてを奪いつくそうとするのがルシエルだった。
しかし今宵、ルシエルはそっと彼女の髪を撫で、額にキスを落とした。
リーザの息が、乱れる。
「……ルシエル……どうして……?」
ルシエルは、彼女の耳元で囁く。
「俺は……お前を失いたくない。お前が他の男の妻になるなんて、考えたくもない。
でも、お前を怖がらせたくもない。
だから今夜は、俺のすべてを、お前に預ける」
彼は、リーザのドレスの肩を押し下げ、ゆっくりと解きほどいていく。
「リーザ……愛してる」
リーザの腕が、彼の背中に回る。
「あ……ルシエル……私も……愛してる……」
二人は、溶け合うように、ただ深く、愛を確かめ合った。
すべては、凪のように優しかった。
ルシエルはただ、固くしがみつく彼女を抱きしめた。
「お前は俺のものだ……でも、お前が俺を選んでくれるなら、俺はお前のものになる」
彼の紫の瞳が、彼女の心を捉え、ひたすらにその愛を乞うていた。
「わからない……どうすればいいのか、私にはわからないの」
「――構わない。俺たちの夢は続く。お前が選んでくれ」
夢の中で、二人は、静かに、深く、抱き合った。
十二夜の月光が、最後の光をなげて、二人の影を優しく包んだ。




