32話 話題の中心
魔界のルシエル公爵邸、執務室。
夜の帳が降りた頃、レジナルドがようやく戻ってきた。
「閣下、ただいま戻りました」
ルシエルは執務机に肘をつき、顔を覆っていた手をゆっくり下ろした。
紫の瞳は疲れと苛立ちで曇っているが、レジナルドの姿を見た瞬間、わずかに見開かれた。
レジナルドは静かに頭を下げ、かすれた声で報告を始めた。
いつも通りの冷静さを保ちながらも、疲労が声の端々に滲んでいる。
「申し訳ございません……フォルネウス男爵との事前交渉は、失敗に終わりました。
リーザ姫を”花嫁狩り”のリストから外さない、というのが彼の回答です」
「男爵が断っただと? ――なぜだ」
レジナルドは深く息を吐き、慎重に言葉を選ぶように続けた。
「最初は恐縮しておりました。『ささやかな我がサバトに、公爵閣下がご興味をお持ちいただけるなど、光栄です』などと。
ところがリーザ姫の件を切り出すと、態度が一変しました。
『ああ、あの姫ですか……すでに広く告知済みでしてね』と、にこやかに、しかしきっぱり断られました」
レジナルドは一枚の羊皮紙を差し出した。フォルネウス男爵からの返信状だ。
丁寧な文面の裏に、嘲るようなニュアンスが滲んでいる。
「リストは魔界全土に公開済みで、生贄候補として『ルイーゼ姫』つまりリーザ様の名前がトップクラスに掲示されています。
姫のことはすでに魔界中の話題です。おそらく中継のスポンサー料も相当額を受け取っているのでしょう。
注目度がこれほど高いサバトで、『メイン候補を今さら外す』などという選択肢は、あの成り上がり男爵には存在しないようです」
ルシエルの拳が机を叩いた。低く響く音が部屋に広がる。
「わが家門も、とことん舐められたものだ」
「『もし公爵閣下が最上席の賓客としてご来場いただけるなら、もちろん特別に段取りをつけさせていただきます』……それが彼の条件です」
サバトの供物となった乙女は、その場で最も上位の悪魔に捧げられる。
彼女が衆目のなかで供物として捧げられ、悪魔の刻印を刻まれた瞬間、饗宴は最高潮を迎える――。
「……つまり、全魔界中継のなかで、俺がリーザをサバトの生贄として犯すことが要求されている、と?」
レジナルドは静かに頭を下げた。
「フォルネウス男爵は、閣下のような高貴なご身分の方が『自ら参加する特別なサバト』だと宣伝したいのでしょう。
下種な言い方をすれば……閣下の『タレント効果』を狙っているようです」
ルシエルの怒りが、頂点に達した。
執務室がみしみしと軋み、窓ガラスに細かなヒビが入る。
黒い貴公子として、その美貌をうたわれているルシエル公爵――。
彼が主となり、生贄の乙女を皆のまえで犯すサバトとなれば、抜群の宣伝効果で、魔界中を沸かせることは間違いない。
ルシエルは、何をするにも人の目を引く存在だ。
(この方は、ご自身の話題性にまだ気づいてはらへんねんな……)
レジナルドは内心でため息をついた。
自分が人間界の王宮で必死に裏工作を進めている間に、ルシエル閣下は例によって、魔界の「望まない話題の中心」に立っていた。
魔界貴族のバカ令嬢が運営するアカウントが、何も考えずにある盗撮動画を勝手に配信したからだ。
その動画の中では、魔界七十二柱の一柱であるルシエル公爵が、淫靡な社交場で、シャツからはだけた素肌を腹筋まで晒しながら、女淫魔たちに絡まれ、音楽に合わせ激しく腰を振って、踊りまくっている。
これが瞬く間に拡散し、無断転載を重ねながら、女性魔族を中心に淫stagramで大バズりしてしまった。
#るしえる様の腰ヤバ
#るしえるのこし
#VIPによんで♡るしえる
#公爵さまの腹筋♡
#るしえる様の腰でしぬ♡♡♡
#公爵さまに跨りたい♡
……という、目も当てられないハッシュタグが飛び交い、もはや炎上を通り越して、祭り状態。
動画のなかのルシエルは、黒髪を振り乱し、はだけたシャツからは鎖骨と腹筋を晒し、汗を散らして踊っていた。
何かを振り切るように激しく、身体の芯から湧き上がる衝動のままに。
その姿は、誰もが見とれるほど艶めかしいが――。
(いやいや、なにやってはるんすか、この公爵……)
魔界に戻り、その動画を目にしたレジナルドは、思わず凪の心境になった。
味方も多いが、それ以上に敵も多い。そして彼を利用しようとする者も、後を絶たない。
そう考えると、貴族というより実業家肌のフォルネウス男爵らしい、ルシエル卿の「話題性」を最大限に活かした下種な提案だと言える。
「リーザ姫の名前は、すでに『(確保待機)』の状態です。
花嫁行列が森に入った瞬間、下級悪魔の群れが襲いかかり、連行されて祭壇に上げられる……それが男爵の計画です」
ルシエルは立ち上がり、窓の外の闇を見つめた。
「……さて、どうやってこの盤面をひっくり返すかだ」
レジナルドは一瞬、目を伏せた。
銀縁の眼鏡の奥で、淡い灰色の瞳が揺れる。
彼は知っていた。
この先の言葉を口にすれば、ルシエルに殺意すら向けられるかもしれない。
それでも、主人の渇望を前にして、黙っていることの方が――彼にとっては耐え難い。
「閣下……叶いますならば、まずはお怒りにならずに聞いていただきたい案がございます」
ルシエルの眼が暗く光る。
「許す、言ってみろ」
レジナルドは喉を鳴らし、ゆっくり言葉を紡いだ。
声は低く、かすかに震えていた。
「サバトの供物となる乙女は、それを捧げられた上級悪魔のものとなります。
生贄台の上で乙女を供物として捧げ、サバトの主が自分の名を、生贄の肉体に悪魔の刻印として刻む。
――そのことによって、彼女はその上級悪魔の所有物として、魔界から認められるのです。
そこに、意思や契約は必要ない――」
ルシエルの眼光が、怒りに暗く燃える。
「お前は――自分が何を言っているのか判っているんだろうな、レジナルド」
レジナルドは視線を落としたまま、静かに続けた。
「現時点で、リーザ様は閣下の所有物となる"意思"がございません。
リーザ様の意思による"盟約"がなければ、彼女を妻として魔界に連れていくことも出来ない。
しかし、このサバトの場で、”合法的”にリーザ様を閣下の所有物とすることで、この二つの問題を同時に解決することが可能となります。――あくまで強制的なかたちとなりますが」
(あかん……閣下の目に殺意しか見えへん……)
レジナルドの胸が、むかつくほどに締めつけられた。
この提案がどれほど汚らわしく、どれほどルシエルを傷つけるか――彼自身が一番よくわかっていた。
それでも、彼は言葉を続けた。
「今はとにかく、リーザ様を魔界に移すことを優先すべきです。
彼女の意思に反してお心を深く傷つけ、強制的に連れ去ることで、お心はより頑なになるでしょうが――これは、ルシエル様の真のご希望を叶えるための”必要悪”と考えます」
「リーザを衆目の晒しものにし、金目当ての男爵風情の言うがままに、俺に生贄台の上で彼女を犯せというのだな、レジナルド。それがお前の考える最善の策なのか?」
まさに胸がむかつくほど、最悪にして最低の、汚ならしい策だった。
それでも――主人の渇望を前にして、黙っていることの方が、レジナルドには耐え難かった。
「リーザがそんなことを望むわけがない。
そして――下種な者どもの望むままに、俺が彼女を傷つけるようなことをするはずもない。
覚悟のうえで口にしたのだろうが――俺は心底、お前に怒りを感じている」
「お怒りはごもっともです、閣下。お詫びのしようもございません」
ばりん、と音を立てて、窓ガラスが数枚はじけ飛んだ。
ルシエルは荒く息を吐き、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……下がっていい、レジナルド」
忠実な従者は、無言で深く頭を垂れた。
ルシエルが、ぽつりと、ほとんど聞こえない声で呟いた。
「――いつも、お前には苦労をかけてすまない」
ルシエルは執務机に肘をつき、ふたたび手で顔を覆って黙り込んだ。
その姿を見て――、レジナルドは覚悟を決めた。
「閣下、私を”花嫁狩り”に参加させてください。
私は人間で、魔力を持ちませんから、一定の魔力以下、という参加条件を満たしているはずです。
私が他の下級悪魔からリーザ姫を確保し、場の混乱に乗じて奪取します」
銀縁眼鏡の下の眼差しは、死を覚悟した者のそれだった。
「馬鹿なことを言うな。下級悪魔どもが、魔術を駆使して殺し合う場だぞ。生身のお前が、そこでどうにか出来るわけもない。」
「閣下はずっと、ご自身で迷っておられたはずです。リーザ様のお輿入れのことを聞かれた時から。
ご自身で人間界に降り立ち、リーザ様を載せた花嫁行列を襲撃して、姫をその手に奪い去りたいと」
ルシエルは沈黙した。
それは、魔界の公爵位を持つ彼の立場では許されないが、ルシエルが恋人を現実の世界で腕に抱くことの出来る、唯一の方法だった。
人間界に出現し、彼の魔力を持って行列の護衛兵たちを焼き払い、花嫁輿からリーザを奪うことはごく簡単だった。
ルシエルの思うまま、一人の男として望むまま行動すれば、リーザをその胸に抱くことが出来る。
しかし、そこまでしても彼女の心は手に入らないだろう。
――そして、その行動によってルシエルとその家名は、確実に破滅する。
「私は自分の意思で、サバトの"花嫁狩り"に参加いたします。
混乱に乗じて、リーザ様を安全に確保し……閣下と直接会っていただきたいのです。
夢の中ではなく――生身の体をもった魔族と人間の男女として」
サバトの夜に限っては特別に、強大な魔力をもつ上級悪魔が人間界に降り立ったとしても、天界は見過ごすのが暗黙の了解だった。
しかし、レジナルドの献策はあまりにも無謀で、無茶だった。
誰よりも慎重に、準備を積み重ねて、合理的に、そして着実に成果を得る――これまでの彼の方針とは真反対の、全てをかなぐり捨てた命を賭けた特攻。
これが、今レジナルドに残された、ただ一つの献身だった。
「レジナルド、お前を"花嫁狩り"に行かせることにする」
ルシエルは短く言った。
「閣下、深く感謝いたします」
レジナルドは一瞬顎を下げ、もう一度、強い目で彼の主人を見た。
「我が身命をかけて、必ずやり遂げてご覧に入れます。
ですから貴方さまも、これが最後のチャンスだと、どうぞ覚悟を決めて下さいませ」
サバトの生贄としてリストアップされた以上、リーザの体とその命は、すでに魔界の手に堕ちている。生贄台に晒され、弄ばれた末に、残酷に屠られる運命だ。
生贄となる乙女を、同じ悪魔同士で奪い合うなら、リーザを強引に我が物にして、何が悪いと言うのか。
また以前のように憎まれ、耐えがたい嫌悪の表情を向けられたとしても構わなかった。
「リーザは俺のものだ。たとえ彼女が拒んでも、必ず魔界に連れ帰る」




